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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第八章:束の間の安息

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第52話 歴戦の狼が見る景色

 朝靄はまだ完全には晴れていなかった。


 領都グランディアの東に広がる訓練場には、薄い白霧が地面を這うように漂い、初夏の終わりの朝陽が、霧の向こうで柔らかな光を帯びていた。


 草の葉先には露が残り、兵士たちの踏みしめる音に合わせて小さく震える。

 乾いた土の匂い。革鎧の匂い。鍛えられた人間たちの汗の匂い。


 護衛騎士隊にとっては馴染み深い朝だった。


⸻


 だが、その中央に立つ男だけは、今日も変わらず圧倒的だった。


「踏み込みが浅い!」


 怒号が響く。


 次の瞬間、若い兵士の木剣が弾き飛ばされ、乾いた音が訓練場に跳ねた。


 ガレス・ヴァレンタイン

 辺境伯領護衛騎士隊長、三十八歳。


 若い頃から数えきれない戦場を駆け抜けてきた男。

 魔獣討伐、盗賊討伐、領境防衛。

 辺境に生きる者なら、一度はその名を聞いたことがある。

 広い肩、鍛え抜かれた体躯、日に焼けた肌、幾筋もの古傷、鋭いが落ち着きのある深緑の瞳。右目の眉尻から頬にかけてはしる斬傷痕。

 かつては美青年だった面影を残す漂う色気と独特の威圧感。

 男が憧れる男だった。


「もう一度だ」


「はっ!」


 若い兵士が立ち上がる。

 目は死んでいない。むしろ輝いている。


 それがガレスという男だった。


 厳しい。怖い。容赦がない。

 だが、誰よりも前に立つ。

 だから皆がついていく。


⸻


 ガレスは若い兵士たちを見渡し、木剣を肩に担いだ。

 ふと、昔の自分が脳裏をよぎった。


 ──まだ何者でもなかった頃。

 剣を握る理由すら曖昧だった頃。

 あの頃の俺に、今日の光景を見せてやりてぇもんだ。


 心の中が少しだけ熱くなる。


「三人まとめて来い」


 ざわり、と空気が揺れた。


「さ、三人ですか!?」


「文句あんのか。戦場じゃ敵は一人ずつ順番に来てくれねぇぞ」


 三人が覚悟を決めて前に出る。


 ガレスは軽く首を回し、

 まるで散歩にでも出るような気軽さで構えた。


「遠慮すんな。全力で来い。……手加減したら怒るぞ」


 三人が一斉に踏み込む。


 右からの横薙ぎ払い、左からの突き、正面からの振り下ろし。

 だがガレスは──動かない。


 次の瞬間。


「遅ぇ!」


 乾いた音が三つ、ほぼ同時に響いた。


 右の兵士の木剣を肘で弾き、

 左の突きを腰の捻りだけでかわし、

 正面の振り下ろしを木剣一本で受け止める。


 そのまま、正面の兵士の胸元に軽く足を当てた。


 軽く押しただけだった。

 だが、兵士は後方へ吹っ飛んだ。


「うおっ!?」


「隊長、今の押しただけですよね!?」


「押しただけだ」


 残る二人が態勢を立て直すが、

 ガレスはすでに間合いの内側にいた。


「目線が死んでるぞ。剣だけ見てどうする。相手は“人”だ」


 柄で軽く肩を叩かれ、二人は膝をついた。


「……これが、騎士隊長……」


「化け物だ……」


 ガレスは口の端をわずかに上げた。


「化け物で結構。だがな――」


 三人を順に見回す。


「お前らも、いずれ俺の背中を追い越せ。そのために鍛えてんだろうが」


 三人の目が一気に燃え上がった。


「はいッ!」


「もう一度お願いします!」


「次は倒します!」


 ガレスは口の端を上げた。


「言うじゃねぇか。……なら、十人連れてこい。まとめて相手してやる」


「じゅ、十人っ!?」


「文句あんのか」


「ありませんッ!」


 若い兵士たちがざわつきながら動き出そうとした──その時だった。


 ガレスはふと、訓練場の端から向けられる視線に気付いた。


⸻


 朝陽を背に、レオンとエリザベートが立っていた。


 レオンは腕を組み、エリザベートは風に揺れる髪を押さえながら、真剣な眼差しでガレスを見ている。


 ガレスは短く息を吐いた。


「……見てたのか」


 レオンが微笑む。


「ええ。あなたの稽古は、見ているだけで学びになりますから」


 エリザベートも頷いた。


「本当に……全然変わらないな、ガレスは」


 ガレスは木剣を肩に担ぎ、レオンに顎をしゃくった。


「レオン。……お前、やるか?」


 レオンの目がわずかに見開かれ、すぐに静かな光を宿した。


「望むところです」


⸻


 二人が向かい合うと、訓練場の空気が変わった。

 若い兵士たちが息を呑む。


 ガレスは木剣を構えず、肩に担いだまま言った。


 「本気で来い。手加減したら大怪我するぞ」


 レオンは微笑んだ。


「あなたに手加減など失礼に当たりますから、しませんよ」


 風が止まった。

 

 次の瞬間、レオンが踏み込んだ。


 鋭い突き。

 ガレスは軽く受け止める。


「ほう……!」


 レオンの剣筋は美しい。

 無駄がなく、洗練されている。

 だが、それだけではない。


 ──読みが深い。


 ガレスが踏み込むと、レオンは半歩下がり、逆に間合いを奪い返す。


(こいつ……本当に強いな。文官とはとても思えない)


 二人の木剣が激しくぶつかり、乾いた衝撃音が訓練場に弾けた。


 ガレスが攻める。

 レオンが受け、流し、反撃する。


 その応酬は、若い兵士たちには“追いきれない”速度だった。


「お前、昔どこで剣を習った?」


「秘密です」


「チッ、気に入らねぇな」


「よく言われます」


 二人は笑った。


 だが次の瞬間、ガレスの気配が変わった。


「──終わりだ」


 木剣が一閃。


 レオンは反応したが、わずかに遅かった。


 木剣の柄が胸元に触れる。


「一本」


 レオンは息を吐いた。


「……完敗です」


 ガレスはわずかに目を細めた。


「悪くねぇ。お前はまだ強くなる」


 レオンは深々と頭を下げた。


「あなたにそう言われると、励みになります」


⸻


 レオンが胸元を押さえながら立ち上がる姿を見て、

 エリザベートの胸に小さな痛みが走った。


 ──大切な人が傷つけられた。

 それがたとえ稽古であっても、黙って見ていられない。


 そして何より。


 ──置いていかれたくない。


 領主として。

 一人の戦士として。

 そして、“兄”と慕う男の上に立つ領主として。


「……ガレス兄様」


 ガレスの背筋がわずかに震えた。

 幼い頃の呼び名で呼ばれたのは、いつ以来だろう。


「レオンの仇を取ります。私とも、手合わせをお願いします」


 ガレスは驚いたように目を見開き、

 すぐに笑った。


「……いいだろう。来い、エリザベート」


⸻


 エリザベートは木剣を構えた。

 その姿は凛として美しく、領主としての威厳があった。


 ガレスは思わず口元を緩めた。


 ──あの小さかった子が、こんなにも強く、頼もしくなった。


 ガレスは木剣を軽く構え直し、低く告げた。


「行くぞ」


 エリザベートが先に動いた。


 踏み込みは鋭い。

 剣筋は素直で、迷いがない。


 ガレスは軽く受け流す。


「悪くねぇ。だが──」


 次の瞬間、ガレスの木剣がエリザベートの視界から消えた。


「っ……!」


 反射的に剣を構える。

 ガレスの一撃を受け止めた。


 衝撃が腕に走る。


「ぐっ……!」


「よく耐えたな」


 エリザベートは歯を食いしばり、再び踏み込む。


「まだ──終わってない!」


 その瞳には、一人の戦士としての強い意志が宿っていた。


 ガレスは、ほんの少し目を細めた。


 ──本当に強くなった。


 二人の木剣がぶつかる。


 エリザベートは必死に食らいつく。

 ガレスはその姿を誇らしげに見つめながら、

 一つ一つの攻撃を受け止めた。


 そして──


 二人の木剣が、互いの喉元で止まった。


 静寂。


「……引き分けだな」


 エリザベートは息を吐き、蒼い瞳を輝かせて微笑んだ。


「はい。でも、次は必ず勝ちます」


 ガレスは笑った。


「言うようになったじゃねぇか。……立派になったな、エリザベート」


 エリザベートの頬がわずかに赤くなる。


 ガレスは続けた。


「レオンもだ。二人とも、俺が誇れる弟子であり……家族みたいなもんだ」


 レオンは静かに頭を下げた。


 エリザベートは胸に手を当て、まっすぐガレスを見つめた。


「ありがとうございます、ガレス兄様」


 ガレスは照れ隠しのように頭を掻いた。


「……ったく。そんな顔で礼なんか言うな。もっと鍛えたくなるだろうが」


 訓練場に、三人の笑い声が朗らかに響いた。


⸻


 昼。

 護衛騎士隊の詰所へ戻る途中、門の見張り台に立ち寄り、ガレスは領都グランディアを見下ろしていた。


 初夏の風が、静かに頬を撫でる。


 遠くまで続く石畳。

 新しい看板を掲げた店。

 行き交う荷車。

 市場から溢れる活気。


 ほんの数か月前とは、まるで別の街だった。


 以前は違った。

 店は少なく、人も少なく、夕方になれば街は静まり返った。

 未来など見えなかった。


 若い兵士たちは領地を出たがり、商人は寄り付かず、皆が貧しかった。


 だが今は違う。


 人が増えた。

 仕事が増えた。

 子供たちの笑い声が戻ってきた。

 夜の灯りも、これからもっと増えていく。


 この街には、未来がある。


 それが何より嬉しかった。


⸻


 夕方。

 ガレスは報告のため領主館の執務室を訪れた。


 扉を開くと、エリザベートとレオンが並んで書類を見ていた。


 ……また近い。

 いや、前より近い。

 確実に。


 しかも本人たちは気づいていない。


 実に面白い。


「何だ?」


 エリザベートが怪訝そうに眉を寄せる。


「いや、平和だなと思ってな」


 レオンも首を傾げる。


 駄目だ。全然気づいていない。


 この二人は戦場の気配には敏感なのに、恋愛だけは驚くほど鈍い。


 面白すぎる。


⸻


 夜。

 騎士隊詰所の近くの酒場で若い兵士たちと酒を飲む。

 元義賊たちもすっかり馴染んでいる。


「隊長、最近領主様がよく笑いますよね」


 周囲が頷く。


「確かに」

「昔は怖かった」

「今も怖いですけど」


 皆が笑う。

 ガレスも笑った。


 昔のエリザベートを知っている。

 まだ二十歳にもならない令嬢が、領主として振る舞おうとしていた。

 誰にも弱音を吐かず、誰にも頼らず、ずっと立ち続けていた。


 だから今の笑顔を見ると嬉しい。

 本当に。

 血は繋がっていなくても──

 兄のように。

 家族のように。


「隊長? 何か良いことあったんですか」


 ガレスは酒をあおりながら、窓の外を見る。

 丘の上の領主館。

 その灯り。

 そこで働く二人の姿を思い浮かべる。


「そのうちな」


 若い兵士たちは首を傾げる。

 だがガレスは何も言わなかった。


⸻


 夜更け。

 部下たちとの酒盛りを終え、ガレスは一人で街を歩いていた。


 石畳に、酒場から漏れる灯りが揺れている。

 遠くで笑い声が上がり、どこかの家では子供がまだ起きているらしい。

 鍛冶場の炉はすでに落ちているが、鉄の匂いだけが微かに残っていた。


 見上げれば、夜空は澄み、星がよく見えた。


 ふと足を止める。

 夜のグランディアは、昼とは違う表情を見せていた。


 家々の灯り。

 酒場の灯り。

 職人街の灯り。

 市場に残る灯り。

 そして、夜警の持つランタンの光。


 どれも人が生きている証だった。


 守りたかった景色。

 守れなかったかもしれない景色。

 それが今、こうして灯り続けている。


 気づけば、口元が緩んでいた。


 初夏の終わりの夜風が吹き抜けた。

 酒の熱を冷ますような、優しい風だった。


「……悪くねぇ」


 小さく漏れた声。

 だがその言葉には、

 騎士としての誇りも、

 兄のように見守る者としての安堵も、

 辺境の未来への希望も、

 すべてが込められていた。


 ガレス・ヴァレンタイン──

 歴戦の狼と呼ばれる男は、もう一度だけ夜空を見上げた。

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