08
登校したナオが席に座っていると、カズホが教室に入って来て、いつもどおり「おはよう」と言ってくれた。
「お、おはよう」
小さな声でナオも挨拶を返した。
一時限目は古文の授業であった。テストもない科目である上に、まるで催眠術師のような教師の声に、朝一番の授業であるにもかかわらず、クラスの半分は、夢の中を彷徨っていた。
ナオがカズホを見ると、カズホは何かを書いているようで、眠っているようではなかった。
今朝、自分の心の中では決着がついたと思っていたが、カズホの顔を見ると、もやもや感が蘇ってきた。
(やっぱり駄目だ。私って、こんなに引きずる女だったのかな?)
そんな時、折り畳んだメモ用紙が前の席からナオの机の上に置かれた。カズホが前を向いたまま、腕だけ後ろに伸ばして置いたようだった。
ナオがメモを開くと『休み時間に屋上に来てくれ』とあった。
休憩時間になると、カズホはナオの方を見ることなく、すぐに教室を出て行った。ナオは、ちょっと悩んだが、すぐに屋上に向かった。
屋上への階段を登り、ドアを開くと、金網に囲まれた屋上のスペースの真ん中にカズホが立っていた。他には誰もいなかった。
青空に心地よい春風が吹き抜けていたが、ナオはそれを感じ取れる気分ではなかった。
「ここは穴場なんだぜ。昼休みには、けっこう人が来るけど、休み時間には、ほとんど人が来ないんだ」
「……」
「昨日、水嶋が言ったことが、ずっと気になってて、なんか授業にも集中できないし、すぐに話をしたいと思ってさ」
「……」
「昨日、何かあったのか? それとも、俺、水嶋を苦しめるようなことを何かしたか?」
「ち、違います。佐々木君は何もしていません。私が勝手に……」
ナオは、その後、何を言えば良いのか分からず、口をつぐんでしまった。
「勝手に……? ちゃんと言ってくれよ。その上でも分かり合えないのなら仕方ないけど、今のままじゃ、さっぱり分かんないよ」
意を決して、ナオはレナのことを訊いた。
「あ、あの、佐々木君は、五組の立花さんとはお友達なんだよね?」
「レナのことか? 水嶋は、なんでレナを知っているんだ?」
(レナって、名前で呼んでいるんだ)
「ハルカちゃんが一年のときに立花さんと同級生だったみたいで、新入生歓迎ライブの時に、ハルカちゃんに紹介してもらったの」
「そうなのか。それで、レナのことが、なにか関係しているのか?」
「私にもよく分からないの。ただ、昨日、佐々木君と立花さんが、校門のところで仲良く話しているところを見てしまってから、私、なんだか変で……」
「変?」
「心の中がもやもやして、苦しくて……」
「……」
昨日の光景が頭に蘇ってきて、ナオの目からは大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「昨日、家に帰ってから色々と考えてみたの。私なりに出した結論は、立花さんに嫉妬しちゃってたのかなって……」
「嫉妬? 水嶋が?」
「私、佐々木君は、私にだけ微笑んでくれているんだって、自惚れていたんだよ。でも、立花さんにも同じように微笑んでいたことで、ドールで私に微笑んでくれていた佐々木君がいなくなってしまうような気がして……。佐々木君に微笑んでもらえる立花さんが羨ましくて……」
「……レナは、軽音楽部の元部員で、俺がいつもバイトしている立花楽器店の社長の娘だよ。俺とレナの関係は、それだけなんだけど」
「軽音楽部の元部員……。バイトしている楽器店の社長の娘……」
「ああ、そうだよ。だから友達かって訊かれると友達と答えるしかないけれど、それ以上でもそれ以下でもない。それから、昨日、レナと話していたのは、川村さんのことだよ」
「川村さん?」
「川村さんというのは、立花楽器店のリペアスタッフのチーフで、バイト先の俺の上司になる人だよ。とにかく個性的な人でさ、いくつも伝説を残しているんだ。昨日は、レナとその川村さんの話で盛り上がってたんだよ」
「そ、そうなんですか」
カズホの言葉に嘘の香りはしなかった。
「水嶋」
「は、はい」
「水嶋だって友達だと思っているぜ。少なくともレナよりは、……その、大事な友達だよ」
「……!」
「昨日、水嶋が早くドールから帰ってしまって、なんだかつまらなかった。ドールで水嶋とジャズの話や馬鹿話をして、時には水嶋を弄くって、水嶋と笑い合うのが、やっぱり楽しいんだよ。そう思える女の子は水嶋だけだよ」
「……」
「俺は、水嶋と友達であることを辞める気はないぜ。少なくとも、水嶋が嫌だって言うまではな」
「佐々木君……。私も……嫌じゃないです」
「それじゃあ、今までみたいにドールで話をしてくれるか?」
「……はい」
ナオは、心の中に充満していた黒い霧が晴れてきて、気持ちが軽やかになってきたような気がした。
(立花さんよりも「大事な友達」って言ってくれた。こんな私を……)
「恋」とか「好き」とかいう言葉が出なかったからか、いつもの呪文は湧き上がらなかった。そして「友達」という言葉は、今のナオには一番嬉しい言葉であった。
「でも、俺が他の女の子と話をするだけで妬いてくれるなんて、水嶋って、けっこう独占欲が強いんじゃないの?」
カズホにそう言われて、ナオは急に恥ずかしくなった。
「そ、そんなことはないです! 誤解です!」
「本当かな?」
「私が佐々木君を独占できるわけがありません! 佐々木君は、みんなの佐々木君なんですから!」
「でも、ドールでは、水嶋に独占されているけどな」
「そ、それは、佐々木君が……」
「ははは。そうだった。逆だ。俺が水嶋を独占しているんだったな」
「ど、独占だなんて……。こんな私と話をしてくれる男の子は佐々木君だけですから」
「まあ、そうだろうな。水嶋のボケに耐えることができるのは、俺くらいだろうからな」
「ど、どういうことですか~」
「『近寄るな危険』って貼り紙しておいた方が良いぞ」
「私は塩素ガスじゃありません!」
「ははは。何だか、いつもの水嶋に戻ってきてくれたような気がするな。放課後までに完全復活しておいてくれよ。水嶋を弄くれないと、本当に面白くないからな」
「わ、私は佐々木君の玩具じゃないです!」
「その調子その調子」
「もう~」
いつもの笑顔に戻ったカズホが腕時計を確認した。
「おっ、そろそろ休み時間も終わりだ。水嶋、教室に戻るぞ」
カズホは振り向いて階段の方に小走りに向かった。
「あっ、待ってください」
ナオも急いでカズホの後を追って行き、並んで階段を下りた。
途中の踊り場まで来た時、ナオは立ち止まった。
「佐々木君」
「んっ?」
カズホも立ち止まり、ナオの方を振り向いた。
「ありがとう」
「えっ?」
「佐々木君も私の大事な友達だよ」
ナオは、言った後、なんだか恥ずかしくなってしまい、一足先に階段を下りて行った。




