第五章 世界の瑕疵-『扉』 Ⅲ-ⅰ
現在、トロアの城壁は、エルバ直轄の特殊部隊『教会の目』、フィナが率いる『聖ルゴーニュ救護騎士団』、さらにはルカーナ大公国の『銀翼騎士団』ら約二千名が取り囲んでいた。
主に『教会の目』と『聖ルゴーニュ救護騎士団』が城壁周囲の結界を担当し、『銀翼騎士団』がその後衛を務めていた。
これら全てを統括するのは、ハンザ銀行エフィア支店のトップであり、法王庁の金庫番である会計院総責任者、そして、法王庁の非公式情報機関である『教会の目』の長官エルバ・ハンザである。
彼は、闇を背に聳え立つトロアの灰色の城壁を見つめながら、その向こう側で起きていることに思いを馳せていた。
若干のシナリオの変更があったとはいえ、大筋では彼の計画通りといえる。
後は、舞台上の役者に任せるしかない。舞台の幕が開けば、もはや演出家にできることはなかった。
「エルバ様、やはりランカスティ様は城壁の中のようです」
「わかった。このことは他言無用だ」
「了解しました」
エルバは、部下をさがらせると静かに目を閉じた。
……アホな女やな…………。
エルバは、マリーナのこと嘲笑しようとした……しかし、上手く嘲ることも、笑うこともできなかった。
今のエルバの表情は硬く、他人に彼が感じている"痛さ"を感じさせるものだった。
『貴方のような人間には、人の想いなんてわからないんだ!』
「マリーナ・ランカスティ……確かに貴方の言うとおりかもな……オレには人の想いなんて理解できないよ」
教会秩序こそ全ての存在に優位するもの。
したがって、たかが女一人、しかも異端者の嫌疑がかけられたことのある女一人のために、迷うことなどあってはならない。
しかも、彼は、かつてその女に対してひどい屈辱を与えたのだ。
肉体的にも精神的にも追い詰め、そして女から異端の証拠、『扉』についての情報を聞き出そうとした。
自ら信じる理想に対するひどい侮辱。
世界を混沌に帰らせかねない恐ろしい行為。
自己欺瞞に満ちた愚かしい意思。
エルバには、許せなかった。
レクラムもルシアも、そして彼らに最も近しい人間であるマリーナも。
あの事件の発覚後、レラクムとルシアの行方は分からなかった。
したがって、そのエルバの怒りと正義の矛先がマリーナに向けられたのも当然だった。
彼は、法王からの勅命を受け『教会の目』の長官として自らマリーナを取り調べた。
しかし、その過程でかなりの行き過ぎがあった。
それを憂慮した法王は、彼の任を解き、その後をルクトに委ねた。
任を解かれたエルバは、しばらくの間休暇を取り、ルカーナの自分の屋敷に戻った。
そして、頭が冷えるにつれ、自分がマリーナに対して行った行為があまりにもみすぼらしく酷いものであると感じてきた。
エルバは、『教会原理主義者』として恐れられていたが、あれほど直接的で相手の人格を蹂躙する行為を行ったことはなかった。
マリーナに対する罪悪感が彼を支配した。
そして、ついに耐え切れなくなったエルバは、エフィアに戻り、マリーナが収容されていた病院へ向かった。
そこでエルバが見たのは、中空を見つめて同じ言葉を繰り返す、歪な自動人形と化したマリーナだった。
「……すいません、すいません……わたくしには、何も分かりません…………お姉様……お姉様はどこですか?」
エルバは、マリーナにゆっくりと近づいていき、彼女の前に立った。
しかし、彼女は、何ら反応を示さなかった。
「……すいません、すいません……わたくしには、何も分かりません…………お姉様……お姉様はどこですか?」
なんだ……これは……?
オレは……なんだ……?
これはなんだ?
オレハナンダ?
コレハナンダ?
ナンダコレハ……?
エルバは、自分の理想のため、教会秩序のためならあらゆることが正当化されると考えていた。
しかし、一人の人間をこんな姿にすることが本当に許されるのか?
マリーナがこんな姿になったのは、彼女が『扉』事件で弱っているときに、エルバがそれに乗じて与えた苦痛によるものだ。
いや、もしかしたら、エルバが何もしなくても自己崩壊したのかもしれない。
しかし、ここまでひどくはならなかっただろう。
エルバは、マリーナの姿に対する嫌悪感ではなく、自分の行為がもたらした結果に対する嫌悪感から嘔吐しそうになった。
しかし、それをなんとか堪えると逃げるようにして病室から出た。
そして、エルバは、病室の扉を閉めるときにマリーナの言葉を聞いた。
「……もうあたしを……殺して下さい……」