心療内科医のお気に入り。
すれ違いはじめるふたり。
辛いセイラの過去。
セイラの弟を迎えに来た大きな黒塗りの車に押し込むと、ようやく彼女は本来の仕事行くことが出来る。
走って職場に向かった由良は、店のドアを勢いよく開いた。
「いらっしゃいませ。」
柔らかな声で応じたのは、よく知っている掠れ声ではなかった。年頃の女性の高い声が愛想よく挨拶するのを聞いて店舗の中を見回すと、由良のエプロンを身につけた愛子が忙しそうに立ち働いていたのだ。
「えっ・・・?」
ストレートの黒髪を後ろで一つにまとめているのがまるでこの店の店長とお揃いのように見える。由良に気が付いて破顔した彼女が、にっこりと笑った。
「由良さん!待ってましたよ。」
「ど、どうして、愛子さんが・・・?」
客の出入りの多い時間帯で、店長のセイラは客の会計を済ませるのに手一杯だった。その様子を見て、慌てて由良も厨房へ入った。食洗機がいっぱいになっている。中身を出して、棚に収納しないと場所がなくなってしまうのだ。熱くなっているので厚手の手袋を着用する。
ホールには愛子がいてくれるのであれば、自分は裏方をやろうと急いで食器を片付けた。それが済めば材料の仕分け作業へ入る。セイラが厨房に戻って来たときにすぐに調理に入れるようにしておかなくてはならない。セイラの作業台がこれほど散らかっているのはとても珍しい。よほど今日は忙しいのだろう。
愛子が店を手伝ってくれている理由は後で聞けばいいことだった。今はとにかく働かなくては。
「由良ちゃん、来てくれたんだ、助かったよ。」
厨房に戻って来たセイラが整理された作業台の前に立って再び調理を開始する。
カフェなので作るものは軽食かスイーツばかりなのだが、数が多いのでセイラ一人ではとても大変だった。本来それほどたくさんの客に対応できるような店舗ではないのだ。紅茶は彼でなければならないが、コーヒーは由良でも淹れられる。三人で店を切り回してどうにかその日は凌ぐことができた。
閉店時間になってようやく一息つけた由良が閉店の札を玄関に出すと、愛子がエプロンをはずした。さすがに疲れたらしく、沈むように椅子に座り込む。てきぱきと閉店の片づけを始める由良を眺めながら、さすがだなぁと感心してしまった。若さゆえに体力が違うのか、慣れなのか。そんな二人のためにセイラは特製のワンプレートディナーを作ってご馳走してくれた。前菜からデザートまでが全て一つの皿に収まった女性向けのプレートだ。ランチタイムに何度か作って評判がよかったのでメニューに入れたものである。
「余りにも忙しそうだったし、わたし、しばらく仕事が午前中のみになるので、お手伝いを、と。」
「そうだったんだ。ありがとうね、愛子さん。助かったよ。」
愛子の手を煩わせる程忙しかったというのに、セイラは由良にはランチタイムには間に合わなくてかまわない、と言ってくれていたのだ。申し訳なくて、謝罪の言葉さえでなかった。
「今夜は私が愛子さんを送っていくね。」
ご馳走様をして合掌した由良がセイラにそう申し出ると、彼は首を横に振った。
「今日は、君は静流のところへ行きなさい。昼間連絡があったでしょう?定期的に面談をする約束を忘れてないかい?」
「あっ・・・忘れてた。今日は水曜日だったもんね。・・・アンディ達に会うのも久しぶりだな。大きくなったかな。」
食器を片付けてさっさと荷物を手に持った由良が名残惜しそうに振り返った。
「愛子さん、また、来てね。」
「はい。由良さんまた。」
「彼女は僕が送っていくから、心配しなくていいよ。」
セイラがそう言うと、安心したように彼女は店のドアをくぐって出て行った。
憧れのセイラに自宅まで送ってもらえることを知った愛子は、影でこっそり笑った。午後いっぱい労働しただけのことはある。破格の報酬だった。
「静流さん、というのは、お身内の方ですか?」
「うん。僕の叔父。医者なんだ。」
「お医者様と定期的な面談、ですか。彼女、どこかお悪いのですか?とても健康そうに見えますけど。」
「そうだね。とっても彼女は元気だよ。叔父は彼女がこの国に来た時から面倒を見ているから、心配しているんだ。まだ若いしね。・・・さ、これ以上遅くならないうちに送っていこう。本当に今日はどうもありがとう。」
エプロンをはずして上着を持ってきたセイラが愛子を促す。
「よかったら明日も来ます。」
「正直に言うと助かる。・・・どうにかして時給を受け取ってもらえる方法を考えてみるよ。」
バッグを手にした愛子とともに、裏口から店舗を出た。最寄の地下鉄の駅まで歩き始める。
「セイラのお役に立てれば、それでわたしは嬉しいです。お金なんか、いりません。」
長い金髪が覆う背中に、小さく、しかしちゃんと届くように呟いた。
「・・・そういうわけにはいかないよ。」
くすっと笑ったセイラが、笑顔のままで愛子を振り返る。
赤いレンガの大きな家の前で呼び鈴を押すと、短い応答と共にドアが開いた。柔らかな茶色の髪が縁取る優しい笑顔が迎えてくれる。
「こんばんは、シャーリー。」
「由良!ひさしぶりね。さあ、上がって。静流も待っていたのよ。」
暖炉に火の入った広い居間に通されると、ふわっと温かい香りがした。そして、歓声が由良を迎える。
「わああっユラだっ遊びに来てくれたのっ!?」
「ねぇ、ねぇ、泊まっていって!」
「ゲームしよ、ゲーム。ねぇねぇ!」
三人の男児が由良の身体に押し寄せる。静流とシャーリーの子供たちは今日も元気だ。三人の後からおっとりと立ち上がって由良のほうへやってきた二人の男児は、
「こんばんは、ユラ。」
「夕食は済んでる?お腹すいていない?」
と礼儀正しく尋ねた。皆、少し見ない間に、大きくなったような気がするのは気のせいだろうか。先日由良の誕生日にお祝いに来てくれたときよりも大人っぽくなった気がする。
五つ子の男児は、由良がこのサワタリ家に滞在していたときから彼女を慕っていた。静流もシャーリーも医師として働いていて、五つ子のお守りまで中々手が回らない。この家に滞在していた頃、由良は格好のベビーシッターで、彼らがくたびれるまで遊びに付き合ってくれる優しい同居人でもあった。
「こら、お前達、由良を放しなさい。彼女は俺の患者だ。」
廊下から入って来た父親の一喝に渋々由良から離れていく五つ子。『患者』と言われたらもう彼らには抗う術がないことを、幼いながら医師の息子として刷り込まれている。
「ご無沙汰してます、静流さん。」
「先月の・・・もう先々月になるか?由良ちゃんの誕生日以来だな。早速だけど、診察室においで。」
「はい。」
つまらなそうに舌打ちをする子供達を、シャーリーがたしなめながら子供部屋へ連れて行く。よい子はそろそろ寝る時間だろう。
同じ家の中にある別室へ歩き出すと、静流がぽつりと話した。
「セイラとはうまくやってるか?」
「は、はい・・・どうでしょう?どういうのがうまくやってるのかって言う基準がわからないから、なんて言っていいか。」
恐縮したように肩を竦めて答える由良は赤面している。その様子をみて安心したのか、静流はその童顔を綻ばせた。40過ぎにはとても見えない若い男である。
彼の診察室へ入り、久々のカウンセリングに少しだけ緊張する由良は、ラフな私服の上に白衣を羽織る静流を見上げた。もう休んでいた時間なのに、自分のために再び診察室へ来た仕事熱心な、あるいは甥っ子バカな静流にいつも感謝を忘れない。彼にけっして足を向けては寝られない思いだ。
いつも通りの問診を終えると、来週健康診断を受けに行くように由良に命じた。
「前にも受けるように言ったのに、ちっとも受けてないだろう。・・・英語がわからないから、なんていいわけはもう通じないぞ。結果もこちらへちゃんと報告されるからな。受けてなかったら次こそセイラに言うぞ?」
「・・・わかりましたぁ。」
保護者にまで報告されるとあってはのらりくらりと逃げているわけにも行かない。
学校はともかく、セイラの店は休めないのでなんだかんだと行くのを避けていたのだが、今ならば愛子も手伝いに来てくれている。どうにか健康診断にも行けるだろう。
「あのう・・・静流さん。」
「なんだい?」
「静流さんは、セイラの叔父さんで、と言う事は、侯爵家のことも当然ご存知なんですよね・・・?」
静流の表情が変わった。大きな目を丸くして、感心した、とでも言う風に。
「セイラがそこまで由良ちゃんに喋ったのか。・・・いよいよ、覚悟が出来たんかな、あいつも。」
「侯爵家の方から彼に接触してきたので、隠せなくなったというのが現状かと。」
「へっ?本当か?侯爵家の方から?」
「セイラが言うには、新しい当主さんが今年18歳になったから、・・・とか。」
「・・・そうだ。ユーフューズは今年18になるんだった。正式に爵位を継承できる。それで、おおっぴらに動き出したわけか。・・・忘れてた、あの生意気なクソガキがもう成人かよ。よそんちの子供ってのは成長がはええよなぁ。待てよ、ってことは、由良ちゃんと同じ年か。」
「はい。偶然にも。・・・静流さんは、どうしてあの兄弟があんなふうになってしまったのか、ご存知なんでしょう?」
神妙な顔で問いかけてくる由良は真剣そのものだった。
「んー・・・、そもそもの原因は、セイラの親父なんだ。もう死んでるけどな。あの男が俺の姉と日本へ逃げたのがマズかったんだろうな。まあ、誰だって人間だからさ、どこでどんな女とどういう風に恋に落ちるかなんてのは誰にもわからんわけで、それが貴族のお坊ちゃまだったセイラの親父だってそうだったわけだな。
とにかく、俺の姉とセイラの親父は関係を持って、本気になったから駆け落ち同然に日本へ逃げて行っちゃった。日本で鈴奈とセイラを産んだ後になって侯爵家がセイラの親父を連れ戻したわけなんだけど。侯爵家のほうもまたこんな簡単に駆け落ちなんぞされちゃ敵わんって言うんで、セイラを人質みたいに一緒に連れてきちまった。
セイラを日本から連れてきた意味は二つある。後継者としての意味と、親父がまた出奔しないようにするための人質と両方、な。俺の姉はいつまでもイギリスに固執しているわけにもいかなったわけよ。・・・何しろ、沢渡家の女には大事な使命があった。日本に残ってやらなければならんことがあったわけだしな。わかるだろ?」
「・・・はい。」
「だけど連れ戻されたセイラの方はたまったもんじゃない。あの頃、確かセイラはまだ4歳とかそこらだったはずだ。そんなちっこいガキがたった一人であのでっかい屋敷に残された。
親父は家出して駆け落ちまでしちまった手前大きな声でセイラを擁護することも出来やしねぇ。まして認知さえしてないんだ、自分の息子だって胸を張って言う事も出来なかった。侯爵家の跡取り候補だが正式な子供ではないセイラに対する風当たりは強かった。
だから俺が親権者になって引き取ろうとしたんだが、どんなにがんばっても、たとえ親権が俺にあってもあの家はセイラを渡さなかった。どうやって裁判所に手を回したんだかしらねぇが、親権者なのに手元で育ててねぇなんて奇妙な話、そうはねぇだろう。
・・・あの広い屋敷の中で、大人の顔色をうかがいながら必死で笑顔を引きつらせていたセイラの姿を俺は今も覚えているよ。そこら中で陰口を叩かれたり、嫌がらせをされてたんだろうな。週に一度しか会わせてもらえなかった俺は、セイラが痩せてこないか、虐待でもされてるんじゃないか、それをいつもチェックせずにはいられなかった。
それからすぐにセイラの親父は正式な結婚をしたんだ。望んだとか好きだとかそんな理屈はなかっただろうな。とにかく、セイラの親父を逃げられないようにするために、政略結婚って奴を急いだんだろう。
まもなく生まれたのが弟のユーフューズだ。彼が生まれたことで、セイラが侯爵家にいる意味は無くなった。だからと言って体面上追い出すわけにも行かない。その微妙な立場で、セイラは随分苦しい日々を過ごさなければならなかったんだと思う。それでも親父の侯爵が生きている間はまだよかったんだろうな。生まれたばかりの弟をセイラは可愛がっていたし、そういうセイラのことを、はじめは疎ましく思っていたユーフューズの母親もセイラに愛情を注ぐようになった。自分が人の親になって、セイラを可愛いと思うようになったんだろうな。二人は年の離れた兄弟で、いつも一緒に遊んでいた。侯爵夫人がそれを許していたので、他の誰も口を挟めなくなった。多分、侯爵家にいて、あの時期だけが、セイラがわずかに息の付ける生活だったんだろうと思う。
そして、セイラの親父が病死すると、いよいよセイラは居場所を失った。立つ鳥後を濁さずっていうくらいに綺麗に侯爵家を出て行ったんだ。侯爵家からやっと解放されたセイラは焦がれ続けた日本へ行くことができた。窮屈な侯爵家での暮らしに比べれば、たとえ身を隠す必要があったとしても姉である鈴奈の庇護の下で甘やかされて生きるほうがどんなにかよかっただろうって思うよ。鈴奈は難しい女だったが、セイラを不憫に思ってとても大事にしてくれたからな。だから俺はセイラは日本で幸せに暮らしていたんだと思う。きっと、な。」
日本で暮らしていた時のことは由良も鮮明に覚えている。もっともセイラは自分と出会う随分前に日本へ来ていたのだろうから、その頃の事までは知らないけれど。日本で、夢だったという喫茶店の経営者となり、姉の鈴奈の庇護の下、彼女を手伝いながら暮らしていた彼は多分幸せだったのだろう。少なくとも、侯爵家にいた時期よりも。
あの頃から、セイラはいつも、誰よりも、優しい人だった。
過保護な姉に愛されて、愛すべき仲間と一緒に同じ目標に向かって生きていたのだ。
「・・・由良ちゃん。」
ぽろぽろと涙を落としている自分に気がつかなかった。ハンカチを差し出した静流を見て初めて自分が泣いていることに気がついたのだ。
知らなかった。あんなにも優しい人が、そんなに苦しい少年時代を送っていたとは。
辛い思いをしているからこそ、他人の辛さがわかってやれるのだと、誰かが言っていた。
だからセイラはあれほど優しいのだろうか。彼が優しければ優しいほどに、彼が辛い目にあってきたのだと証明しているようで逆に悲しい。
・・・僕は日本人に憧れがあるから、黒髪で茶色の瞳の方が好きだな。
セイラの外見の美しさを宝石に例えて褒めたときに、彼はそう答えた。
彼が日本人でありたかったという言葉の奥に秘められた辛さに、また鼻の奥がツンと痛くなる。
・・・ああ、本当は彼はイギリスになど帰りたくなかったのだ。ずっとあのまま日本にいたかったのだろうに。
由良のせいで、帰らざるを得ない状況になってしまった。日本にいればそれなりの生活が約束され、彼の仲間がたくさんいる。面倒な身内はいない。外見のせいで目立つことさえ我慢すれば、きっと日本の方が彼に取っては生き易かったのかも知れないのだ。
由良が精神に異常をきたしてしまわなければ。その治療のために帰国しなければならない、という事態になんかなるはずなかったのに。
彼の幸福を邪魔してしまったのは、他ならぬ自分なのだ。
彼の叔父が語るセイラの少年時代。
涙無しには・・・。