第四章 曖昧な輪は望む者の手の中に Ⅲ-ⅲ 【ルクト】
「ダメですっ! それだけは絶対にダメぇ!」
隣の部屋からイリシスの声が聞こえてきた。
あいつ、何を大声を出しているんや?
……でも……元気が出てきたみたいでよかった……。
昨日、イリシスに「ハンザ猊下」と呼ばれたとき、正直言って僕は安堵した。
これで、これからの僕とイリシスとの関係をはっきりさせることができたと思ったからだ。
……でも、僕は、同時に寂しさも感じた。
そして、それは安堵感よりも強かった。こんな割り切れない気持ちのままで、イリシスを守って行くことなんてできるのだろうか。
……僕は、どうすべきなんだろう?
本来、僕が求めていたのは、オステル先生の『意思』であって、イリシスではなかったはずだ……。
じゃあ、オステル先生の『意思』に対する自分の解釈を出した今……僕には、イリシスが必要なのだろうか?
「おい、ルクト、なんかイリシスちゃん元気がええやないか?」
エルバは、ベットの上でゴロゴロしている。
こ、こいつ……ダレてやがる……。
ま、これは、エルバ特有のパフォーマンスであることは分かっているけど……でも、なんかムカツク。
「……そうやな」
僕は、自分の迷いを悟られないように、そっけなく応えた。
「ほんまは嬉しいくせに」
エルバは、わざと僕に聞こえるように呟いた。
僕は、エルバに自分の心を見透かされたような感じがして、少し鼓動が速くなるのを感じた。
そして、昨夜、エルバに言われた言葉を思い出す。
「おまえは、『聖女』を必要としているのか?」
……そのとき……僕は、即答することができなかった……。
エルバが、あえてイリシスのことを『聖女』と呼んだことも、僕に、自分が教会の人間としてイリシスに接していたこと、即ち、イリシスを騙し、利用していたことを思い出させられた。
もちろんイリシスを大事に思う気持ちはある。
イリシスには幸せになって欲しいと心からそう思っている。
だからこそ、イリシスを僕から遠ざけたのだ。
しかし、それが逆にイリシスを傷つける結果となってしまった……。
イリシスの左腕にある傷……それは、僕の『罪』。
『罪』は、償わなければならない。
しかし、もし、僕とイリシスを結ぶものが、この『贖罪』だけなら……僕自身はイリシスを必要とはしていないことになる……。
もし、僕がイリシスを必要としていなかったら……どうすべきなのだろうか……?
僕のイリシスに対する『贖罪』の意識だけが、僕達を結び付けているのなら……いや、そもそも、その『贖罪』でさえ、僕の独り善がりかもしれない。
イリシスは、僕に『贖罪』を求めてきたわけではないのだから。
このレクラムの件が解決すれば、僕は法王に再選出されるだろう。
そうなれば、今度はそれを断ることはできない。
オステル先生の『意思』に対する自らの結論を出し、『交付契約説』と『創造有因論』を整合させた理論、『二段階創造説』を完成させた今、僕には法王座に座ることを断る理由はなかったし、断ることもできなかった。
そして……『聖女』であるイリシスを必要とする理由もなかった……。
僕は、一度イリシスを捨てている……。
それは、"イリシスのため"というもっともらしい理由を付けていたが、結局のところ、僕自身がイリシスを必要ではなかったから、イリシスをストアに置き去りにしたのでは……もし、本当に僕自身が、イリシスを必要としていたのなら……
違うっ!
ガシャン!
イリシス達の部屋からガラスの割れる音が聞こえてきた。
僕は、直ぐに隣の部屋へ向かった。エルバも僕の後に続く。
ひどい不安。
悪い予感。
僕は、自分の身体を預けるようにして隣室の扉を開けた。
部屋の真ん中で、イリシスが立っていた。
感情のない蒼白な顔。
虚ろな瞳。
イリシスは、まるで糸の切れた操り人形のような姿で立っていた。
世界からの拒絶。
世界の瑕疵。
それは……
「『扉』……? でも……なんでや……なんでや……だって……イリシスは、先生の『成果』なんやぞ……」
目の前で起きている出来事の意味を上手く理解することができない……。
何かが狂っている。
何かが間違っている。
自分の中で何かが欠けていくような感じがした……。
「エルバ様、『結界』を定立させましたから、『聖女』殿の状態にこれ以上の変化がなければ大事には至りません」
「これは、『扉』の"揺らぎ"か?」
「はい」
僕の後ろでエルバとランカスティ 司祭が話している。イリシスのことを話している。
『結界』。
『聖女』。
『扉』。
『揺らぎ』。
これらの言葉が、僕の耳を通り抜け、僕の意識を掻き乱していく。
……エルバは、イリシスが『扉』になる可能性があることを知っている……ということは、やはり長老達も……。
『扉』は、『異端』の象徴だ……。
『扉』は、"抹消"されるべきものだ……。
イリシスが『扉』になったら、"抹消"されてしまう……
"抹消"してしまう……。
そんなのは、嫌や……。
そんなのは、駄目や……。
そんなのは、許さへん……。
『わたしには、お兄ちゃんが必要だよ……』
あああぁぁぁ!
僕からイリシスを引き離すことは許さへん!
「おいルクト! 何をしているんや! ランカスティ、ルクトを止めるんや!」
「む、無理です! 猊下は、あれだけ数の要件の定立とほぼ同時に、立証までなされています。もう、自分の能力では間に合いません!」
「貴官はそれでも元聖ルゴーニュの騎士か!
くそっ! ルクト! お前は勘違いしているぞ! オレは、お前―」
僕とイリシスを中心として、白い光の"壁"が広がっていく。
誰も、イリシスには近づけさせない。
誰も、僕からイリシスを引き離すことはできない。
誰も、イリシスを傷つけることは許さない!
「さあ、イリシス……僕と一緒に行こう」
僕は、誰の姿も映していないイリシスの瞳を見つめながら、イリシスをそっと抱き締めた。