第52話 歴戦の狼が見る景色
朝靄はまだ完全には晴れていなかった。
領都グランディアの東に広がる訓練場には、薄い白霧が地面を這うように漂い、初夏の終わりの朝陽が、霧の向こうで柔らかな光を帯びていた。
草の葉先には露が残り、兵士たちの踏みしめる音に合わせて小さく震える。
乾いた土の匂い。革鎧の匂い。鍛えられた人間たちの汗の匂い。
護衛騎士隊にとっては馴染み深い朝だった。
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だが、その中央に立つ男だけは、今日も変わらず圧倒的だった。
「踏み込みが浅い!」
怒号が響く。
次の瞬間、若い兵士の木剣が弾き飛ばされ、乾いた音が訓練場に跳ねた。
ガレス・ヴァレンタイン
辺境伯領護衛騎士隊長、三十八歳。
若い頃から数えきれない戦場を駆け抜けてきた男。
魔獣討伐、盗賊討伐、領境防衛。
辺境に生きる者なら、一度はその名を聞いたことがある。
広い肩、鍛え抜かれた体躯、日に焼けた肌、幾筋もの古傷、鋭いが落ち着きのある深緑の瞳。右目の眉尻から頬にかけてはしる斬傷痕。
かつては美青年だった面影を残す漂う色気と独特の威圧感。
男が憧れる男だった。
「もう一度だ」
「はっ!」
若い兵士が立ち上がる。
目は死んでいない。むしろ輝いている。
それがガレスという男だった。
厳しい。怖い。容赦がない。
だが、誰よりも前に立つ。
だから皆がついていく。
⸻
ガレスは若い兵士たちを見渡し、木剣を肩に担いだ。
ふと、昔の自分が脳裏をよぎった。
──まだ何者でもなかった頃。
剣を握る理由すら曖昧だった頃。
あの頃の俺に、今日の光景を見せてやりてぇもんだ。
心の中が少しだけ熱くなる。
「三人まとめて来い」
ざわり、と空気が揺れた。
「さ、三人ですか!?」
「文句あんのか。戦場じゃ敵は一人ずつ順番に来てくれねぇぞ」
三人が覚悟を決めて前に出る。
ガレスは軽く首を回し、
まるで散歩にでも出るような気軽さで構えた。
「遠慮すんな。全力で来い。……手加減したら怒るぞ」
三人が一斉に踏み込む。
右からの横薙ぎ払い、左からの突き、正面からの振り下ろし。
だがガレスは──動かない。
次の瞬間。
「遅ぇ!」
乾いた音が三つ、ほぼ同時に響いた。
右の兵士の木剣を肘で弾き、
左の突きを腰の捻りだけでかわし、
正面の振り下ろしを木剣一本で受け止める。
そのまま、正面の兵士の胸元に軽く足を当てた。
軽く押しただけだった。
だが、兵士は後方へ吹っ飛んだ。
「うおっ!?」
「隊長、今の押しただけですよね!?」
「押しただけだ」
残る二人が態勢を立て直すが、
ガレスはすでに間合いの内側にいた。
「目線が死んでるぞ。剣だけ見てどうする。相手は“人”だ」
柄で軽く肩を叩かれ、二人は膝をついた。
「……これが、騎士隊長……」
「化け物だ……」
ガレスは口の端をわずかに上げた。
「化け物で結構。だがな――」
三人を順に見回す。
「お前らも、いずれ俺の背中を追い越せ。そのために鍛えてんだろうが」
三人の目が一気に燃え上がった。
「はいッ!」
「もう一度お願いします!」
「次は倒します!」
ガレスは口の端を上げた。
「言うじゃねぇか。……なら、十人連れてこい。まとめて相手してやる」
「じゅ、十人っ!?」
「文句あんのか」
「ありませんッ!」
若い兵士たちがざわつきながら動き出そうとした──その時だった。
ガレスはふと、訓練場の端から向けられる視線に気付いた。
⸻
朝陽を背に、レオンとエリザベートが立っていた。
レオンは腕を組み、エリザベートは風に揺れる髪を押さえながら、真剣な眼差しでガレスを見ている。
ガレスは短く息を吐いた。
「……見てたのか」
レオンが微笑む。
「ええ。あなたの稽古は、見ているだけで学びになりますから」
エリザベートも頷いた。
「本当に……全然変わらないな、ガレスは」
ガレスは木剣を肩に担ぎ、レオンに顎をしゃくった。
「レオン。……お前、やるか?」
レオンの目がわずかに見開かれ、すぐに静かな光を宿した。
「望むところです」
⸻
二人が向かい合うと、訓練場の空気が変わった。
若い兵士たちが息を呑む。
ガレスは木剣を構えず、肩に担いだまま言った。
「本気で来い。手加減したら大怪我するぞ」
レオンは微笑んだ。
「あなたに手加減など失礼に当たりますから、しませんよ」
風が止まった。
次の瞬間、レオンが踏み込んだ。
鋭い突き。
ガレスは軽く受け止める。
「ほう……!」
レオンの剣筋は美しい。
無駄がなく、洗練されている。
だが、それだけではない。
──読みが深い。
ガレスが踏み込むと、レオンは半歩下がり、逆に間合いを奪い返す。
(こいつ……本当に強いな。文官とはとても思えない)
二人の木剣が激しくぶつかり、乾いた衝撃音が訓練場に弾けた。
ガレスが攻める。
レオンが受け、流し、反撃する。
その応酬は、若い兵士たちには“追いきれない”速度だった。
「お前、昔どこで剣を習った?」
「秘密です」
「チッ、気に入らねぇな」
「よく言われます」
二人は笑った。
だが次の瞬間、ガレスの気配が変わった。
「──終わりだ」
木剣が一閃。
レオンは反応したが、わずかに遅かった。
木剣の柄が胸元に触れる。
「一本」
レオンは息を吐いた。
「……完敗です」
ガレスはわずかに目を細めた。
「悪くねぇ。お前はまだ強くなる」
レオンは深々と頭を下げた。
「あなたにそう言われると、励みになります」
⸻
レオンが胸元を押さえながら立ち上がる姿を見て、
エリザベートの胸に小さな痛みが走った。
──大切な人が傷つけられた。
それがたとえ稽古であっても、黙って見ていられない。
そして何より。
──置いていかれたくない。
領主として。
一人の戦士として。
そして、“兄”と慕う男の上に立つ領主として。
「……ガレス兄様」
ガレスの背筋がわずかに震えた。
幼い頃の呼び名で呼ばれたのは、いつ以来だろう。
「レオンの仇を取ります。私とも、手合わせをお願いします」
ガレスは驚いたように目を見開き、
すぐに笑った。
「……いいだろう。来い、エリザベート」
⸻
エリザベートは木剣を構えた。
その姿は凛として美しく、領主としての威厳があった。
ガレスは思わず口元を緩めた。
──あの小さかった子が、こんなにも強く、頼もしくなった。
ガレスは木剣を軽く構え直し、低く告げた。
「行くぞ」
エリザベートが先に動いた。
踏み込みは鋭い。
剣筋は素直で、迷いがない。
ガレスは軽く受け流す。
「悪くねぇ。だが──」
次の瞬間、ガレスの木剣がエリザベートの視界から消えた。
「っ……!」
反射的に剣を構える。
ガレスの一撃を受け止めた。
衝撃が腕に走る。
「ぐっ……!」
「よく耐えたな」
エリザベートは歯を食いしばり、再び踏み込む。
「まだ──終わってない!」
その瞳には、一人の戦士としての強い意志が宿っていた。
ガレスは、ほんの少し目を細めた。
──本当に強くなった。
二人の木剣がぶつかる。
エリザベートは必死に食らいつく。
ガレスはその姿を誇らしげに見つめながら、
一つ一つの攻撃を受け止めた。
そして──
二人の木剣が、互いの喉元で止まった。
静寂。
「……引き分けだな」
エリザベートは息を吐き、蒼い瞳を輝かせて微笑んだ。
「はい。でも、次は必ず勝ちます」
ガレスは笑った。
「言うようになったじゃねぇか。……立派になったな、エリザベート」
エリザベートの頬がわずかに赤くなる。
ガレスは続けた。
「レオンもだ。二人とも、俺が誇れる弟子であり……家族みたいなもんだ」
レオンは静かに頭を下げた。
エリザベートは胸に手を当て、まっすぐガレスを見つめた。
「ありがとうございます、ガレス兄様」
ガレスは照れ隠しのように頭を掻いた。
「……ったく。そんな顔で礼なんか言うな。もっと鍛えたくなるだろうが」
訓練場に、三人の笑い声が朗らかに響いた。
⸻
昼。
護衛騎士隊の詰所へ戻る途中、門の見張り台に立ち寄り、ガレスは領都グランディアを見下ろしていた。
初夏の風が、静かに頬を撫でる。
遠くまで続く石畳。
新しい看板を掲げた店。
行き交う荷車。
市場から溢れる活気。
ほんの数か月前とは、まるで別の街だった。
以前は違った。
店は少なく、人も少なく、夕方になれば街は静まり返った。
未来など見えなかった。
若い兵士たちは領地を出たがり、商人は寄り付かず、皆が貧しかった。
だが今は違う。
人が増えた。
仕事が増えた。
子供たちの笑い声が戻ってきた。
夜の灯りも、これからもっと増えていく。
この街には、未来がある。
それが何より嬉しかった。
⸻
夕方。
ガレスは報告のため領主館の執務室を訪れた。
扉を開くと、エリザベートとレオンが並んで書類を見ていた。
……また近い。
いや、前より近い。
確実に。
しかも本人たちは気づいていない。
実に面白い。
「何だ?」
エリザベートが怪訝そうに眉を寄せる。
「いや、平和だなと思ってな」
レオンも首を傾げる。
駄目だ。全然気づいていない。
この二人は戦場の気配には敏感なのに、恋愛だけは驚くほど鈍い。
面白すぎる。
⸻
夜。
騎士隊詰所の近くの酒場で若い兵士たちと酒を飲む。
元義賊たちもすっかり馴染んでいる。
「隊長、最近領主様がよく笑いますよね」
周囲が頷く。
「確かに」
「昔は怖かった」
「今も怖いですけど」
皆が笑う。
ガレスも笑った。
昔のエリザベートを知っている。
まだ二十歳にもならない令嬢が、領主として振る舞おうとしていた。
誰にも弱音を吐かず、誰にも頼らず、ずっと立ち続けていた。
だから今の笑顔を見ると嬉しい。
本当に。
血は繋がっていなくても──
兄のように。
家族のように。
「隊長? 何か良いことあったんですか」
ガレスは酒をあおりながら、窓の外を見る。
丘の上の領主館。
その灯り。
そこで働く二人の姿を思い浮かべる。
「そのうちな」
若い兵士たちは首を傾げる。
だがガレスは何も言わなかった。
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夜更け。
部下たちとの酒盛りを終え、ガレスは一人で街を歩いていた。
石畳に、酒場から漏れる灯りが揺れている。
遠くで笑い声が上がり、どこかの家では子供がまだ起きているらしい。
鍛冶場の炉はすでに落ちているが、鉄の匂いだけが微かに残っていた。
見上げれば、夜空は澄み、星がよく見えた。
ふと足を止める。
夜のグランディアは、昼とは違う表情を見せていた。
家々の灯り。
酒場の灯り。
職人街の灯り。
市場に残る灯り。
そして、夜警の持つランタンの光。
どれも人が生きている証だった。
守りたかった景色。
守れなかったかもしれない景色。
それが今、こうして灯り続けている。
気づけば、口元が緩んでいた。
初夏の終わりの夜風が吹き抜けた。
酒の熱を冷ますような、優しい風だった。
「……悪くねぇ」
小さく漏れた声。
だがその言葉には、
騎士としての誇りも、
兄のように見守る者としての安堵も、
辺境の未来への希望も、
すべてが込められていた。
ガレス・ヴァレンタイン──
歴戦の狼と呼ばれる男は、もう一度だけ夜空を見上げた。




