第五章 世界の瑕疵-『扉』 Ⅱ-ⅳ 【イリシス】
「レクラム!」
なに?
一変した周囲の状況にわたしは、戸惑った。
剣と剣とがぶつかる鋭い金属音が鳴り響いたと思った次の瞬間、レクラム・クレメンスと剣を交えている人が立っていた。
「……マリーナさん……」
レクラム・クレメンスに剣を向けているのは、マリーナさんだった。
その横顔は、いつもの明るく余裕のあるものではなく、とても厳しいものー"悲痛"という言葉が一番似合う表情だった。
「……マリーナか」
レクラム・クレメンスは、表情を少しも変えずにそう言った。
「そうだ! 聖ルゴーニュ修道騎士団ノヒラント騎士館副長マリーナ・ランカスティだ!」
マリーナさんが……聖ルゴーニュの騎士……うそ……。
ちょっと待って……どうしてマリーナさんがここにいるの? 先にエフィアに向かっていたなら、もう着いていてもおかしくないはずなのに……。
「オレに何の用だ? ここはキミが上がる舞台ではない。早々に立ち去れ」
そう冷たく言い放つレクラム・クレメンス。
「お姉様を返してもらいにきた!」
「なにかと思えば……くだらん」
「くだらないだと!? お姉様をそんな惨めな姿にした貴様が、のうのうと生きている方こそくだらないじゃないか! 貴様のために何人の人間が死んだと思っているんだ!」
マリーナさんは、そう叫ぶとレクラム・クレメンスを激しく斬りつけた。
しかし、それは軽く阻まれた。しかしそれでもなお、マリーナさんは、剣の勢いを緩めない。
剣と剣がぶつかり合う鋭い金属音が、間断なく続いていく。
わたしの目から見てもレクラム・クレメンスとマリーナさんの力の差は歴然としていた。
確かに、マリーナさんの剣技は、目を見張るものがあったけど、それでもレクラム・クレメンスのそれには遠く及んでいない。
それは、レクラム・クレメンスとマリーナさんの表情を見れば明らかだった。
"余裕"と"焦燥"。
レクラム・クレメンスは、表情一つ変えないし、汗一つ流してはいない。
それに対して、マリーナさんは、息を荒げ、そして苦しそうな顔をしている。
「イリシス、今のうちにここから離れるんや」
「えっ?」
わたしは、目の前で繰り広げられている戦いに気を取られていたので、お兄ちゃんが、わたしのすぐ傍に歩み寄ってきていたことに気づかなかった。
「ここから早く離れるんや。先に宿に戻っといてくれ」
「……お兄ちゃんは?」
「僕は、あいつとちょっと話があるから、先にイリシスだけ……」
「……いや」
言葉が口から零れ落ちた。
「……イリシス?」
「……いやだよ……そんなのいやだ……」
「おい、なにを言っているんや」
「だって! もうお兄ちゃんと離れるのはいやなんだもん!」
わたしの声とほぼ同時に、一段と鋭い金属音が鳴り響いた。
「くっ!」
マリーナさんのうめき声が聞こえる。
マリーナさんの剣が弾かれ、そのまま地面に突き刺さっていた。
レクラム・クレメンスの剣先が、マリーナさんの顔に向けられる。
「退け。キミのこの行動は無意味だ。これ以上、この舞台を荒らすな」
「退けるか! おまえに会うために、どれほどの恥辱に耐えてきたのだと思っているんだ! あの『教会の目』に従っていたのも、全て貴様の手からお姉様を取り戻すためなんだぞ!」
「では、死ぬか?」
レクラム・クレメンスの剣先が、いっそうマリーナさんに近づけられる。
しかし、マリーナさんは一歩を退かない。
その目は、まだ"死んで"はいない。マリーナさんは、まだレクラム・クレメンスに挑もうとしていた。
「お姉様を返せ」
マリーナさんは、搾り出すようにして言葉を吐き出す。
「それに対するオレの答えは、既に伝えているはずだ。何度も同じ言葉を繰り返させるな」
「お姉様を返せ」
「……だから、何度同じことを……」
な……に?
……どうしたの?
わたしは、突然言葉を止めたレクラムの顔を見た。彼の瞳は、真っ直ぐにマリーナさんを見つめている。
わたしは、彼の視線の先を追った。
……マリーナさんは、泣いていた。
マリーナさんの瞳から大粒の涙が零れ落ちていた。それらは、止めなく零れ落ち続けていく。
「……お願いです……お姉様をもう解放してあげて下さい……お義兄様……」
マリーナさんの表情は、それまでの険しいものではなく、ある種の哀れみを感じさせるものになっていた。
「もうルシアお姉様を苦しめるのはやめて下さい。もう十分なはずです」
「…………」
「お姉様は、お義兄様のことを恨んでなんていません。だって……
お姉様は、自ら『扉』になったのですから」
とびら……とびらになる?
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……って……まさか!
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……わたしが"彼女"から感じていた恐怖の正体……"彼女"の正体。
"彼女"が『扉』なの……。
『扉』っていったなんなの……何のために存在するものなの?
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……わからない……わからないよ……怖い……怖いよ……なんだかとても怖いよ……。
「イリシス……どうしたんや?」
わたしは、そのお兄ちゃんの言葉で、自分の左手が震えていることに気づいた。
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……。
違う。
震えているんじゃない……痙攣しているんだ。
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……。
右手も痙攣し始めた。
痙攣が広がっていく。
身体中に広がっていく。
わたしの意志から離れていく。
視線がブレだした。
お兄ちゃんが私を震えた声で呼びかけている。
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……。
わたしを取り囲む世界は、滲み出す。
意識がブレる。
ここはどこ?
世界は、どっち?
誰かが呼びかけてくる。
お兄ちゃん……違う……お兄ちゃんじゃない、私の頭の中に呼びかけてくる人がいる。
頭が痛い。
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……。
意識を保とうとすることが苦痛になる。
わたしを呼びかける声はどんどん大きくなっていく。どんどんわたしに侵食してくる。
……誰……誰なの……?
貴方は誰なの?
や、やめて……やめて!
呼びかけるのをやめて!
いきたくないよ!
そっちにはいきたくない!
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……。
やめて!
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……。
……お兄ちゃん。
トビラトビラとびらとびら扉扉扉……。
やめてやめて!
やめてぇぇぇぇぇ!
わたしの世界は暗転した。