第54話 藍色の想いの行方
領都グランディアの朝は、いつもより少しだけ穏やかだった。
石畳に差し込む光は柔らかく、初夏の風が街路樹の葉を揺らしている。
護衛哨戒隊の詰所前で、オスカーは腕を組んだまま空を見上げていた。
藍色の外套を脱いでいるのに、どう見ても“休暇の顔”ではない。
「……本当に、休んでいいのか?」
「隊長。休暇は“義務”ですよ」
背後から聞こえた澄んだ声に振り返ると、シエルが立っていた。
淡い灰色の軽装は、元下級貴族らしい控えめな品の良さを自然に滲ませている。
「隊長が休まないと、兵士たちが落ち着きませんから」
「……そういうものか?」
「そういうものです」
シエルの柔らかな微笑みに、オスカーはなぜか視線を逸らした。
こうして、二人の休暇が始まった。
本来なら副隊長の彼女に休む理由はない。
それでもシエルは、隊長の休暇に付き添うことを当然のように選んでいた。
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朝の市場は、陽光に照らされた果物が鮮やかで、焼きたてのパンの香りが風に乗って漂っていた。
売り子たちの声が飛び交い、子どもたちが走り回る。
そんな賑わいの中でも、オスカーは周囲を警戒するように視線を巡らせていた。
「隊長、そんなに周りを見回さなくても大丈夫ですよ。今日は任務じゃないんですから」
「癖だ」
「知っています。でも、少し肩の力を抜いてください」
シエルは歩幅をそっと合わせる。
その仕草は控えめなのに、どこか品があった。
市場には、果物の色と声のざわめきで満ちていた。
甘い香りに誘われ、二人は足を止める。
そのとき、走っていた小さな子どもがつまずき、抱えていた袋を放り出してしまった。
転がった果物を、シエルはすぐに拾い集めて優しく手渡す。
「気をつけてね」
子どもは照れくさそうに礼を言い、また駆けていった。
その様子を横目に、オスカーはわずかに目を細めた。
「隊長、あそこに新しい蜂蜜タルトのお店があるみたいです」
シエルは控えめに店主へ会釈し、タルトを二つ買った。
「どうぞ。甘さは控えめだそうです」
「……俺は甘いものは得意じゃない」
「存じています。でも、ここのは軽いと聞きました」
その言葉に、オスカーはわずかに目を瞬いた。
シエルは、自分が隊長の好みを覚えていたことに気づき、頬がほんのり熱くなる。
オスカーはタルトを一口かじった。
「……悪くない」
「ふふ。よかったです」
シエルの笑顔に、オスカーはまた視線を逸らした。
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市場を抜ける途中、白い可憐な花が目に留まる。
「隊長、あの花……“月影草”です。母が好きだったんです」
思わず花に触れようとしたシエルの指先は、懐かしさを含んでいた。
「買うか?」
「いえ……見るだけで十分です」
そう言いながらも、横顔はどこか寂しげだった。
(……十分なわけがないだろ)
オスカーは何も言わず、店主に花束を頼んだ。
「……隊長?」
「どこか静かな場所で見ればいい」
ぶっきらぼうな言い方なのに、胸がふわりと温かくなる。
シエルは花束を胸に抱え、そっと腕に収めた。
その仕草は、まるで宝物を扱うように丁寧だった。
「隊長、領主館がある丘に寄っていきませんか」
初夏の風が、シエルの銀髪をそっと揺らした。
「……いいだろう」
その返事は短いのに、不思議と優しかった。
⸻
二人は、領主館の建つ小高い丘へと続く道をゆっくりと上っていった。
歩みを進めると、風が吹き抜け、シエルの銀髪と抱えた花束の白が柔らかく揺れた。
丘の中腹まで来ると、街のざわめきが遠ざかり、鳥の声と葉擦れの音だけが静かに耳へ届く。
「……こうして見ると、領都って本当に美しいですね」
シエルが足を止め、眼下に広がる街並みを見つめる。
陽光を受けた屋根が、穏やかな色合いで連なっていた。
「そうだな」
短い返事なのに、どこか柔らかい。
「昔は……逃げることばかり考えていました。
家を失って、居場所もなくて。
でも今は、守りたい場所があって、帰る場所があって……それが、とてもありがたいです」
その横顔は、遠い記憶を見つめるように静かだった。
オスカーは黙って聞いていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……俺もだ」
その一言が胸に落ちる。
“俺も”の中に、自分も含まれていたら。
そんな考えがよぎって、シエルは慌てて視線を逸らした。
初夏の風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
⸻
夕暮れが街を金色に染める頃、シエルが控えめに声をかけた。
「……隊長、少し寄り道しませんか?」
指先が示した先には、小さな酒場《風見亭》の木製看板が揺れていた。
店内は木の香りが心地よく、壁に掛けられたランタンの灯りが、初夏の夜風に揺れるカーテン越しに柔らかく揺れていた。
開け放たれた窓からは、涼やかな風と遠くの虫の音が運ばれてくる。
「いらっしゃい。おや、オスカー隊長じゃないか。珍しいねぇ」
女将は目を丸くし、すぐににやりと笑った。
「しかもシエルちゃんと一緒とはねぇ。仲がいいこと」
シエルは一瞬で頬を赤くし、オスカーは意味が分からず軽く眉をひそめた。
「……休暇だ」
「はいはい、分かってるよ。ゆっくりしていっておくれ」
シエルは席に着くと、上品な所作でメニューを開いた。
その姿は、粗野な酒場の中でも不思議と馴染んでいる。
「隊長、何にします?」
「……軽い酒でいい」
「では、私はハーブティーを」
昼間の蜂蜜タルトの余韻がまだ残っているのか、シエルの心は少し浮き立っていた。
飲み物が運ばれてきて、二人が静かに杯を傾けていたその時──
店内の奥では、酔いの回った男たちが笑い合っていた。
「おい、そこの姉ちゃん。見ない顔だな」
酔った若い男がふらつきながら近づいてきた。
「え、あの……」
「一緒に飲もうぜ。こんな綺麗な子が来てるなんて、ついてるじゃねぇか」
男はシエルの肩に手を伸ばそうとした。
──その瞬間。
「触るな」
低く、鋼のような声が響いた。
オスカーが椅子を引いて立ち上がり、男の手首を掴んでいた。
それほど力を込めていないようなのに、男は顔を引きつらせる。
「た、隊長……っ」
「酔ってるなら座ってろ。迷惑だ」
周囲の客たちがざわつき始める。
「護衛哨戒隊の隊長だぞ」
「元“茨の聖域”の……」
囁きが広がると、男は青ざめた。
「ひ、ひぃ……す、すみませんでした!」
逃げるように席へ戻っていく。
すぐに女将がやってきて、男の頭を軽く小突いた。
「まったく、うちの店で迷惑かけるんじゃないよ。ごめんねぇ、隊長さん」
その一言で店内の空気がふっと和らぎ、客たちも苦笑しながら元の会話に戻っていった。
シエルは、張っていた肩の力を抜いた。
「隊長……ありがとうございます」
「別に。任務じゃないが……見過ごすわけにもいかん」
淡々とした声なのに、どこか不機嫌そうだった。
「……嫌な思いをさせたな」
「いえ。隊長がいてくださって……心強かったです」
シエルは微笑んだ。
その笑みは、昼間よりもずっと柔らかく、どこか温かかった。
⸻
店を出ると、風が昼間よりも少し冷たくなっていた。
シエルはそっと外套の前を合わせた。
その仕草に気づいたオスカーは、無言で歩幅を合わせる。
ただそれだけなのに、なぜか足取りが軽かった。
街の灯りがぽつりぽつりと灯り始め、
昼の喧騒が落ち着き、夜の静けさが街を包み込んでいく。
「……隊長」
「なんだ」
「今日、休暇をご一緒できて……本当に良かったです」
控えめなのに、真っ直ぐな声だった。
「また……こういう日があるといいですね」
「……休暇が合えばな」
淡々とした返事なのに、どこか優しい。
初夏の風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
──この人の隣りにいると、どうしてこんなに落ち着くんだろう。
その理由の本当の意味に気づくのは、もう少し先の話。
夜の酒場で起きた小さな事件は、二人の距離を、ほんの指先ほど縮めたのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今話をもって「第八章:束の間の安息」は一区切りとなります。
次話からは「第九章:大河と共に歩む村」を予定しています。
領都の東にあるフィヨル村を舞台にした物語を、引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。
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