第三章 曖昧な輪の欠落 Ⅱ-ⅴ 【イリシス】
「イリシス、これは……?」
お兄ちゃんは、わたしの左手首にある傷を見るとそう言った……。
……お兄ちゃんが……わたしのことをまた、『イリシス』って呼んでくれた……。
お兄ちゃんの表情は、検邪聖庁である”ルクトさま・のものではなく、”お兄ちゃん”のそれに戻っていた。
お兄ちゃん……。
わたしのお兄ちゃん……。
わたしの大好きなお兄ちゃん……。
……でも……この傷だけは……お兄ちゃんには見られたくなかったよ……。
『もう、お兄ちゃん!また、わたしのプディングを勝手に食べたでしょ!』
『ばれたか』
『ばれるよ! 口の周りにそんなにクリームをつけていれば』
『えっ……クリームがついてるんっ? あっ、ほんまや』
そう言って、お兄ちゃんは口の周りをペロリと舐めた。
こんなお兄ちゃんの姿を見ていると、怒る気も失せてくる。
はぁ……本当に頼りないお兄ちゃんだよ……こんなお兄ちゃんの妹をやっていて、わたしの将来は大丈夫かなぁ……と、本気で心配になってくる。
でも、こんな毎日がずっと続くのもいいかな。このままじゃ兄ちゃんが心配でお嫁に行くこともできないしね。
まあ、わたしがお嫁に行けなかったら、お兄ちゃんに責任を取ってもらっちゃおうかなぁ……でも、わたしみたいな可愛い娘は、お兄ちゃんにはもったいないわよね♪
あっ、そうだ、今度は、お兄ちゃんが前から食べたいと言っていた苺プディングを作ってみよう。
お兄ちゃん、喜んでくれるかなぁ。
もし、喜ばなかったら許さないんだからっ!
あの頃のわたしは、漠然とした不安あったけど、あの何でもない日常がとても楽しく、そして、それがずっと続くことを願っていた。
でも、お兄ちゃんは突然いなくなってしまった……。
わたしに何も言わずにいなくなってしまった……。
お兄ちゃん……わたしと一緒にいるのが嫌になっちゃったの……?
そうならはっきり言ってくれればよかったのに……。
ねえ……お兄ちゃん、なんとか言ってよ……。
お兄ちゃん、わたしのことが嫌いになったの……?
お兄ちゃん、わたしを独りにしないでよ……。
ねえ……お兄ちゃん……。
お兄ちゃん……。
お……兄ちゃ……ん……。
わたしは、何もない部屋の中で同じ言葉を繰り返して続けた。
私の周りには、お兄ちゃんのために作った大量のプディングがあり、それらは異臭を放っていた。
わたしは分かっていたのだ……もう、お兄ちゃんはここには帰ってこないということを……。
でも、それを認めたくはなかった。
だから、
死のうと思った……。