第67話 新たな旗
領都グランディアへ帰還した翌朝。
夜明けの薄金色の光が屋敷の窓を照らす頃には、すでにレオンたち一行はそれぞれの持ち場で忙しなく動き始めていた。
レオンは執務室の大机に向かい、旅の間に積み上がった書類の山と静かに対峙していた。羽ペンの先が紙を滑る音が、まだ冷たい朝の空気に淡く響く。
その隣りではサラが、予算帳簿や各村から届いた報告書を次々と確認していく。
数字の流れを読み取り、必要な指示を書き込み、時折りレオンへ短く助言を挟む。
行政府の文官トップが領主補佐のレオンなら、サラはそのすぐ下──
財政と物流を一手に握る、実務の長としての責任を背負う存在だった。
彼女の判断ひとつで、領内の金と物の流れが変わる。
その重みを、サラは迷いなく受け止めていた。
一方、エリザベートは到着早々、留守を預かっていたガレスに半ば引きずられるように執務室へ連れて行かれ、領主としての報告と決裁の山に埋もれていた。
机の上に積まれた陳情書の束は、領主が不在だった期間の重さを物語っている。
シエルとオスカーは、隊長と副隊長が同時に不在となっていた護衛哨戒隊の詰所で、報告の確認や警備体制の再調整に追われていた。
彼らが戻ったことで、隊の空気はようやく落ち着きを取り戻しつつある。
そんな中──
ジークだけは暇だった。
いや、正確には「暇を与えられた」だった。
フィヨル村からの帰り道、野営の焚き火の前で語った“商会の夢”。
その熱を受け取ったエリザベートとレオンが、 「今日は市場を見てくるといい」と背中を押してくれたのだ。
ジークは、体の奥にまだ残る焚き火の温もりを思い出しながら、ゆっくりと屋敷を後にした。
⸻
ジークは軽い足取りで中央市場へ向かっていた。
朝の陽射しは夏の終わりを告げるように柔らかく、石畳の上に淡い金色の光を落としている。
露店の布が風に揺れ、香辛料の刺激的な匂いが鼻先をくすぐった。
荷馬車の軋む音、商人たちの威勢のいい呼び声、客たちの笑い声が折り重なり、街全体がひとつの大きなうねりとなって動き出している。
フィヨル村の静けさとはまったく違う。
ここには、人と物と金が絶え間なく流れ込む、“商人の街”としての息づかいがあった。
ジークは思わず大きく伸びをした。
「やっぱり……落ち着きますね」
フィヨル村の素朴な温かさも悪くなかった。
だが、彼の血が騒ぐのはこういう場所だ。
人が集まり、物が動き、金が巡り、商談の匂いがそこかしこに漂う場所。
街道整備、鉱山の再開発、牧畜事業、宿場町レストの改革──
そしてフィヨル村での水路と畑の開発。
それらが少しずつ実を結び始め、グランディアの市場は以前より明らかに活気を増していた。
「……いい風が吹いている」
ジークが小さく呟いたその瞬間だった。
「三の若ーっ!!」
市場通りに響き渡る大声。
ジークは思わず振り返った。
人混みをかき分けながら、一人の男がこちらへ走ってくる。
三十代前半、薄茶色の髪に快活な顔立ち。
身軽な商人の服装がよく似合い、その動きには無駄がない。
そして──
見覚えがあった。
「……ギリアム?」
「お久しぶりです!!」
勢いよく頭を下げるその姿に、ジークは目を丸くした。
ローラン商会。
隣領リールスタットでも五指に入る大商会。
その若手幹部であり、将来を嘱望された男。
「なんでお前がここに……」
「退職しました!」
「は?」
あまりにも軽い口調に、ジークは思わず聞き返した。
「いや、待て。何をした?」
「円満退社です!」
「本当に?」
「本当にです!」
胸を張るギリアム。
逆に怪しい。
だが、次の瞬間、彼の表情が引き締まった。
「……ジーク様」
「その呼び方はやめてくれ」
「では……ジークさん」
「まあ、それでいい」
ジークは少しだけ肩の力を抜いた。
ギリアムは深く頭を下げる。
「昨日、領主様御一行が帰還されたと聞きまして……今朝は宿屋街でずっと張り込んでいたんです。でも見つけられなくて……まさか市場でお会いできるとは」
「……そんなことを」
「会いたかったんです。どうしても」
市場の喧騒が、ふっと遠のいた気がした。
「辺境伯領での活躍。宿場町レストの改革。フィヨル村の開発。そして、領主様と補佐殿に食い込んでいることも──さすがはジーク様です」
「……誤解されるような言い方は、やめてくれ」
「でも、事実でしょう?」
否定できないのが悔しい。
ギリアムは真剣な目で言った。
「私を使ってください」
「……どういう意味だ?」
「私は商売が好きです。ですがローラン商会では、どれだけ成果を出しても番頭にはなれない。それに兄がいる以上、実家も継げません」
その言葉に、ジークは目を細めた。
──自分と同じだ。
長子相続。
男女の差もない。才能があっても、生まれ順には勝てない。
「だからこそ、あなたが本気で商会を作るなら……私は、その一番になりたい」
その言葉が落ちた瞬間、市場のざわめきがふっと遠のいたように感じた。
風が広場を横切り、露店の布を揺らす。
ジークの胸の奥で、何かが静かに震えた。
ギリアムは真っ直ぐにジークを見ていた。
軽口を叩くときの快活さは影を潜め、そこにあるのは、ただひたむきな覚悟だけだった。
ジークはしばらく黙り、その視線を受け止めるようにゆっくりと息を吸った。
そして、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「……馬鹿だな」
呆れたような声音。
だが、その奥にはどこか温かいものが滲んでいた。
「よく言われます」
ギリアムは迷いなく返す。
その即答ぶりに、ジークは思わず肩を落とした。
「給金、安いぞ」
「頑張ります」
間髪入れずに返ってくる。
その真剣さが、逆に可笑しい。
「忙しいぞ」
「望むところです」
ギリアムの声には、
長年押し込めてきた“自分の居場所を求める熱”が宿っていた。
「後悔するぞ」
ジークは最後の確認のつもりで言った。
それは脅しでも試しでもなく、“本気で来るなら覚悟を持て”という、商人としての最低限の礼儀だった。
「しません」
ギリアムは一歩踏み出し、迷いのない瞳でそう言い切った。
その即答は、ジークの心にまっすぐ突き刺さった。
──ああ、こいつは本気だ。
その瞬間、ジークは腹を括った。
もう一人ではない。
ならば、やるしかない。
本当に、自分の商会を作るしかない。
広場を吹き抜けた風が二人の間に新しい旗を掲げるように、静かに、しかし確かに流れていった。
⸻
その夜。
護衛騎士隊の詰所にあるガレスの執務室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
分厚い木の扉を開けた瞬間、ジークは思わず足を止めた。
壁には、歴代の隊長たちの姿絵が静かに並んでいた──
どれも丁寧に描かれ、落ち着いた額縁に収められている。
まっすぐな眼差しや凛とした姿勢に、領地を守ってきた者たちの穏やかな誇りがそっと宿っていた。
ガレスの家は、代々フォルスワーグ領を守ってきた由緒ある騎士の家系。
この部屋は、ただの執務室ではない。
“この地を支えてきた者たちの歩み”が静かに息づく場所だった。
ガレスは椅子に深く腰を下ろし、酒杯をそっと傾けながら笑った。
「今すぐ商会が欲しいのか」
その声音は豪快だが、ジークの心の奥にある熱を見抜いているようでもあった。
「欲しいですね」
ジークは姿絵の列を一瞥し、その視線に背中を押されるように答えた。
ガレスは酒を一口飲み、喉を鳴らしてから意味深に口角を上げた。
「丁度いい話がある」
その一言に、ジークの心臓がわずかに跳ねた。
ガレスは机の上の書類を一枚つまみ、指先で軽く弾く。
「引退したがっている老商人がいてな。店も倉庫も得意先も残っている。息子は騎士になって継ぐ者がいない」
淡々と語られる言葉の裏に、“領都の伝手を知り尽くした男”の重みがあった。
ガレスは領都の商人、職人、役人──
あらゆる層に顔が利く。
それは、代々この地を守ってきた家の信用と、彼自身の人望が積み重なってできたものだった。
ジークの目が変わった。
昼間ギリアムが見せた覚悟と同じ、商人としての鋭い光が宿る。
「……詳しく聞かせてください」
ガレスは満足そうに笑い、酒杯を机に置いた。
「そう言うと思った」
その声には、若き商才を見届ける者の誇らしさが滲んでいた。
そして──
若き商人の運命を変える話が、静かに──しかし確かに幕を開けた。




