第二章 再会は曖昧な輪の内側で Ⅱ
「何度読み返しても同じか……」
私は、『ルクト・ハンザ様へ』という書き出しで始まる手紙を折りたたむと、深いため息をついた。
何度読んでも書いてある内容が変わるはずがないのに……思わずこの手紙を手に取ってしまう……。
私は、差出人が『ラル・ルッツ』となっているこの手紙を受け取ったとき、”やはり来たか……”と思った。
そして、その内容に目を通して、自分が漠然と抱いていた不安が、現実となったことを知った。
だめやったか……。
彼女を、この世界の流れから守ることができなかった……。
しかし、なんでや?
ルッツ卿の手紙には、卿自身が、彼女に魔法を教え、教会の一員として叙階したと書いてあった。
しかし、私には、これがルッツ卿一人の考えに基づいたものであるとは考えられなかった。
なぜなら、彼女が教会から受けた『務め』が、私の直属の異端審問官だったからだ。
『第一審問管区長付異端審問官』
検邪聖庁である審問管区長に関する人事は、法王庁の所管ではなく、法王選出会議の所管である。
しかし、管区長である私の意思を聞かずに人事が行われることなど通常は考えられない。
確かに、形式上人事権は、法王選出会議にあるのだが、実質的には各管区長に委ねられており、法王選出会議は単にそれを承認するにすぎなかった。
それなのに、今回のこの人事については、私に何の相談もなかった。
やはり、長老達の意思が働いているとしか考えられない。
あのことを、長老達に気づかれたかもしれへんな……。
しかし、そうなら、彼女を私の下に置くこととの整合性がとれない。
……まあ、長老達のことだから、取り敢えず私に彼女を与えてみて様子を見てみようと、考えているのかもしれないが……。
どちらにせよ、彼女が今日ここに来ることには変わりはない。
彼女が、もう引き返せないところまで来ているのであるなら、私は、”検邪聖庁のルクト・ハンザ・として彼女に接しなければならない。
そうなれば、彼女は、もはや平穏な日常に戻ることはできなくなる。
そして、必然的に、自分の過去についても知ることになるだろう。
しかし、まだ彼女が引き返せるところにいるのなら……彼女を平穏な日常に戻し、自らの過去について知らずにすむようにしたい。
そして、そのためには……僕が”お兄ちゃん”だったことを絶対に知られては駄目だ。
ルッツ卿の手紙には、彼女はまだ僕の正体については何も知らないと書いてあった。
卿や長老達が、どうして彼女に、僕の正体を教えていないのかは解らないが、これは僥倖と言えよう。
かつて彼女が、”お兄ちゃん・と呼んでいた男が、検邪聖庁の一人であるということは、彼女のそれまでの存在基盤を一八〇度変えてしまう。
彼女を日常のある世界へ戻すためにも、それだけは避けなくてはならない……避けなくてはならないんだ……。
本当に?
本当に、それだけか?
本当に、それだけが自分の”正体”を、イリシスに知られたくない理由か?
私は、自分に問いかける。
本当に、彼女のためにそう思っているのか?
それだけなのか?
本当は、”お兄ちゃん”として振舞って彼女を騙していたことを、知られたくないだけじゃないのか?
私は、自分に問い続ける。
本当は、彼女に罵倒されるのが怖いだけじゃないのか?
”彼女のため”と言いながら、結局は、自分のことだけしか考えていないんじゃないか?
『ルクト、貴様は、卑怯な男だ』
”ヤツ”の声が、脳裏を過ぎった。
「違う!」
「どうしたんやルクト?」
……声がした……誰だ? どうして私に言葉をかける? どうして私なんんかに……?
どうして?
どうして?
どうして?
「おい! オレの声が聞こえへんのか!?」
”オレ”……?
そうだ……そうだった……今この部屋にはもう一人いたんだった。
私は、ようやく現状認識ができると、その声の主、親友であり従兄弟のエルバ・ハンザに目を向けた。
エルバは、さっきまで来客用のソファで寝転がっていたのだが、今は、上半身を起こしてこちらを見ていた。
「……いや……なんでもない……大丈夫だ……」
私は、自分の心の動揺を隠そうと、できる限り冷静を装った。
「なんでもないことあるかい。なんかおまえ様子が変やぞ。なんかあったんか?」
「……本当に大丈夫だ」
僕が、そう言うと、エルバは、ソファから立ち上がってこちらに近づいてきた。
そして、僕の背後に回りこむといきなりヘッド・ロックを決めてきた。
「な、なにっ」
「オラオラっ、そんな気取った喋り方するから、色んなものを溜め込んでしまうんや!
もっと肩の力を抜けや!」
「やめろ……」
「なにゆーてんねん! スキンシップ! スキンシップ!」
エルバはなおも技に力を入れてくる。しかも、恐ろしいほどの笑顔で。
こ、こいつ、逝っている……。
「わ、わかった……わかったから……」
「スキン! スキン!」
エルバは、もはや意味の分からないことを口走っている。
しかし、本人は、恐ろしいほどにご機嫌な様子だ。もはや、”悪ノリ”を通り越して、”悪ヨイ”という感じだった。
死ぬかもしれない……。
天下の検邪聖庁が、頭の逝っているヤツにヘッドロックで逝かされるなんて……そんな死に様が許されていいはずがない!
「やめろや! このアホ!」
そう叫ぶと、エルバは、パッと技を解いてくれた。
そして、親指を立てて「よし! その意気や、ルカーナ魂を忘れたらあんで!」と言い放った。
……ふうーっ……こいつ本気で僕を逝かしにかかってたぞ……恐ろしい男や……。
僕は、自分の首筋を擦る。
エルバにヘッドロックをキメられていた首は、嫌な汗が付着していた。
この汗……絶対僕のものだけやないぞ……なんかイヤな感じ……くさっ。
「男の汗ブレンドは、友情の証!」
エルバは、親指を立ててニカっと笑った。
「なんやねんそれ! 『ボクラ、青春マッサカリ”十七歳”探検隊!』か!?」
「おおっ……ええ感じのツッコミや……。それでこそ、オレの相方やで。いつでもオレの左は、ルクトの指定席やぞ」
僕は、エルバの言葉に笑顔で応えた。
身体が、少し軽くなったような感じがする確かに、エルバの言うように最近の僕は、肩肘を張りすぎていたのかもしれへんな……。
生来が、そんな真面目な性格でもない、どちらかというとお調子者のええかげんな男やのに、「こうなければならない」という自分が作り出したイメージに縛られていたかもしれへんな……。
でも、そうせざるを得なかったのも事実だ。
僕は、人一倍自尊心が強い男である。
聖職者になろうとした動機も、「自分の能力を世の中に示したる!」という俗っぽいものだった。
決して「世界を救おう!」とか「他人の役に立つ人間なろう!」というような立派な動機からではない。
……しかし、今の僕は、それだけでは収まらないものを、自分の中に抱えている。
それは、一歩間違えば、誇大妄想と言われてもしかたがないほどのものだったが、僕にとっては差し迫った現実的なものだった。
それこそ、「世界を救う」というような誇大妄想なことが、今、僕と僕を取り囲む世界では、日常的なことなのである。
『聖女』。
『扉』。
『異端の聖者』。
『奇形なる聖騎士』。
『正統なる異端の後継者』。
これら全てが、僕と僕を取り囲む世界を、飽和させ、押しつぶそうとしている。
僕は、僕と僕を取り囲む世界から逃げることは許されない。
自分を騙してでも、あるべき世界の状態を模索し、それを現実化させなければならない。
そうだ……僕……私は、逃げることが許されない……”彼女”からも……。
「ルクト! また表情が暗くなってるで!そんな顔をしてると、もう一度ヘッド・ロックをかけるぞ!」
エルバが、またもや僕の首に手をかけてきた。
「わかった、わかったから」
僕は、慌てて笑顔を作った。
「うーん。いいね。ヨシ!」
エルバは、ニカっ! と笑い、親指を立てた。
……そうやったな……僕は、いつもこうやって、こいつに救われてきたんやったな。
僕が何かに行き詰まったとき、いつもエルバは、僕に余裕を取り戻させてくれてきた。
それが、エルバの仕事でもあるとしても、僕はとても感謝していた。
最近、エルバと会っていなかったから、どんどん本来の自分を見失っていたんやな。
これは、エルバには感謝せなあかんわ。
「ありがとうな」
「うん? 何が?」
「まあ、色々や」
「色々か」
「そうや」
「よし! 色々やったら、こう叫べ! 『僕は眼で処女膜を破れます!』とな!」
エッ……?
ナニヲイッテイルンヤ、コノヒトハ?
「だから……」
エルバの表情は、『何で分からへんかなぁ……』という感じだ。
「わかったけど、なんやねんそれ?」
「『気合があるぞ!』っていうおまじないや。よう効くで、隣のエイドリアンもそう言ってた」
「絶対嘘や!っていうか、エイドリアンって誰やねん!」
「なんやと! オレに色々感謝してるって言ったのに、オレの言うことにイチャモンつけるきか!? コンチクショウ!」
「あたりまえやっ! さっきの感謝は撤回やっ!」
「ああぁ、ここに訳の解らんことを言いはる人がおる。ここに訳の解らんことを言いはる人がおる」
「なんで二回も繰り返すねん! まあええわ。おまえがそこまで言うんやったら、そのおまじないとやらを言ったるわ!」
「ほんまか? じゃあ、三、二、一、キュ!」
「僕は眼で処女膜を破れます!」
「そんな奴はおらんわ」
「……」
「……」
僕とエルバの間に沈黙が横たわる。
そして、僕たちは同時に笑いだした。