第三章 曖昧な輪の欠落 Ⅱ-ⅵ 【ルクト】
「イリシス、これは……?」
僕は、思わず昔のようにイリシスに呼びかけてしまった。
どうしてこんな傷が、イリシスの手首にあるんだ?
どうしてこんな傷が……これじゃあまるで、イリシスは、自ら命を絶とうとしたみたいじゃないか……。
こんな傷は、イリシスにあるはずはないんだ。だって、イリシスは、あんなに毎日を楽しそうに過ごしていたのだから……。
だから、僕は、安心してストアから去ることができたなのに……。
僕は、何か間違っていたのか……?
そんなはずはない……。
『お兄ちゃんには、わたしが必要……?』
ふと、そんなイリシスの言葉が僕の頭の中を過ぎった。
これは、いったいどいう場面で発せられた言葉だったのだろう?
……そうだ、確か、イリシスと夕食を食べているときだ。でも、確かそのときは、なぜ、イリシスが急にそんなことを言い出したのか、全くわからなかったから、とりあえず適当にはぐらかしたはずだ。
「もちろん必要や」とでも言ったのかもしれない。
しかし、どうして僕はそんな言葉を今思い出したのだろうか?
あ……そうか……あのときのイリシスの表情と今のイリシスの表情が同じだからか……。
『わたしには、お兄ちゃんが必要だよ……』
あのとき、イリシスは僕にそう言っていたのだ。
……それなのに僕は、それが分からなかった。
僕自身がイリシスの”日常”を構成していたことに気づいていなかった……。
僕がいなくなったことが、イリシスから”日常・を奪ってしまった……。
僕が、イリシスから”日常・を奪ったんだ……そして、イリシスを自ら命を絶とうとするまで追い詰めた……。
……僕のせいか……。
僕は、イリシスの背中に腕をまわした。
イリシスの戸惑いが彼女の身体から伝わって来た。
しかし、その戸惑いもすぐに消え、イリシスは僕にその身体を委ねた。
「イリシス、この傷……」
僕は……言葉を続けることができなかった。
しかし、イリシスには、僕が何を言いたいのかが伝わったようだ。
イリシスは、無理やり笑顔を作って……明らかに嘘とわかる言い訳をした。
そのイリシスの姿がとても痛々しくて……僕は、ただ「そうか……」としか言えなかった。
僕は、床に落ちていた包帯を拾うと、イリシスの左手首に巻き直した。
言い訳をするつもりはない……。
僕は、この傷を見るのが辛かった……。
これは、イリシスに対する優しさよりも、自分の辛さから出た行動だった。
それなのに……イリシスは、僕に「ありがとう、お兄ちゃん……」と言ってくれた……そう……言ってくれた……。