第三章 曖昧な輪の欠落 Ⅱ-ⅲ 【イリシス】
わたしは、自分の目を疑った。
振り返ったお兄ちゃんは、さっきと同じ服を着ていたけど、わたしには別人に見えた。お兄ちゃんの喋り方、その仕草、表情、どれをとってもさっきまでのお兄ちゃんとは全く違っていた。
全てが洗練されている。
全てが計算されている。
まだ子供のわたしにはよくわからないけど、大人の色気というものもある。それらは、まさに教会高位聖職者として相応しいものだった。
そうか……お兄ちゃんは、わたしに対して、もう”お兄ちゃん”として接することをやめたんだ……。
……こんなの”お兄ちゃん”じゃないよ……。
お兄ちゃんと一緒に暮らした五年間の思い出……。
わたしの作ったプディングが好きで、わたしの分まで勝手に食べちゃうお兄ちゃん……。
いつも、本ばっかり読んでいて、私が呼びに行くまで、ご飯を食べようとはしなかったお兄ちゃん……。
綺麗な女性を見るとすぐに鼻の下を伸ばす。困ったお兄ちゃん……。
わたしが村の近くの森で迷子になったとき、一晩中探して助けに来てくれたお兄ちゃん……。
わたしが寂しくて泣いていたら、いつまでもわたしの傍にいてくれたお兄ちゃん……。
そして……わたしに黙っていなくなってしまったお兄ちゃん……。
お兄ちゃんがわたしに見せていた顔は、全て嘘だったの?
お兄ちゃんは、わたしを騙していたの?
ひどいよ……。
ひどいよ……。
ひどすぎるよ……。
わたしは、お兄ちゃんともう一度一緒に暮らすことだけを考えてきたのに……そのわたしの願いは、決して適わないものだったなんて……。
「リヒトフォーエン司祭……」
「そんな風に呼ぶのはやめてよっ!」
わたしは、お兄ちゃんを睨む。
もうわたしの”お兄ちゃん”はいなくなっちゃった……。
もう一度一緒に暮らしたかったのに……。
もっとお兄ちゃんと一緒にやりたかったことがいっぱいあったのに……。
お兄ちゃんが、「わたしのことを必要だ」って言ってくれたのは、教会聖職者として”必要”ということだったの……?
だったら……。
わたしは、お兄ちゃんに背を向け、この部屋から出て行こうと扉に向かった。
「待ちなさいっ!」
お兄ちゃんが、わたしの手を掴んで引きとめようとした。
「離してよ!」
「どこへ行くつもりですか?」
「どこでもいいでしょっ!」
「そうはいきません。貴方は私の直属の審問官なのですから勝手な行動を許すわけにはいきません」
「じゃあ、もう審問官なんてやめるよっ!」
そう言った瞬間、わたしの右頬に痛みが走った。お兄ちゃんがわたしの右頬をぶったのだ。
わたしは、お兄ちゃんを睨もうとした……でも、できなかった。
……お兄ちゃん。
わたしの意識の全ては、お兄ちゃんの目に奪われた。その目は、様々な感情が入り混じっていた……。
どうして?
どうして、そんな目でわたしのことを見るの?
わたしのことを突き放すのなら、もっとちゃんとしてよ……そうじゃないと……わたし……どうしたらいいのかわからなくなっちゃうよ……期待しちゃうよ……。
「もっと、はっきり言ってくれなきゃわかんないよっ! お兄ちゃんの本当に気持ちを教えてよっ!」
わたしは、お兄ちゃんの胸に飛び込んだ。