第一章 曖昧な輪、連鎖の始点 Ⅰ
聖ライン教会における最大の禁忌の一つ。その存在自体が公的には隠されている。しかし、この大陸の者なら誰でも『ペジエの聖女』の名で知っている。
『ペジエの聖女』
この名を大陸中に知らしたのは、一つの事件からだった。その事件は、今では『ペジエの惨劇』と呼ばれており、法王特使イリエル・ドラニアが、大陸東部の大国タウンゼルト王国の首都ベジエ近郊にて、暗殺されたことに端を発した。
結局、同事件の犯人は捕まらなかったのだが、法王庁は事件の背後に、タウンゼルト王レント三世がいると判断した。ドラニアが、レント三世を異端者庇護の廉で破門した直後のことだったからである。
ラスティア大陸に住むほとんどの者がライン教徒である現状において、教会から破門されることは死刑宣告に等しいものである(通常、破門された者の所有権は否定され、破門者の財産は教会に没収される)。しかも、破門の理由が、ライン教における最大の禁忌である『異端』に酌みしたことであるならその罪責は一層重い。
ライン教は、『魔法』を教会の独占としており、『魔法』の使用は、『教会律法師』と呼ばれる教会から秘蹟を受けた者だけに許された特権であった。律法師以外の者が『魔法』を使用することは、厳しく禁じられ、この禁を破った者は『異端者』と看做され異端審問にかけられた。
しかしそれにもかかわらず、レント三世は、その『異端者』を匿い、自軍の兵士に魔法を教えさせていたのである。
そもそも、魔法を使うことは、高い能力を要することであり、その能力がない者が魔法に触れると、精神的にも肉体的にも破綻を来す。したがって、魔法を使えるようになるためには、飛びぬけた才能がない者以外は、適切な指導者の下で長く修行することになるのが通常である。
しかし、『異端者』の多くは、その才能も努力も無しに魔法に触れるため、『魔』に取り込まれてしまう結果となる。
『魔』に取り込まれた人間は、まず精神が崩壊し、次いで肉体が崩壊する。そして、最後には、人としての形を崩し、ただ人の血と肉を求める『魔物』と呼ばれる異形の殺戮者と化す。これ程までの危険があるのに、異端者達は、安易に『魔法』を、『力』を求めてしまう。
かつて、その力と人格により尊敬を集めていた教会律法師の一人が、「力を持つ者は、その力に対して責任を負わなければならない。その責任を負う覚悟と能力がない者が力を持てば、己と周囲とを不幸にしてしまうだろう。力には、それだけの危険が伴うのである」という言葉を残している。
この言葉は、正式に魔法を学んでいる者なら誰もがそらんじることできる程有名であり、かつ核心をついたものだった。
もっとも、たいていの異端者達は、教会にとってそれほど脅威とはならなかった。
それは、教会からみれば、所詮、彼らは『魔法』を使いこなすことができない取るに足らない者達であり、教会の『魔法』の独占体制を揺るがすことには直接的にはつながらなかったからである。
しかし、レント三世が匿っていたピエト・オステルという異端者は違った。
なぜなら、オステルは、大陸における法理論の総本山、法王庁立聖ライン大学の総長まで務めたことのある教会の重鎮であり、かつては彼自身、法王特使として教会の異端審問の重要な一端を担っていたからである。
彼の弟子達の多くは、教会の高位聖職者になっており、その中には有名な教会律法師もいる。
つまり、彼自身が『正統』派の一員であり、教会が主張する『秩序』の擁護者だったのである。
そのオステルが、当時その職にあった法王特使を辞し、姿を消したのは、彼が異端審問のためにある小さな村を訪れているときだった。
そして、その後すぐにオステルは、大陸全土にその影響力を及ぼす『異端の聖人』として知られるようになる。
彼の存在によって、教会が異端者に対する態度が強行になり、大陸の地図が書き換わった。
しかし、オステルをもってしても、『異端』は『正統』に成り代わることはなかった。
それは、『魔法の解放』を求めていたのが君主・諸侯のみであり、庶民は、『魔法』の必要性を感じていなかったからである。
そして、レント三世が、オステルを自国軍に魔法騎士団を設立するために迎え入れたときには、大陸全土に及んだ熱病的な異端審問は、もうすでに収束に向かっていた。
破門宣告を受けたレント三世は、手段を選ばず、魔法騎士団の設立を急がせた。
しかし、いくら騎士として優秀であっても、魔法の修行をしたことがない者が魔法を、それも実戦に耐え得る魔法を容易く修得できるはずはない。
能力を超える『力』を持とうとすることは『破滅』へつながる。
当然のように、兵士達は、次々と『魔』に飲込まれて行った。
そして、いつしかタウンゼルト王国の王都ペジエは、『魔物』が跳梁する『魔都』と化すに至った。都市ごと『魔』に取り込まれたのである。
幸い、ベジエは城郭都市だったので、城壁に張ってあった結界により『魔』が外へ溢れ出すことはなかったが、レント三世討伐のために組織された教会軍が到着したときには、城壁の中で完全に人の形を保っている者は存在しなくなっていた。
その惨状を見た教会軍総司令官である枢機卿は、「全てを焼き払え!」と全軍に命令を発した。
教会軍によって火を放たれたペジエは、三日三晩燃え続けて廃虚となった。
当時、ペジエには、一万二千人程の人々が暮らしていたと言われており、その全員が『魔』に取り込まれたことになる。そのあまりにも悲惨な状況は、法王の命により他言することを厳しく禁じられた。
しかし、生存者はいた。
その生存者がどのような状況で保護されたかについてまでは、一般には知られていない。しかし、その生存者がまだ年端もいかない少女であったことは、直接保護した兵士から広まった。
『魔』の中にいて、『魔』に取り込まれなかった少女。
その少女は、後に『聖女』と呼ばれるようになる。