03話
もう大分忘れられている気がしますが。
翌朝、駅前の一等地に建つ巨大なビルの前に、ぽつねんと立つ1人の青年の姿があった。
さすがに都心部ほどではないが、中規模都市のオフィス街だけあり、通勤中のビジネススーツ姿の人たちが絶えず行きかっている。そんな中、数少ない私服姿という事もあり場違い感を覚えてどこか居心地が悪そうにした智之は、手元の地図とメモに書かれた住所、そして目の前の巨大なビルの間を何度も視線を往復させる。その表情は本当に目的地がここで間違っていないのかという疑念と不安がありありと表れていた。
――“アルトラ”
やたらと達筆な筆跡でメモ帳に書かれたその名前は、就職活動を行ってまだ1年も経っていない智之にも、さっぱりと覚えのない名前だ。もちろん全ての企業名を把握しているはずはないので当然といえば当然なのかもしれないが、4年間暮らしていたアパートから電車で30分という近場にこれだけの規模の巣を作られていたことにまったく気づいていなかった事実と、その行動原理の大部分が恐らく自分の近くに居るためだったであろう姉貴分の桁外れの行動力に若干の冷や汗が流れる。
就職活動中に何度か訪れたことのある目の前の真新しいオフィスビルの明るいエントランス、立地と環境のためか中々に有名な名前がずらりと案内板に並んでいるが、名だたる企業に混じって、"アルトラ"の名が記されていた。
いや、混じってというのは適切ではないかもしれない。賃貸料がいくらかかるかも考えるのが嫌になるこのビルの、上層三分の一のフロアが丸々アルトラのスペースとなっていたのだ。
「……悪いことはしてないよね?」
結局自分はここで何をすればいいのか、詳しい話を聞いていなかった事を思い出した智之は一瞬そんな不安に駆られるが、姉の気質を思い出してその考えを否定する。
多少なりとも彼女の事を知っている人間たちの間での共通認識であるが、彼女は極めて正攻法に強い人間である。自信を鎧、正論を剣とし、正面からぶつかった上で敵を退ける。搦手を使えないわけではないが、奈那の場合はそれを相手の搦手を封じるために使った上で正面からねじ伏せるというやり方を好んだ。だからこそ、“アルトラ”という会社はこの上なく正道を歩んだ上で、今この立場を確立するに至ったのだろうと言える。
ただその正しさも、自分が平凡な人間であると自覚している智之からしてみればむしろ気後れさせる最大の要因となっており、自分が場違いなのではないかという思いを否定できず、なかなか足を踏み出せずにいるのだ。
奈那の誘いに乗るべきではなかったか。いやしかしこのままではフリーター確定に。この後に及んで躊躇していた智之に声がかけられたのは、いつの間にか十数分の時間が流れた頃だった。
「あれぇ、もしかして智くんかな?」
緊張感を根こそぎ蕩かすようなノンビリとした口調に、耳に染み込むような甘い声。聞き覚えのある声に顔を上げた智之が振り返れば、そこには彼の予想通りの人物がいた。
「今日からここに来るんだよねぇ。楽しみにしてたよ?」
明るい色に染められ、緩いウェーブを描いた背中の中程まである髪は、歩く度にふわふわと揺れる。質のいいカーディガンとフレアスカートを上品に身に纏いおっとりと歩く姿は、声の印象に違わぬ春のような暖かな雰囲気を身にまとっていた。
春香陸。智之の……というより奈那の幼馴染の1人であり、最も付き合いの長い人物でもある。見てのとおりのおっとりとした穏やかな気質だが、抜群のスタイルを持っている癖にベタベタとくっつきたがる性質があるせいか、智之は彼女に妙に苦手意識を持ってしまっていた。
「は、春香さんも……もしかしてここに!?」
「そうよぉ。久しぶりやねぇ」
周囲から集まる主に男性陣からの温い視線に気づいていないかのようにパタパタと手を振り歩み寄ると、徐ろに智之の左腕を抱きかかえるようにしがみつく。子どものように熱い体温と柔らかいスポンジのような感触が二の腕辺りに伝わった瞬間、智之は周囲の視線が己を突き刺すような鋭いものに変わったことを敏感に感じ、慌てて振りほどこうとする。しかし予想外の力強さで押さえつけられてそれは叶わず、そのままずるずると強引に引きずられるようにして、人の集まるフロントを通りすぎ、奥のエレベーターへと連行される。
なおももがきながら、嫌な予感を覚えた智之は恐る恐る尋ねた。
「という事は……まさかあの2人も!?」
「うぅん、おらへんよ?」
天敵とも呼べる相手――智之的には目の前の人物もそこにカウントされるのだが――が全員揃っているという最悪の事態は免れたかとホッと息をつくが、続く言葉に淡い希望は打ち砕かれる。
「今ちょっと出かけててなぁ」
「すみません、帰らせてください」
くるりと踵を返そうとして、さらにぎゅっと腕を抱きしめられる。
「ダメやでぇ、初日からお休みなんて」
「いえ、この話は無かったことに」
「えぇ~? 昨日からずっと楽しみにしてたんよ?」
「せ、せめて手を離して……」
「だってぇ、そうすると逃げるやん?」
とさらにぐいぐい、胸の間に挟み込むようにより強く抱き寄せられる。
腕を包み込むなにやらふわふわした暖かいものの存在と、段々殺気のようなものを帯び始める周囲からの視線に怯えながら、それ以上抵抗する事は出来ず連行されていくのであった。
◇ ◇ ◇
「や。時間どおりで感心感心」
連れられたのは「社長室」の札がかかっていてもおかしくない、最上階の最も奥まった部屋。立派な扉をくぐると、これまた値の張りそうな重厚な作りのデスクが正面に。設置されたPCのモニターを見ながらズルズルと湯呑でお茶を啜っていた奈那と目が合い、「よっ」と目で合図される。
「お、おはようございます」
何故初っ端からこんな奥地まで連れて来られたのか。
ここで自分は何をすることを求められているのか。
そもそも陸はいつまで抱きついている気なのか。
時間帯は出社時刻。場所は建物の最奥。必然的に多くの衆目に晒され、随分なプレッシャーを受けた智之の脳は、未だ混乱から脱せられていなかった。
「ちょっとソファーにでも座って待ってて、もう少しで終わるから。あと陸」
「んぅ? 何かなぁ」
「いい加減帰りなさい」
「はぁい」
じゃあねぇ、と間延びした声を残し、パタパタと遠ざかる足音。静かに扉が閉まり、部屋の中にはカチカチとキーボードを叩く音のみが響く。
(い、居づらい……)
今まで一度も座ったことのない、このまま何処までも沈み込んで行くんじゃないかと思う程に柔らかいソファー。プライベートとは違う、どこか張り詰めた雰囲気を纏う奈那。ゴクリと唾を飲み込む音すら響きそうな静寂に、迂闊に動いたら仕事の邪魔になりそうで身動き一つ取れない。
1秒毎に汗が1つずつ増えていくような錯覚を覚えていると、ッタァーンッ!とキーボードを1つ大きく叩き、奈那が立ち上がった。
「っと、お待たせ。大丈夫、迷わなかった? やっぱり迎えに行けば良かった? あぁもう、今日午前休むって言っても許してくれないんだもんな」
大きな机を挟んでいたはずの彼女は瞬き1つの間にどうやってか智之の隣に座り込んでぺったりと身体を寄せ、顔を覗き込んではあれこれ心配そうにまくし立てる。
「あぁーもう、昨日はほとんど話せなかったし、今日は仕事だし。1日くらい仕事押し付けてやればよかったわ。折角の智ちゃんの社会人としての門出なのに、1人にさせてごめんね」
「あ、いや、うん」
急な変わりようについていけず目を白黒させる智之だったが、真っ白の頭のままで何とか言葉を紡ぐ。
「もう子供じゃないんだから、それはちょっと……」
「うん、わかる、大きくなったからちょっと恥ずかしいよね。あたしも我慢する。でも今は誰も見ていないから遠慮せずに前みたいに甘えていいんだよ。なんていったって4年ぶりの再開なんだから」
「いや、さすがに4年前もそんなにベタベタはしてなかったと思うけど……」
ヒートアップする姉の耳には、どうやら言葉は届かないようだ。彼女を落ち着かせるのに、智之はしばしの時間を要する事となった。
「やぁー、ごめんね。智ちゃんに会えると嬉しくなっちゃって」
照れ照れと頭をかく奈那の姿に、思わず苦笑を浮かべる智之。オンでは大人顔負けの――今はもう大人だが――頭脳と体力で縦横無尽に暴れまわったこの人が、その実、プライベートでは極端に甘えたがりな顔に変わる。昔を懐かしむ智之に向かって気恥ずかしそうにオホンと咳払いをする奈那。
「4年ぶりにオフに戻ると、またオンを維持するのが大変だな……うん」
パシリと頬を軽く叩き、緩んでいた表情が裏に強固な意思と剣呑さを秘めた笑顔に変わる。
「さぁ智之くん。お仕事を始めようか」
◇ ◇ ◇
現在主流となっているVRユニット端末、|ブレイン・デジタル・インターフェイス《BDI》は大別して3タイプ。
視界の一部に映像を表示したり聴覚を通じて高音質で音楽を流したりと、現実の補助としてVR情報を展開する、携帯端末の発展系となる限定双方向型。
あたかもその場に自分がいるかのような臨場感のある映像情報を視界全体に表示するが視聴者側からのアクセスは限定される、テレビやシアターと同じ受動全展開型。
そして程度の差こそあるものの五感全てを擬似的に再現し、ユーザの脳から発信された運動信号をデータに変換して発信元へフィードバックする完全没入型。
後者ほど要求されるコストも技術レベルも高く、実用化されている製品は恐ろしく少ない。特に完全没入型になると、医療や救助活動あるいは深海調査用のロボットの遠隔操縦に使われることが殆どである。
神経パルスとデジタル信号のコンバート技術が確立された時点で、VR技術そのものは然程難易度の高いものでは無くなっていた。VR技術で仮想空間を実現させるための問題は、ほぼ無限通りの入力に対して仮想空間を構築するコンピュータの演算上、いかに適切な反応を返させかという点になってきていた。
仮想空間構築系のVRシステムに比べて、遠隔操縦系は処理的には非常に楽なものである。ロボット側のセンサーが周囲の状況をリアルタイムで五感情報へとコンバートし、それを受け取ったユーザがリアクションを取ればその通りにロボットが動く。それによって周囲の環境が変化すればまたセンサーを通じてユーザが知覚し……という流れの繰り返しとなる。
五感すべてを電子データで上書きする完全没入型の端末を使用している間は、身体は寝ているのと同じような状態となる。実際には安全上の問題により完全に肉体の感覚が遮断されるわけではないのである程度の刺激があれば覚醒するのだが、それでも無防備であるのに変わりはない。プライベートはともかく、公的な場での没入は専用の個室で行うのが一般的である。
アルトラ本社には専用のVRルームが10部屋用意されている。もちろん設置されているのは一般向けに機能削減されたローコストモデルではなく、1台あたり億の桁まで行くハイエンドモデルばかりである。メインの商売道具をケチるようでは話にならないとは言っても、これは社員数が精々100やそこらの企業としては破格の設備だ。
奈菜に促された智之がずらりと並んだ扉を開けると、そこはカプセルホテルのようなサイズの小さな部屋。皺にならないように上着を脱いでハンガーにかけた智之は厚いクッションの敷かれた寝台に横になり、奈菜に手伝ってもらいながら両脇の壁から体温や心拍数、神経信号などの各種測定パッチを引きずり出して手首に貼り付ける。最後に頭上方向から寝台を囲む円環状の装置を引きおろすようにスライドさせると、ガチリという感触とともに肩から上を覆う位置でロックされた。
外形としては医療機器であるMRIに似ているそれは、ほんの半年前に発表されたばかりの最新完全没入型BDIである。奈菜は「全力でコネを使えば地球上で手の届かない場所はない」と豪語するだけあり、開発会社の偉い人にいくつかの交換条件を通し、まだほとんど出回っていないこれを比較的安価で10台も確保することに成功していた。
わざわざそれだけのコストをかけた理由で真っ先に上げたのが、
「"エレクトラ"だと髪に癖がついちゃうからね」
であることを知ったならば、世の中の真っ当な稼ぎの人々は格差社会の容赦なさに涙するだろう。
個人用のヴィルトゥーレとして最も普及しているモデルである"エレクトラ"は側頭部から額までを覆うヘッドギアとアイマスク、首周りを覆うコルセットが一体化したような形状をした装置である。脳波変換精度や通信速度などは当然ながら据置型にに劣るが、最大の問題点と指摘されているのは、長時間頭に密着させるため蒸れ易く、外したときに髪にヘルメット癖が残ることであったりする。
本来であれば使用するどころか、現物を目の当たりにする機会すら無かったであろう高価な機材に横たわった智之は、横になった首元に冷やりとした端子の感触を感じながら、緊張で微妙に強張った表情をしていた。何せ身動きした拍子にうっかり繋がれたコードを切ったり、そこらの出っ張った端子を蹴っ飛ばしでもしたら何年分かの給料が吹っ飛びかねないのだ。
「普通に使っている限りは壊れたりしないから安心して」
とは奈菜の談だが、そもそもが未知の機材、どうするのが普通の使い方なのか分からない。何の気なしにやった行為が、専門家からしてみれば完全にアウトだったりというのはままある事だ。
結果、こうして横になっている時間1秒ごとにごりごりと寿命が削られていくような錯覚に襲われているのだった。
「あ、これから智之くんが一番これ使うことになるから、ここの設備管理もしてもらうね」
そう言って渡された分厚いマニュアルに、さらに寿命が縮まったとか。
目の前に広がる暗闇に、ちらちらと踊る光の幻視。
四肢の感触が消え、ふわりとした浮遊感が全身を覆う。
完全没入時のこの感覚が万人に共通のものかは智之には分からないが、「虚空に投げ出されたような」という表現を用いられることが多いことを考えると、案外誰しも同じような経験をしているのかもしれない。
皮膚感覚や運動神経の大半が生身から切断されバーチャルな肉体に接続しなおすこの感触は、合わない人間からしてみれば到底受け入れられるものではないとか。大半の若者が新しいものを受け入れやすい性質があるように、智之も慣れてみればちょっとした絶叫マシンに乗っている程度にしか感じないようになっていた。
数秒の間をおいて、起動メッセージが虚空に表示され、視界が色を帯びる。ゆっくりと目を開けてみれば、そこは高級なホテルのような一室であった。
学校の教室程もありそうな部屋には毛足の長い沈み込むような絨毯が一面に敷かれ、その上に置かれた数々の家具もまた、重厚な作りに年季の入っていそうな光沢を纏っている。
高そうな部屋だなと一瞬考え、そんな自分に苦笑する。高いも何も、この部屋の調度品はすべて電気信号で作られたものだ。掛かるのは人件費で、ネックとなる素材などは多少の電気代くらいなものだ。裸足の足裏に伝わる上質なモフモフ感も、擬似的に創りだされたものでしかない。
「……裸足の感触?」
いわゆるVR空間では、触感というのは最低限にしか再現されないのが普通だ。ゼロというのは文字通り地に足がついていない状態となるが、用意されるのは立っている、持っているというのが実感できる程度。モフモフ感や、ましてや裸足かどうかが認識できる程に詳細な感触を再現するような環境は、医療用かそれこそ如何わしい目的で用意されたものくらいだと聞く。リアルにしすぎると現実からの乖離が発生するというそれらしい理屈が並べられているが、結局のところマシンの性能の限界という物理的な理由だ。
実際、これまで智之も多少はVRゲームというものを嗜んできているが、これほどまでに精巧な触感を感じさせるものに出会ったことがない。まるで生身のような錯覚さえ覚える。
「というか何で裸足」
物珍しげに部屋をきょろきょろと見回していた視線を足元に落とすと、半ば絨毯に埋まっているような小さな足が目に映る。
透けるような白さに染まったつやつやとした肌。相応に小さな爪は綺麗に整えられており、真珠のような光沢を放っている。ゆっくりと爪先から、柔らかそうな肌をなぞるように上へと視線を動かすと、何か見えてはいけない物が視界に入り、慌てて顔をあげる。
「いやいやいや、ちょっと待って」
ぶるぶると首を振り、先ほど部屋を見回した時に見つけていた、巨大な姿見の前までとてとてと走る。
自分が映るギリギリで一旦立ち止まり、目を閉じて深呼吸。意を決して一歩を踏み出し己の姿を映しだした。
「――――っ」
絶句。
人間離れして整っているが、人形じみた無機質な雰囲気とは対局にある優しそうな顔つき。傷どころかシミ一つない淡い褐色の肌。すらりと伸びたしなやかな手足。そして小ぶりながら確かな自己主張をする形のいい胸。頭の後ろで緩い三つ編みにした髪は肩にかけるようにして胸元に垂らされており、照明を浴びて淡い銀色に輝いている。
肌もあらわ、どころではない。文字通り一糸まとわぬ、1人の少女の姿があった。
「何が――――くちゅんっ」
そこで初めて己の格好を意識したせいか、鏡の中の少女は小さくくしゃみをし、肌寒さに身震いした。
ここのところしばらく忙しかったせいか、すっかり文章を書く習慣が抜けてしまっているようです。
リハビリがてら、お付き合いくださいませ。




