精神病患者の恋のお話
初めて彼に出会ったのは、診察室の中だった。
彼は真っ白だった。
診察室に入る昼の光が彼を余計に白くしていた。
彼は静かなきれいな声で話した。
その声は、小さな町の静かな午後を私に連想させた。
そんな声だった。
私はすぐに彼のことが気に入った。彼のその声が気に入った。
彼のその声をたくさん聞きたいと思った。
彼が私の頭の中に、私の思考の中心に家を建て始めた。
要するに、私は彼に恋をした。
私は病院に通うことを楽しみとした。
なぜなら、彼のその声を聴けるから。
私はその声を聴くために病院に通った。
その声は私の体全体に馴染んでいた。
その自然な心地よさを体は求めていた。ただそれだけだ。
おそらく恋というのは、自然な心地よさのことを言うんだと思う。
私は全く、体全体で恋をしていた。
彼の診察はいつもスムーズに進む。
もどかしいほど、スムーズに進む。
そしてあっという間に終わってしまう。
次の人の名前が呼ばれる。
私は彼のそのスムーズさを前にして成す術がない。
普通の患者で終わってしまう。
そして診察が終わるたびに、私の頭の中の家だけがどんどん増築されていく。
そんな具合に、彼を前にした私は完全に無力だった。
彼にとって私は何の存在でもなかった。
普通よりも少しだけ重い、空気と同じだった。
彼にとって私は空気だった。たぶん。
別に、彼を自分のものにしたいと願っていたわけではない。
彼に好きになってほしいと思ったわけではない。
ただ、彼の目に、私を写してほしかった。
少しでも私のことを考えてほしかった。
彼の思考の一部になりたかった。
ただそれだけだった。
そして私は病院に通い続けた。
ある日、何気なくインターネットで彼の名前を検索してみる。
すると、ひとつのブログが表示された。
それは彼のブログだった。
そこには、赤ん坊を抱いて微笑む彼の写真があった。
診察室では見たことのない笑顔だった。
彼はいつも指輪をしていなかった。
今日も彼の声は小さな町の静かな午後を連想させた。
素敵な声だった。
彼の診察は今日もスムーズに進む。
もどかしいほどスムーズに進む。
私はポケットからカミソリを取り出した。
それを手首に当てる。
彼の声が聞こえる。
大好きな彼の声。
真っ白な彼が私の赤に染まる。
私は彼の空気ではなくなった。
彼の思考の中心に、一生取り壊せない大きなお城を築いた。
大好きな彼の声を、彼の悲鳴を聞きながら、私は死んだ。
大好きな彼の目に映りながら、私は死んだ。
小さな町の静かな午後の出来事だった。
おわり
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