PROLOGUE
「お兄ちゃんっ!」
わたしは、冷やしておいいたはずのプディングがなくなっているのに気づいた次の瞬間には、そう叫び走り出していた。
そして、わたしのプディングを横取りした犯人の部屋の扉を、勢いよく蹴り開けた。
「お兄ちゃんっ! かってにわたしのプディングを食べたでしょ!」
部屋の中は、書物に溢れかえっており、まさに足の踏み場もなかった。
そして、書物の山の向こうにある机には、憎っくき犯人の姿がある。
わたしの兄である。
「た、食べてへんよ」と言って振り返ったお兄ちゃんの手には、しっかりとわたしの愛しのプディングがあった。
もう半分も残っていないよ……。
「今、手に持って食べているじゃないのよ!」
「そう、食べている途中であって、食べたわけではない」
お兄ちゃんは、学者口調でそう言った。
「なに屁理屈言っているのっ!」
わたしは、そんなお兄ちゃんの姿を見て情けなくなった。
「やっぱりあかんか……」
「ダメに決まってるよ! どうしていつもわたしのプディングを、かってに食べちゃうの?」
「おいしいから」
お兄ちゃんは、即答した。
ぶちっ!
「おいしいからって、勝手に人の物を食べていいわけじゃない! お兄ちゃんのバカっ!」
わたしの怒りのボルテージは止まることなく上がり続けて行く。
「ごめん、イリシスが作るプディングがあまりにも美味しいから、悪いと思いつつ手が出てしまうんや」
お兄ちゃんは、申し訳なさそうな顔の前で手を合わせた。
本当にもう……仕方ないんだから……わたしは、このお兄ちゃんの顔に弱い。
べつに、わたしだって本気で怒っているわけではないよ。
でも、もう二十代も後半になろうとしているのに書物馬鹿で生活能力ゼロのこの兄に対しては、ちゃんとした態度をとっておかないと、わたし達の生活が成り立たなくなってしまうのである。
本当にもう……しかたがないんだから……。
「わかったよ、許してあげるよ。でも、今度から食べるときにはちゃんと言ってね。わたしも多めに作るから」
「了解!」お兄ちゃんは、嬉しそうにそう言って、残りのプディングを口に運んだ。
わたし、イリシス・リヒトフォーエンは、この書物馬鹿で頼りない兄と二人で、村はずれの小さな家で暮らしている。
実は、わたしとお兄ちゃんとは血が繋がっていない。
わたしが、『お兄ちゃん』と呼んでいるのも単に習慣によるものだ。
まあ、簡単に言ってしまえば、わたしとお兄ちゃんは単なる『同居人』ということになる。
しかし、小さい頃から一緒に住んでいると、自然と『お兄ちゃん』と呼ぶようになっていた。
わたしが、この村-ストアに来たのは、五年ぐらい前のことらしい……。
”らしい”と曖昧なのは、わたしにはその頃の記憶がないからだ。
今から五年前といえば、わたしが八歳ぐらいの頃だ。
だから、”もの心つく前・というわけではないんだけど、わたしにはその頃の記憶がなかったりする。
それどころか、わたしには、八歳より前の記憶が全くなかった。
あやふやながらもわたしの記憶が始まるのは、お兄ちゃんとこの家で暮らしているところからなのだ。
もちろん、お兄ちゃんには、何度かわたしの過去について尋ねてはいる。
しかし、その度にお兄ちゃんは、「実は、ぼくもあまりよう知らへんねんな。昔お世話になった人から、イリシスを預かってくれと頼まれただけやから」と言うだけだった。
それぐらいで、年端もいかない子供を預かったりする……?
むぅー、お兄ちゃんならしそうだよ……。
でも、今では以前に比べて、あまり自分の過去については気にならなくなっていた。
だって、今の暮らしが楽しいんだもん。
頼りなくて書物馬鹿のお兄ちゃんだけど、実は結構優しいし、本当に……本当にときどきだけどかっこよくみえるときもあったりする。
ほ、本当にときどきだよっ……。
それに、何よりお兄ちゃんと一緒にいると心が安まるのだ。
これが、かっこいいおにいちゃんだと、そうはいかないよね。
一緒にいるだけでドキドキしちゃうもん♪
それに、フィナさん達村の人も親切だし。
フィナさんは、わたしがバイトしている『ダンネベルク』という、昼は普通の料理店、夜は酒場というお店の経営者兼店長さんである。
といっても、あまりお店は大きくはなく、フィナさんとわたしの二人だけで切り盛りしている。
フィナさんは、すごい美人でかっこいいというお姉さんタイプの女性だ。
年は、よくわからないけど、お兄ちゃんと同じぐらいに見えるから二十代半ばといったところかなぁ……。
とにかく、ハッとするぐらいの凄い美人なのだ。
だから、フィナさんは、男のお客さん達にとても人気がある。
お兄ちゃんも、お酒はあんまり飲めないくせに、フィナさんに会うために毎晩『ダンベベルク』へ通っている。
本人は、わたしが酔っ払いにからまれないか、心配だから毎日来ていると言っているけど……わたしが見る限りは、とてもそうは見えない。
むしろ、『ダンネベルグ』にいるときのお兄ちゃんの目には、フィナさんしか映っていないように思える。
まあ、フィナさんには、まったく相手にされていないみたいだけど……ほんと、お兄ちゃんには、もうちょっとしっかりとしてほしいよね、ふぅー。
でも……わたしもフィナさんみたいになれたら……そうしたら、お兄ちゃんだって……って、な、なに言っているのよっ!
お兄ちゃんのバカっ!
ま、こういう感じで、わたしは、毎日楽しく過ごしているというわけなのだ。
だから、わたしの過去になにかがあるのかはわからないけど、それを知ることによって今の生活が壊れることになるくらいなら、知らない方がいい……今は、そう思うようになっていた。
そして、それと同時に、この楽しい生活がいつか終わるのではないかと、ときどきすごく不安になるときがある。
しかし、そんなときでも、結局、今日のようなお兄ちゃんとのやりとりの中で、その不安は薄らいでいった。
でも、わたしもいつかは結婚して、この家を出ていかなくちゃならないのかなぁ……わたしが、お嫁にいったら、お兄ちゃん泣いちゃうかも……。
それどころか、日々の生活もまともにできなくなりそうだよ……。
むぅー、これじゃいつまでたっても結婚なんてできないじゃないのよ……。
もうちょっと、お兄ちゃんには、しっかりしてもらわないとね。
……でも、いざとなったらわたしが、お兄ちゃんと結婚してあげてもいいかなぁ……て!
も、もちろん、いざとなったらの話よっ!
わたしの理想は高いんだから!
あんな書物馬鹿で頼りない男なんかは、わたしの理想とは全然違うんだからね。
わたしの理想の男性は、知的でクールな雰囲気を持っているんだけど、実はとても優し
くてわたしをいつも守ってくれるという感じの人なの。
……まあ……現実には、そんな恋愛小説の主人公みたいな人がいないのは、よくわかっているんだけどね。
でも、まだまだ恋に恋するお年頃ですから、そこらへんは許していただくということで……。
「イリシス、さっきからなに独りでぶつぶつ言ってるんや?」
えっ……な、何?
いきなり声をかけられたわたしは、回想&妄想の世界から帰還した。すると、わたしの目の前には、お兄ちゃんの心配そうな顔があった。
……わたし、また妄想モードに入っちゃったの……恥ずかしいよ……。
「な、なんでもないわよ。それよりもお兄ちゃん、わたし、これから『ダンネベルグ』へ行くけど、お兄ちゃんはどこかに行く用事あるの?」
「ないで。今日は、午後にお客さんが来るからずっと家におる」
「なにそれ? わたし、お客さんが来るなんて、全然聞いてなかったよ」
「だって、言わへんかったから」
「もぉ! なんで言ってくれないのよ。お茶菓子とかなにも買ってないよ」
「そんなんいらんて。すぐに帰ってもらうつもりやから」
「そうなの……まあ、それならいいよ。じゃあ、お留守番よろしくね、お兄ちゃん」
わたしは、お兄ちゃんにそう言うと、勢いよく玄関の扉を開けた。
▽
「了解!」
私は、彼女を見送ると自室へ戻り、本が山積みになっている机の前に座った。
そして、しばらく、何もせずただ天井を見つめる。
今日が約束の日か……。
これからやって来る長老達からの使者に、私のイリシスに対する判断を伝えたら、彼女は自由になる。
……いや、今後も彼女は、法王庁の監視下に置かれることには変わりはないから、自由になるとは言いすぎか……しかし、もう、彼女が異端者として断罪されることはないはずだ。
そして、イリシスの前から、”書物馬鹿で頼りないお兄ちゃん”は消える……。
私は、彼女が僕を評するときに好んで使う、この”書物馬鹿で頼りないお兄ちゃん”というフレーズを気に入っていた。
彼女の口からこの言葉を聞く度に、私は、とても穏やかな気分になれるのだ。
ただ、それと同時に彼女に対する罪悪感も心に広がっていった。
彼女が、私に心を開いてくれているのはわかっている。
彼女は、私のことを本当の家族のように思ってくれているようだ。
しかし、彼女が見ている私は、あくまでも”書物馬鹿の頼りないお兄ちゃん・であって、本当の私ではない……。
本当の私は、自ら信じる秩序の正統性を証明するために、彼女を利用している酷い男だ……。
彼女の思っているような”お兄ちゃん・ではない……。
正しく、理想とすべき秩序。
正統と異端。
全ては、単なる解釈の違いにすぎなかった……誰も間違ってはいない。
ただ、それを間違っていると言わなければ、自ら信じる秩序を保つことができない……自ら信じる秩序を正統であると証明しなければ、この世界から排斥され『異端』へと陥ちてしまう。
だから、私は……
イリシスを利用した……。
騙して、利用した。
汚して、利用した。
貶めて、利用した。
しかし、こんな私に対しても、彼女は、とても心地よい笑顔を見せてくれた。
私は、その笑顔を見るたびに、全てを忘れてこのままここで過ごすことを夢想する。
しかし、それはあくまで夢想に過ぎない。それは、決して実現することはない。
このなんでもないことが当たり前の穏やかな日常は、私が作り出した幻だ。
私の欺瞞の上に成立する幻なのだ。
しかし、その欺瞞を一時でも忘れることができれば、このストアでの生活が私にとっては何ものにも代えがたい大切な時間となった。
おそらく、今後の私の人生において、これ以上の満ち足りた時間を過ごせることはもうないだろう。
それが、私にとっての必然。
しかし……イリシスは違う……。
彼女には、これからも、この穏やかな日常を享受させてあげたい。
彼女には、笑顔に溢れた人生を送らせてあげたい。
彼女は、何の罪もないのに、充分過ぎる程の苦しみを受けた。
……もうこれ以上……彼女から何を奪えるというんだ?
もう、彼女を苦しめたくはない。
もう、彼女は、充分過ぎるほど苦しんだ。
だから……
イリシスは、私と一緒にいるべきではない……。
私と一緒にいれば、私自身が彼女を苦しめ続けることになってしまうことになるだろう……。
私は、この世界の流れを、曖昧な輪の連鎖を止めなければならない。
そして、そのためには……。
ボーン
時計が正午を告げた。
……もう……長老達の使者が来る頃だった。
▽
「ただいまぁ」
わたしは、夕ご飯の材料が入った買い物袋を、玄関に置いた。
あれ?
いつもだったら、「おなかがすいた~、早くメシを作ってくれや~」というお兄ちゃんの声が聞こえてくるのに……今日は、どうしたんだろう?
「……お兄ちゃん?」
しかし、わたしの呼びかけに返事はない。
どうしたのかなぁ……今日はどこにも行かないって言っていたのに……。
お兄ちゃん、散歩にでも行っているのかなあ……でも、なんだかそんな感じじゃないし
……。
これじゃあ、まるで……まさかっ!
わたしは、買い物袋を投げ捨てると、お兄ちゃんの部屋に向かった。そして、お兄ちゃ
んの部屋の扉を勢いよく開けた。
部屋には、何もなかった。
どういうこと……?
今日、わたしが家を出るまでは、あんなにたくさんの本があったのに、今は、この部屋には一冊の本もなかった。それどころか、机や椅子等の家具類もなくなっている。
まるで、そこには、初めから誰も住んでいなかったかのように、全てがなくなっていた……。
「……何かの冗談だよね……お兄ちゃん……」
誰もいないのはわかっているのに、わたしは声に出していた。
「どこかで見て、笑っているんでしょ? ねえ、お兄ちゃん……?」
お兄ちゃんは、いなくなってしまった……。
「そんなに意地悪しないでよ。もう、わたしのプディング勝手に食べても怒らないから
……」
お兄ちゃんは、もうここには戻ってこない……。
「ねえ、お兄ちゃんっ!」
涙が何度も頬をつたって床に落ちていく。いつかこんな日が来るんじゃないかという漠然とした不安はあった……。
でも、いつまでもこの生活をしていけるという希望も……希望も確かにあったのだ。
「お兄ちゃんの嘘つき……わたしのことを必要だって言ったのに!」
これが、わたしとお兄ちゃんとの別れ。
そして、私とお兄ちゃんが再会したのは三年後のことだった。