唯一の従業員のお気に入り。
「髪を切る日」「珈琲と紅茶の日」の続編となります。
イギリスでのんびりと暮らす二人の日常が破綻。その原因はセイラの実家にありました。
およそ百年ほど未来の世界で暮らしている庄司由良は、先日誕生日を迎えて18歳になった。この未来の世界へやってきてから二年近くが経過しようとしている。
未来とは言っても、適応できないほど違うわけではない。自分の知らないことはたくさんあったが、ついていけないほどではない。どちらかというと、時代の違いに慣れない、と言うことよりも、日本ではないこの国で暮らしていくことの方がずっと大変だった気がするのだ。何しろ、由良はまったく英語が話せなかったのだから。
ロンドン市内の、学生街にあるこじんまりとしたカフェで由良は今日も労働に励む。サロンエプロンを身につけてお客が引いたテーブルを片付け始めた。店主の入れる紅茶と絶品のスィーツが評判のこのカフェは、昼過ぎの方が混雑する。
「セイラ!三番OKです!」
元気良く厨房に声をかけると、奥から背の高い金髪の青年が顔を出す。
白シャツに黒いエプロン、色の濃いパンツ姿の美丈夫は、店のメニュー以上に、女性客に人気だった。
「ありがとう、由良ちゃん。食洗機入ってくれる?」
店主は、ホールで女性客の視線を浴びつつ愛想のいい笑顔で答えながら指示を与えた。
「はあい!」
夕食時間の直前くらいの今の時間帯が、一番空いていると言っていいだろう。今の内に食器を片付けたいので、彼女に皿洗いを頼んだ。
窓側の席の二人連れだった女性客が席を立って、セイラの方へ歩いてくる。いかにも学生風な二人の女性は、一人はブルネット、もう一人はセイラと同様金髪だ。
「ご馳走様。木苺のタルト凄く美味しかったわ。また来るね。」
清算のためにカードをセイラに手渡す。ピンクのマニキュアを塗った指が軽く彼の手に触れた。ブルネットの方の女性だった。
「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしています。」
エプロンのポケットから小型の端末を取り出して手渡されたカードをリードする。両手で丁寧にそれを返すと、金髪の青年はにっこりと微笑んだ。愛想のよさでは天下一品だ。女性のような優しい顔立ちで、青い瞳で見つめられると女性客はわずかな間硬直する。
彼の笑顔に毒気を抜かれたような二人は、浮かれた足取りで店の出入り口をくぐって行った。
彼女達のテーブルの後片付けすませたセイラが、厨房に戻って来たときにポケットから小さな紙片をゴミ箱へ放る。由良は食器を棚に片付けながらもそれを見逃さなかった。
・・・まあた、お誘いのメモかぁ。
こっそりとゴミ箱を覗き込んだ由良はやっぱりな、と思う。
セイラを誘おうとして、清算時になんらかのメッセージを残していくお客さんは少なくない。ほとんどは女性だが稀に男性であることもある。そういうお客さんはこの店で唯一の従業員である由良がホールにいなくなると、彼にそうやって控えめにアプローチするのだ。
・・・日本にいてもモテモテだったけど、やっぱりお国にいても凄くもてる人なんだよね。
そんなモテモテな店長は、由良の保護者であり、また、彼氏と言ってもいい間柄だった。
閉店時間となり店内の清掃と片付けが済むと由良は帰宅の準備を始める。
セイラはその日の会計を計算中。合わないと大層困るらしく、数字に弱い由良にはお金の話はさっぱりわからないので、それ以外の仕事をしておくのが通常業務だ。
カウンターの内側で金髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら何度かうなった彼はようやく会計用の端末を閉じた。
「終わった?じゃ、私帰るね。明日はお店お休みだから、また来週。」
着替えの入った小さなバックパックを手に店の裏口へ回る由良を、店長は慌てて追いかける。
「もう帰っちゃうの?明日休みなんだから泊まっていって。・・・君の好きなタルト、今日は残ってるし。」
裏口のドアへ手を伸ばそうとする彼女を捕まえて、暗号を打ち込むパネルの手前に手をついた。
「宿題、あるんだよ。」
困ったように上目遣いで見上げてくる。彼女のその表情はかなり好きだった。
やらなくちゃいけないことがあるのに、甘い餌をまいて誘惑する悪い保護者は、長い金髪が顔にかかるのもかまわず彼女の左頬に軽くキスをする。
「手伝ってあげる。」
「ウソ。先週もそう言って手伝ってくれなかった。課題は自分でやるべきだ、とか言って。」
「手伝わなかったけど、勉強する時間と環境はちゃんと上げたはずだよ?」
「・・・ひどいや、セイラ。」
こんな綺麗な人が目の前にいて、宿題なんかが手につくはずが無いではないか。
そんな人が、いつ誘惑しようかと手ぐすね引いて待っている。そんな環境でどうやって集中して課題に取り組めというのだ。
元々由良は勉強が嫌いなのだ。仕方なく語学学校に通っているのは日常会話すらままならなかったからで、好きで行きはじめたわけではない。会話に不自由がなくなった現在も通っているのは学校に行く楽しさを捨てられないせいと、将来の進学や就職のために必要だからだった。英語では読み書きも満足に出来なかったからだ。
「お願いだよ。・・・君がいないと寂しくて死んでしまいそう。」
ウサギじゃあるまいにとんでもないことを言い出す彼に、すぐに白旗を上げてしまう。由良がいないからって死ぬわけが無いのに、いかにも真に迫った演技で言われると、負けてしまうのだ。
「わかった。でも、宿題は本当に手伝ってよね?」
「じゃあ、とにかく夕食にしよう。何を作ろうか、お腹が空いたよね。」
裏口のドアロックを再び厳重に設定しなおして、勝手に解除できないようにする。そこまでしなくても逃げはしないのだが、心配性な彼は由良を泊める時には決してそれを怠らない。
続いてしまってすみません。
この後も読んでくださると嬉しいです。