クロエの願い
ぎらつく包丁に震え、ベンは横に目をそらした。
そこで目に入ってきたのはダンベルだった。
母が、家にこもって仕事をしていると体が鈍る、といって通信販売で取り寄せたものだったが結局使わずじまいで、ほったらかしになっていた。なぜか重りがすべて右側に偏っている。
気づけばベンはそのダンベルに手を伸ばしていた。
それから何分後か。
ベンは父に馬乗りになっていた。父はもう息をしていない。
ベンの肩には包丁が刺さっていて、服が血で染まっていく。
ずきんと肩と右ひじが痛んだ。腕を持ち上げるとありえない方向に曲がる。
「俺が、父さんを殺した…」
ベンは立ち上がりふらふらと電話機に向かう。
その途中、母を見た。目を見開いたまま、息絶えていた。
クロエは、目を閉じていた。しかしベンが通った時、かすかに胸が動いた。
ベンは驚きながら、クロエのそばに跪いた。
「ベン…。私…」
「クロエ!生きていたのか」
ベンの目から涙がこぼれた。
「ねえ、聞いて。私の…話」
目をこすって、ベンは答える。
「もちろん聞くよ。だけど警察を呼ばなくちゃ」
電話機に駆け寄り、操作して「家族が血を出して倒れている!早く来て!」とだけ言って電話を切った。そしてクロエのもとに戻った。
「私…学校で苛められてた。エマと、サリーとキャンディスとあといっぱいの人に。それ…で病気になった…。ママは、ベンにはそれは言わないようにって言ってた」
「分かった。俺が復讐でも何でも…」
「ほら、こうなる。復讐はしなくて…いい。話したいことは他に…ある…」
「なんだ…?」
痛む右腕を押さえて、クロエの言葉を待った。
「パパは…ママを殺しに来た。怖い顔をして包丁を持っていたもの。とても怖かった。でもママが守ってくれると…思った。それ…でママが私の肩に手を置いたとき、安心した。でも、違った…。ママは私を盾にして包丁が私に刺さるよう…にしたの。それで逃げようと…した…」
「ママはパパに打たれて…死んだんだ」
「そうだよ。ベンはパパを殺してくれたね。ありがとう」
クロエが苦しそうにうめいた。
「クロエ…!」
「私は死んじゃう。でもそれでいい。だって…いじめられなくな…るから。盾にされることもなくなる」
「ママを恨んでるのか?」
「ママだけじゃないよ。みんな嫌い。大っ…嫌い。ベンは違うよ…」
「………」
「あ…もう…死ぬ。でも最後に言いたい。聞いて…」
クロエの口調は悲痛なものから強い意思を帯びたものに変わった。
「人は汚い。弱い…ひ…とを苛めて強くなろうとする。自分の…命が危なくなれば、他の誰かを…たとえ自分の子供でも、犠牲にする…」
「そうだね」
「平和なんてな…い。優しさも全部虚しい演技」
だんだんクロエの声が小さくなっていく。
「世界は醜いよ」
クロエが口を閉ざした。ベンは不安と悲しみに襲われた。
もうその時が、近くに来ている。
「だから最後にお願い」
クロエは閉じかけた目を、見開いた。
その瞳に激しい怒りを宿して。
「人をみんな殺して。私のために」
ベンの過去パート2




