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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第八章:束の間の安息

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第50話 蒼瞳の領主さまの休日

 辺境伯領の朝は早い。

 だが今日の領主館には、いつもとは違う静寂が漂っていた。


 初夏と真夏の境目。

 夜明け前の涼しさがまだ残る空気の中、濃くなり始めた緑が風に揺れ、葉の裏に朝日が透け、金色の光を宿していた。


 領都グランディアの街並みは、石畳の街路も赤茶の屋根も、焼きたてのパンの香りも、ゆっくりと光に満たされていく。

 まるで領地そのものが深く息をついているようだった。


⸻


 そんな朝、辺境伯エリザベート・ル・フォルスワーグは執務室で固まっていた。


「……休日?」


 目の前にはガレス、そして隣りにはサラ。

 二人とも、珍しく覚悟を決めたような真顔だった。


「はい、休日です」


 サラがきっぱりと言う。


「なぜだ」

「なぜ、ではありません」


 サラは深く息を吐いた。


「宿場町レストの改革は一段落しました」

「鉱山の稼働も安定しています」

「カウム村の畜産業も順調です」


「ですので、休んでください」


 エリザベートは腕を組んだ。

 休む理由が分からない。

 ただ、頭の奥にわずかな倦怠があることに、彼女自身も気づいていた。


 幼い頃から、人一倍働く父の背中を見てきた。

 領主とは働くものだと信じてきたし、実際、そうして生きてきた。


「だが仕事が──」


「ありません」


 サラがきっぱりと言い切る。

 ガレスも苦笑しながら頷いた。


 剣も馬も政治もできる彼女だが──休むことだけは、昔からどうにも下手だった。


「では、何をすればいい」


 本気で問うエリザベートに、二人は頭を抱える。


 ちょうどその時だった。


「それなら」


 扉の向こうからレオンの声がした。

 レオンの声音には、どこか緊張のようなものがあった。


⸻


 それからしばらく経った領主館の玄関。


 エリザベートは妙な気分だった。

 休日、私服、そして──隣りにはレオン。


 いつもの軍務服ではなく、蒼い瞳とよく馴染む、淡い青のワンピースに薄手の外套。

 肩にかかる濃紅の長髪が淡い布地の色を受け、いつもより柔らかく揺れて見えた。

 着飾った彼女を見た瞬間、レオンは思わず言葉を失う。

 彼の目には、いつもの領主ではなく、年相応の“女性”としての彼女が映っていた。


 一方で、普段は実用的な服装の彼も、今日は柔らかな色合いのシャツに軽い外套をまとっている。

 その姿が妙に新鮮で、今度はエリザベートが視線の置き場に困った。


「本当に出歩くのか」

「はい」

「意味があるのか?」

「あります」

「どんな」

「休日ですから」


 意味は分からない。

 だがレオンは平然としている。

 ガレスとサラは生温かい目で見送っていた。


⸻


 昼前。

 領都グランディア。


 初夏の光が街を照らし、市場は活気に満ちていた。

 野菜、魚、鍛冶屋の槌音、子どもたちの笑い声。

 香辛料と炙り肉の匂いが風に乗る。


 かつては閑散としていた通りに、今は旅商人の姿も多い。

 新しく整備された街道と宿場町が、人と物を呼び込んでいた。


 レオンとエリザベートは人混みを歩いていた。

 この辺境領でも屈指の剣の使い手であり、魔剣士としても名高い二人には、そもそも護衛を付ける必要がなかった。

 領民たちも二人の強さをよく知っており、むしろ護衛を連れるほうが目立ってしまうのだ。


 領主ではなく、一人の女性として街を歩くのは久しぶりだった。


「こんにちは!」


 八百屋の娘が手を振る。


「こんにちは」


 自然に笑みがこぼれた。

 自分の笑顔をレオンが見ていることに気づき、エリザベートは慌てて前を向いた。


「楽しそうですね」


 レオンの穏やかな声に、鼓動が跳ねた。


⸻


 羊毛店、工芸品の店、道具屋――どこも活気に満ちていた。

 領民たちの笑顔を見るたび、心が温かくなる。


 昔は違った。

 皆が疲れ、余裕がなく、笑顔も少なかった。


 今は街に希望がある。

 街をここまで変えたのは、隣りを歩く男だ。


 そう思うと、なんだか少し誇らしくなった。


「ここです」


 レオンが立ち止まった先は、菓子屋だった。


「菓子屋?」

「はい。街で食べたことがないかと思いまして」


 店内は甘い香りで満ちていた。

 焼き菓子、果実の砂糖煮、蜂蜜のタルト──色鮮やかな菓子が並ぶ。

 甘い香りに包まれる経験など、彼女の人生にはほとんどなかった。


 ふと、幼い頃に父と訪れた王都での祭りの記憶がよぎる。

 一瞬だけ、言葉を失った。


「これがおすすめです」


 木苺のタルト。

 赤い果実が宝石のように輝いている。


 一口食べた瞬間、甘さと酸味が舌の上でほどける。

 小さな幸せが訪れる。

 こんなことで、気持ちが軽くなるなど思いもしなかった。


「……美味い」


 レオンが嬉しそうに笑う。


その笑顔を見た瞬間、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。


⸻


 店を出ると、初夏の終わりにしては涼やかな風が吹いていた。


 二人は肩を並べて歩く。

 距離は近いまま、どちらも離れようとはしなかった。


「菓子、美味しかったな」


 エリザベートの言葉に、レオンは静かに微笑む。


「それは良かったです」


 ──この時間が、もう少し続けばいいのに。

 そんな思いに気づいた自分に、エリザベートは小さく息を呑んだ。


⸻


 夕暮れ。

 街は紫と橙の光に染まり、露店の布が風に揺れる。


「……静かだな」


「夕方は皆、一度家に戻りますから」


 風に揺れるエリザベートの髪は、陽光を受けて淡い金色に輝いていた。

 レオンはそっと視線を逸らす。


 レオンは、隣りを歩く彼女の横顔を盗み見るたび、なぜか視線を戻すのが遅くなった。

 名前のつかない温かさが、静かに広がっていく。


「今日のエリザベート様は、いつもより……肩の力が抜けていると言いますか」


 レオンの声音は柔らかく、どこか嬉しそうだった。


 エリザベートは一瞬だけ歩みを乱し、行き場を失った指先を外套の裾へ伸ばした。


「……そんなふうに見えるか?」


 強がった返事のはずなのに、どこか自信のない響きが混じっていた。


「はい。良い意味で、ですよ」


 レオンはそれ以上言葉を重ねない。

 ただ、彼女の横顔にそっと視線を寄せる。


 レオンの視線に気づいた瞬間、エリザベートの胸が小さく跳ねた。

 ──どうして、こんなに落ち着かない。


 夕暮れの風が二人の間をすり抜ける。

 ほんの数歩の距離が、いつもより近く感じられる。


 レオンは何も言わない。

 ただ隣りを歩くだけなのに、その沈黙が妙に優しくて、妙にくすぐったい。


 エリザベートは、わざと前だけを見るようにした。


 ──別に、何でもないはずだ。


 そう思おうとするのに、妙に落ち着かなかった。


 その正体に、まだ名前はつけられない。

 いや、つけたくないのかもしれない。


⸻


 領主館が見えてきた頃、空は茜色に染まっていた。

 玄関に入ると、ガレスとサラが腕を組んで待っていた。


 サラは、琥珀色の瞳に柔らかな光を宿し、ふわりと微笑む。


「お帰りなさいませ、エリザベート様。……今日は、少しは心が休まりましたか?」


 ガレスも穏やかな目でエリザベートを見つめる。


「良い一日だったんだろうな。その表情を見れば分かる」


 エリザベートは言葉に詰まり、ほんの一拍置いてから答えた。


「……悪くなかった」


 小さな言葉に、サラは胸を撫で下ろすように優しく笑い、

 ガレスも安心したように深く頷いた。


 二人の温かな言葉にそっと背を押され、エリザベートは横へ視線を向けた。


 少し離れた場所に、レオンが静かに佇んでいた。

 彼は何も言わず、ただ穏やかな微笑みを浮かべている。


 その微笑みは、責務でも義務でもなく、

 “今日のあなたを見られて良かった”と語りかけてくるようで──


 エリザベートは、小さく息を吐いた。

 不思議と、気持ちが軽かった。


 ──また、こういう日があってもいいかもしれない。

 小さな想いを、胸の奥へそっと沈めた。


⸻


 その夜。


 領主館の高窓から見える空は深い藍色で、星が瞬いていた。

 初夏と真夏の境目の夜風は涼しく、肌を撫でる。


 エリザベートは寝間着姿で窓辺に立ち、静かに息を吐いた。


「……変な一日だった」


 市場の喧騒、八百屋の娘の笑顔、木苺のタルトの甘さ、初夏の風――

 そして、隣りを歩くレオンの横顔。


 ひとつひとつが鮮やかに思い出される。


「……レオンのおかげだな」


 その名を口にしただけで、今日の光景が一気に蘇る。

 市場で見た笑顔も、味わった甘さも、吹き抜けた風も──

 すべてが脳裏によみがえる。


 今日の笑顔は、ずるい。


「……また、行ってもいいのだろうか」


 街へ。

 市場へ。

 あの菓子屋へ。

 そして──レオンと並んで歩く、あの時間へ。


 そう考えると、なぜか落ち着かなくなる。


 だが同時に、領主としての責務が彼女をそっと現実へ引き戻す。

 責務と想いの狭間で揺れる心が、今の自分なのだと気づく。


「……馬鹿だな、私は」


 頬がわずかに熱い。


 窓の外では葉擦れの音が響き、街の灯りが揺れていた。


「……明日からは、また領主だ」


 そう言い聞かせても、今日の余韻は消えてくれなかった。


 今日という一日が、彼女の世界をほんの少し広げたことを、彼女自身が一番よく分かっていた。


 そして──

 その変化をもたらした男のことを思い浮かべながら、エリザベートはそっと灯りを落とした。


 夜は深まり、領主館は静寂に包まれていく。


 静けさの中で、今日という一日の余韻だけが、いつまでも消えなかった。






最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今話から「第八章:束の間の安息」が始まります。

領都へ戻ったレオン、エリザベート、そして仲間たちが、ほんのひととき肩の力を抜いて過ごす日々を、五話にわたり描いていく予定です。


ここまで物語を紡ぎ、気づけば五十話を迎えることができました。

読んでくださる皆様のおかげです。本当にありがとうございます。


激務の合間に訪れた、ささやかな休息。

彼らがどんな表情を見せ、どんな時間を分かち合うのか──

少しでも楽しんでいただければ嬉しく思います。


皆様からいただく【ブックマーク登録】や【評価の☆☆☆☆☆】、ご感想やリアクションの一つひとつが、物語を紡ぐ大きな励みになっています。

これからも、レオンたちの歩みを温かく見守っていただければ幸いです。

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