娘は君に…… :約4500文字 :コメディー
昼下がり。とある一軒家。
彼女のあとに続いて居間に足を踏み入れた彼は、ぎこちない動きでゆっくりと畳に腰を下ろした。背筋はまっすぐ伸びているものの、膝の上に置いた手にはわずかに力がこもり、肩もどこか強張っていた。
向かいに座る彼女の父親は読んでいた新聞を静かにたたみ、座卓の脇に置いた。
一言二言挨拶を交わしたあと、彼女が席を立った。ほどなくして台所から戻ってくると、それぞれの前に湯呑みを置いた。立ち上る湯気から、ほのかに茶の香りが漂う。
三人はしばらく他愛のない話を続けた。仕事のこと、最近近所にできた店のこと、テレビのニュース。どれも当たり障りのない話題だったが、どこか上滑りしており、誰もがこれから始まる本題を意識しているのは明らかだった。
やがて彼女がテーブルの下でそっと彼の膝に触れ、目配せをした。その合図を受けて、彼はにやりと口角を上げた。ゆっくりと頷き、居住まいを正すと、一度長く息を吐いて呼吸を整え、口を開いた。
「あの、お義父さん」
「……」
「お義父さん……?」
「ねえ、お父さん。彼から話があるんだけど」
「おお、どうした?」
彼女の父親は顔を上げ、にこやかに笑った。
「あ、あの……娘さんを僕にください!」
彼は膝に両手を置き、深々と頭を下げた。
うまくいくとわかっていても、いざとなるとぎこちなくなってしまうものだな――彼は頭を下げたまま口元をわずかに緩め、内心で苦笑した。
彼はこの日、彼女の実家へ結婚の挨拶に訪れていた。しかし、さほど緊張していなかった。というのも、必ず認めてもらえると最初からわかっていたからだ。むろん、彼女がプロポーズを受け入れた以上、父親も認めざるを得ないだろうが、それだけではない。実はすでに父親とは話がついていたのである。
数週間前の夜のことだった。
彼は彼女の父親に呼び出され、一緒に居酒屋へ行った。
それまで会ったのは一度だけ、それも顔合わせ程度の短い時間だった上に、二人きりで会うのはこれが初めてだったので、彼はかなり緊張していた。呼び出された理由も何を話せばいいのかも見当がつかず、箸の持ち方や酒の注ぎ方までいちいち気になった。
一方で父親には緊張する様子など少しも見られず、気さくに話しかけてくれた。おかげで強張っていた彼の体も、杯を重ねるうちに少しずつほぐれていった。
しかし、飲み始めてから数十分ほど経った頃だった。父親がふいに箸を置き、声を低くして言った。
『実は……君に頼みがあるんだ』
『頼み……ですか?』
『ああ……。娘を嫁にもらってやってほしい』
『え、それはその……もちろんそうするつもりというか、あの、光栄です。お義父さんからそう言っていただけるなんて……』
『ははは、そんなに固くならなくていいじゃないか。もう知った仲なんだから』
『あ、あはは……すみません』
『それで、もらってくれるんだな?』
『え、ええ、もちろんです!』
『そうか。ははは、よかった。妻を早くに亡くしたことは、君も知っているだろう。あれからずっと男手ひとつで育ててきてなあ』
『ええ、本当にお義父さんも娘さんも立派だと思います。大学を出て、いい会社に入って、全然擦れてなくて、気立ても良くて……僕なんかにはもったいないくらいです』
『ははは、そうかそうか。いや、君となら安心だよ』
『お義父さんのご期待に応えられるよう頑張ります……! あ、すみません。さっきから、“お義父さん”って……』
『ははは、いいんだ。そう呼んでくれ。息子ができたみたいでうれしいよ』
『は、はい……!』
『じゃあ、そういうことだから近いうちに頼むよ』
『はい! ……え、えっとすみません、何をですか?』
『プロポーズだよ。できるだけ早くな』
『え? できるだけ早く、ですか? それはちょっと……』
『ああ。本当はいろいろ準備したいところだろうが、そこを頼むよ。そうすれば安心して逝ける』
『逝けるって……? あの……』
『……肝臓をな。もう長くはないんだ』
『そんな……』
『だから頼む。このとおりだ』
『ちょ、やめてくださいよ。頭を上げてください』
『花嫁姿が見たいわけじゃない。娘が結婚したというだけで安心できるんだ。頼む、籍だけでも入れてくれ』
『……わかりました。明日にでも彼女にプロポーズします』
『ありがとう……! よし、乾杯だ!』
『ははは、お酒は駄目ですよ』
『いいんだいいんだ。もう関係ない。それに、せっかくのお祝いだ。ははは!』
父親はそう言って、空になりかけた杯に震える手でなみなみと酒を注ぎ足した。
そうして彼は約束どおり彼女にプロポーズし、今日こうして結婚の挨拶にやってきたのだった。
だが――。
「……やらん」
「ありがとうご――え?」
彼は思わず口を半開きにして父親を見つめた。
「君に娘はやらん」
「は!?」
「ちょっとお父さん、どういうこと?」
彼女は顔色を変え、身を乗り出すようにして父親に訊ねた。
「いや、本当にどういうことですか、お義父さん」
「どうもこうもない! お前に娘はやらん! 帰れ!」
父親は座布団に膝を立て、腕を大きく振って玄関のほうを指し示した。
「せめて理由くらい言ってよ!」
「帰れ! 今すぐその汚いケツを上げて、この家から出ていけ!」
「いや、あの」
「帰れ! このドブネズミが!」
「お義父さん」
「お前ごときに『お義父さん』と呼ばれる筋合いはない! 身の程知らずのカメムシが! 消え失せろ!」
「いや、口悪いな」
「さあ、今すぐ出ていけ! 不快害虫が!」
「お父さん!」
「あの、ごめん。ちょっと席を外してもらってもいい?」
彼が彼女に言った。
「え、あたしが?」
「そう。少しお父さんと話したいから。男同士で」
「え、なんで?」
「それは……そういうものだからさ」
「このファッキンイエローモンキーィィィ……!」
「そう……まあ、いいけど。お菓子取ってくるから。でも何かあったらすぐに呼んでね」
彼女は首を傾げながらしぶしぶ立ち上がると、訝しげに二人を交互に見やってから部屋を出ていった。
襖が静かに閉じられ、廊下の奥へ遠ざかっていく足音が完全に聞こえなくなったのを確認すると、彼は改めて父親のほうに向き直った。
「あの、お義父さん」
「誰が『お義父さん』と呼んでいいと言った。虫唾が走るんだよ……!」
「いや、お義父さん自身がおっしゃいましたよね? というか、どうなっているんですか。話が全然違うじゃないですか。正直、まだ少し早いんじゃないかとも思ったのにプロポーズしたんですよ。彼女だってちょっと迷っていたみたいだし……。それなのに、なんで今さら反対するんですか」
彼は眉をひそめながら訊ねた。
「……やってみたかった」
「……はい?」
「お前に娘はやらん! ……いいねえ」
「それを!? それをやってみたかったんですか!?」
「ああ、死ぬ前に一度言ってみたかったんだよ。いやあ、実に気持ちがいい!」
父親は先ほどまで険しい表情から一転して、晴れ晴れとした顔で何度も頷いた。
「知りませんけど……え、まさか、本当はそれが心残りだったんですか……?」
「いやいや、娘のことが気がかりなのは本当だよ。君のような男に巡り会えて本当によかったと思っている」
「じゃあ、認めていただけるんですね?」
「もちろんだよ。当然じゃないか」
「ああ、よかった……」
「話はどう……?」
彼は肩の力を抜き、深く息を吐き出した。ちょうどそのときだった。彼女がそっと襖を開け、隙間から顔を覗かせた。
彼は安堵の笑みを浮かべて振り返った。
「ああ、今ちょうどお義父さんに認めてもら――」
「絶対にやらん! 消えてなくなれ!」
「お義父さん!?」
「全然話が進んでいないじゃない!」
「いや、違うんだって、本当はもう認められているんだよ」
「帰れ! さもなくば死ね!」
「え、お義父さんって二重人格?」
「いや、違うと思うけど……ねえ、お父さん。本当に駄目なの?」
「ああ。おれの目が黒いうちは、こいつなんぞに娘は絶対にやらん」
「もうじき白くなると思いますけど……」
「この男だけは絶対に駄目だ。ほら、くせえ……くせえぞ。臓腑が腐って悪臭がぷんぷん漂ってきやがる」
「腐っているのはお義父さんの肝臓では……」
「見ろ。目なんか濁りきっている」
「お義父さんは黄色いですけどね」
「さあ消えろ! 殺すぞ!」
父親はこめかみに青筋を立てて怒鳴り散らした。
彼女は二人の間に割って入るように身を屈め、彼の肩にそっと手を置いた。
「とりあえず今日のところは帰って。ね? 私が話しておくから」
「いや……まあ、でも……ん?」
「……コイヨ。コイ」
「え?」
彼は思わず小さく声を漏らした。
彼女の肩越しに父親が両手でくいっ、くいっと手招きしているのが見えた。
「オセオセ」
「あ、そういうことか……」
「ん? どうしたの?」
彼女が不思議そうに首を傾げた。
「いや、大丈夫」
彼はそっと彼女の肩を押し、下がるように促すと咳払いを一つした。
「あの、お義父さん……。娘さんを僕にください! 必ず幸せにします! 一生をかけて守り抜くと誓います!」
「……やらん!」
「なんなんですか!」
「でけえ声出しやがって。貴様の声を聞いていると耳が腐るわ」
「お義父さんのほうが、さっきからだいぶ声が大きいですけど……」
「いつまでそこに座ってやがる……。くせえケツの臭いが座布団に移るだろうが!」
「病人がよくそんな声を出せるな……」
「帰れゴミムシが! おおおん!?」
父親は座卓を平手で打ち鳴らし、唾を飛ばした。湯呑みの茶が波打ち、卓上にぽたりと跳ねた。
彼は小さく息をつき、懇願するように言った。
「あの、もういいじゃないですか……。いつまでやるんですか、こんなこと」
「こんなことだと……。それが結婚の挨拶に来た男の言う台詞か!」
「それはまあ、そうですけど……いや……」
「手をついて、畳に額を擦りつけるくらい頭を下げるのが筋ってもんだろうが!」
「まあ、そうしてほしいならやりますけども……」
「顔を踏まれ、足をぺろぺろと舐め、涙ながらに懇願してようやくスタートラインだ!」
「嫌ですよ。なんでそこまでしなきゃならないんですか」
「『そこまでしなきゃならない』……?」
彼女が眉をひそめ、じろりと彼を睨んだ。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて……」と、彼は慌てて両手を振った。
「あの、ほら、お義父さん。もういいでしょう……」
「誰がお義父さんだ、気色悪い! ぶち殺されてえのか!」
「今日は無理みたいだから。ね? ほら、行って」と彼女が促した。
「いや、でも……」
「とっとと消え失せろ! 出歯亀野郎! おおん!? おおおおおおおん!?」
「あ、ああ……」
彼女に腕を引っ張られ、彼は首を傾げながら立ち上がった。部屋を出る直前、彼は一度だけ振り返り、父親のほうを見た。すると父親は親指をぐっと立て、満足そうに何度も頷いていた。
また後日に、ということなのだろう。彼は小さく頷き返すと、玄関先で深いため息をついた。
それから数週間後。彼女の父親はこの世を去った。
彼は改めて彼女に結婚の話を切り出したが、あっさり断られた。
どうやら、あのやり取りを父の遺言と受け取ったらしい。




