第二章 再会は曖昧な輪の内側で Ⅰ
ベルグ高等法院は、街の中心地から少し離れたところに建っていた。
同法院の建物は、ベルグの街が持つ華やかさとは異質な、冷たく訪れる者を畏怖させる雰囲気を醸し出している。
大小様々な国々が乱立するこの大陸では、魔法を独占し、大陸全土にその組織を張り巡らせているライン教会だけが、共通の秩序基盤となっていた。
したがって、各君主・諸侯達が自国を律している法も、教会が制定する教会法、特にライン基本法に反することはできず、もし、これに反するような法があれば、即無効となる。
そして、異端審問をはじめとする教会法に関する裁判権と訴追権を持つ異端審問官、特に大陸に七人いる『検邪聖庁』は、教会が持つ権威と権力の体現者、”秩序の擁護者・として、異端者だけではなく、大陸中の人々からも畏怖されていた。
……とまぁ……以上のような背景があるから、異端審問の場である法院がこんな雰囲気なのは、当然なんだけど……。
はぁ―っ、やっぱりわたし、この雰囲気に馴染めそうにないよぉ……どうしよう……なんか暗いし怖そうだし……まあ、こういう場所が明るい雰囲気を持っているのも間違っていると思うけど……。
でも、ここまで来たんだから、もう引き返すことはできないよね。
だって……
もう、三年前の……お兄ちゃんがいなくなった頃のわたしに戻るのは嫌だから……。
わたしは、白い包帯を巻いている左手首を抑えた。
誰もいない部屋……。
テーブルを埋め尽くすプディング。
その全てが、異臭を放っている。
お兄ちゃんの大好きなプディングだよ……。
たくさん作ったんだから、いくらでも食べてもいいんだよ……。
わたしの分まで食べちゃっても、もう怒らないから……。
ねえ、お兄ちゃん……。
ねえ、おにいちゃん……。
ねえ、オにいチャン……。
ねえ、オニイチャン……。
何度も繰り返した、届かない言葉達。
わたしは、段々と自分が正気を失って行くのを感じていた。そして、偶然、目の前に果物ナイフがあった。
それを手を伸ばすわたし。
そして……。
「イリシスちゃん、どうかしたの?」
マリーナさんが心配そうにわたしのことを見ていた。
最近は、あの夢を見ることもなくなっていたのに……また、あの頃のことを思い出してしまったみたい……。お兄ちゃんが喋っていた言葉を聞いたからかなぁ……?
「本当に大丈夫? 顔が真っ青になっているわよ」
「……はい……大丈夫です……」
わたしは、自分の声が少し震えているのを感じていた。
まだダメなの……?
まだ、強くなれないの……?
もうお兄ちゃんのことで泣くのはやめようと決めたのに……。
笑顔でお兄ちゃんと再会しようと決めたのに……まだ、強くなれないの……?
マリーナさんの視線を感じる。
わたしのことを心配してくれているのかんぁ……?
こんなことで他人に心配をかけたらダメだよね。
もっとしっかりしなきゃ。
わたしが、教会の一員になろうとしたのは、お兄ちゃんのことを探すためだった。
教会の一員となって、魔法を使えるようになれば……お兄ちゃんのところまで、自分の力で行くことができる……もう一度、お兄ちゃんに合える。
こんなことじゃダメだよ……。
もっとしっかりしなくちゃ……。
せっかく、自分で第一歩を踏み出したのに……こんなんだと、お兄ちゃんを探し出すことなんてできない……もっとしっかりしなくちゃ……。
しかし、そう思えば思うほど、次々と込みあがってくる過去からの想いに押しつぶされそうになっていく……。
左手首を抑えている指の力が強くなっていく…………………………………………
そして……
「……マリーナさん……」
気がつくと、マリーナさんが、わたしの右手を優しく握ってくれていた。
彼女の暖かさ……優しさが、彼女の手を伝ってわたしに流れ込んできた。
わたしは、顔を上げた。
マリーナさんは、わたしと目が合うと、微笑んでくれた。
その彼女の笑顔は、さっきまで見せていた強気で自信に満ち溢れたものとは違い、とても穏やかで、それでいて、深い優しさを感じさせるものだった。
わたしは、マリーナさんの本当の顔を垣間見たような気がした。
「イリシスちゃん、あなたってせっかく可愛いんだから、そんな顔してちゃダメよ。異端審問官なんて、ただでさえ男から敬遠されるんだから。そんなんじゃ、いい男をつかまえることはできないわ」
マリーナさんは、いつもの表情に戻ると、おどけた口調で言った。
わたしは、マリーナさんのおかげで、落ち着きを取り戻し、右手を左手首から離すことができた。
「ありがとうございます」
わたしは、俯きながら言った。
とても、恥ずかしかったからだ。マリーナさんの顔をまともに見ることができなかった。
「ほらほらっ、そんな辛気臭い顔をしてないの。笑顔、笑顔」
マリーナさんは、わたしの肩を叩いた。
「は、はい」
わたしは、何とか笑顔を作ってみる。
「よしっ! ちょっとぎこちないないけど合格よっ! とってもカワイイ!」
「わたし、可愛くないですよ」
わたしは、本心からそう思った。
だって、今まで誰にもそんなこと言われたことなかったし……。
「イリシスちゃん、そのルックスででそんなこと言ったら、嫌味にしか聞こえないわよ」
「そ、そんなぁ……嫌味だなんて……」
「もう! あなたは本当に可愛いんだから、もっと自信を持ちなさい。このマリーナさんが保証してあげるわ!」
マリーナさんは、そう言うと胸をポン! と力強く叩いた。
本当に自信を持っていいのかなあ……。
でも、マリーナさんがここまで言ってくれるんだから……いいのかも……。
「じゃあイリシスちゃんに笑顔が戻ったことだし、いつまでもこうしててもなんだから、中に入るわよ」
マリーナさんは、高等法院の門へ向かって歩き出した。
「あれ? そう言えばエルバさんは、どうしたのですか?」
さっきまでは一緒にいたのに……どうしたんだろ?
あれだけマリーナさんにモーションをかけていたから、いなくなるはずはないと思うんだけど。
「なんか、さっき、急に用事を思い出したとか言って、消えちゃったわよ。まあ、どうでもいいけど」
ここまで案内してもらったのに……マリーナさんの中でのエルバさんの印象は最悪のようだ。
わたし、エルバさんに、一応、お礼ぐらいは言いたかったかったんだけどな……まあ、エルバさんが、本当にルクトさまの従兄弟なら、また会えるかもしれないからいいか。
なんかその可能性は低そうだけど……。
こうしてやっと、わたし達は、ベルグ高等法院の門をくぐることができたのである。