第125話 七歩の先に降る雪
北から吹き下ろす風は、いよいよ冬の匂いを濃く孕み始めていた。
荒野を渡る風は枯れ草をざわめかせ、兵士たちの頬を容赦なく叩く。
薄く裂けた雲の隙間に、白い月がかすかに残っていた。
その光は、地平線の向こうから滲み始めた朝陽に押されるように、静かに薄れていく。
朝陽が地平線から顔を出し始めた空の下で、森の王はゆっくりと歩みを進めていた。
一歩。
また一歩。
巨体が地を踏みしめるたび、乾いた大地が鈍く震え、荒野の空気がわずかに揺れる。
森の王の呼吸は、冬の空気を震わせるほど重く、荒々しかった。
吐き出される白い息は、獣の怒りそのもののように揺れ、昇り始めた朝の冷気へと静かにほどけていく。
右脚には、レオンが刻んだ深い傷が残っていた。
黒い血はなお滴り、冷気に触れて鈍く固まり始めている。
それでも歩みは止まらない。
まるで己の痛みなど、戦場の前では取るに足らぬものだと言わんばかりに。
ガレスは魔剣を肩に担ぎ、強がるように笑った。
「化け物ってのは、これくらいでなくちゃ面白くねぇ」
豪放に見える笑みだった。
だが、その額には汗が滲み、呼吸は先ほどよりも浅く速い。
辺境伯領で過ごした濃い時間は、レオンにそれだけで分からせた。
ガレスも確実に消耗している。
エリザベートも同じだった。
鎧の左肩には森の王の尾撃で刻まれた亀裂が走り、その下では肩が熱を持ち、腕を動かすたび鈍い痛みが走る。
それでも彼女は魔剣を下ろさない。
領主が剣を下ろせば、兵士たちの心まで折れてしまうことを知っているからだ。
レオンは二人の横顔を見つめ、落ち着かせるように息を吸った。
──時間がない。
こちらの体力も、兵士たちの矢も、高い士気も、無限ではない。
森の王を丘へ誘導する策は順調に進んでいる。
だが、それが成功する前に防衛線が崩れれば、すべてが無に帰す。
戦場の空気は、どこか不穏に軋み始めていた。
⸻
レオンの心に焦りが滲んだまさにその時だった。
荒野の喧騒を裂くように、若い兵士の悲鳴が響いた。
「突破される!」
牙狼の一団が槍の穂先をかいくぐり、奔流のように押し寄せていた。
最前列の新兵が一瞬たじろぐ。
牙狼の赤く濁った瞳が目前まで迫り、鋭い牙が朝光を冷たく反射した。
──やられる。
そう思った瞬間だった。
「腰が引けてるぞ!」
怒鳴り声とともに、一筋の槍が横から突き出された。
牙狼の首を正確に貫き、その勢いのまま地面へ叩き伏せる。
ドーガンだった。
白髪交じりの髪を風に揺らしながら、彼は無造作に槍を引き抜く。
その動きは無駄がなく、長年の戦場が刻んだ重みがそこにあった。
「槍は腕で振るな。腰で押せ。」
短く言い放つと、もう次の牙狼へ向かっていた。
新兵が呆然と見つめたその背中にも、肩にも腕にも、積み重ねた歳月が深い影を落としていた。
決して大柄ではない。
だが、その後ろ姿は誰よりも頼もしく見えた。
「何を見てる! 戦は終わっちゃいねぇぞ!」
「……はい!」
新兵は歯を食いしばり、槍を握り直した。
牙狼が跳ぶ。
槍を突く。
穂先が胸を貫き、魔獣は地面を転がった。
その瞬間、周囲の兵士たちから歓声が上がる。
「よくやった!」
「その調子だ!」
新兵はきつく握りしめた指を、槍からゆっくりと剝がそうとした──
まだ怖い。
だが、今は前に出られる。
その理由だけは分かっていた。
兵士たちの様子を見ていたオスカーは、わずかに口元を緩めた。
「……さすがだ、ドーガン殿。戦場で人を育てられる者は、そう多くない」
⸻
丘の中腹では、シエルが頂上を目指しながら、途切れることなく矢を放っていた。
彼女の足取りは軽くはない。
だが、迷いは一度もなかった。
背後では弓兵たちが息を切らしながら続いていた。
矢筒はすでに軽くなり、腕は痺れ始めている。
呼吸は荒く、脚は重い。
それでも誰一人として足を止めなかった。
シエルの背中が、風の中で揺れる銀の軌跡が、彼らを前へと押し出していた。
彼女の矢は決して派手ではない。
だが、必ず「誰かを救う一矢」になる。
槍兵の死角へ回り込もうとした牙狼。
負傷兵へ飛びかかろうとした岩猪。
指揮を執るオスカーを狙った魔獣。
そのすべてを、彼女の矢が静かに、確実に仕留めていく。
矢が放たれるたび、戦場のどこかで誰かの命が繋ぎ止められる。
丘の頂きから風が吹く。
冷たい風が、彼女の銀髪を大きく揺らした。
シエルは矢羽根に指を添え、わずかに息を整える。
「……外せない。いや、外さない」
それは誰に聞かせるでもない。
戦場の喧騒に消えるほど小さな声。
だが、自分自身への、揺るぎない約束だった。
⸻
一方、丘の麓では、森の王が再び咆哮を上げた。
その咆哮は冬の空気を一気に押し返し、荒野の地面を震わせた。
乾いた土が小さく跳ね、周囲の兵士たちの胸にまで衝撃が響く。
ガレスがその正面へ躍り出た。
「来い!」
魔剣が唸り、王の鉤爪と激しくぶつかり合う。
火花が淡い朝光に散り、冴えた風に飲まれて消えていく。
その隙にエリザベートが左から斬り込み、レオンはさらに半歩だけ後退した。
誰も気づかないほど、わずかな距離。
だが、その半歩で森の王の脚は、確かに緩やかな斜面へとかかり始めていた。
レオンは心の中で静かに数える。
──あと七歩。
七歩進めば、丘の傾斜はさらにきつくなる。
右脚の傷が必ず動きを鈍らせる。
その時こそ、盤上の一手。
しかし、その七歩が何より遠い。
森の王の一歩は重く、荒々しく、踏みしめるたびに乾いた地面が低く震えた。
その一歩に合わせて繰り出される猛攻は、レオンたちの体力を容赦なく削っていく。
七歩──その七歩が、領地の未来を決める。
風が音もなく吹いた。
戦場の空気が、ほんの一瞬だけ張り詰める。
森の王の黄金の瞳がレオンを捉えた。
そこには獣の怒りだけではない、鋭い警戒があった。
レオンはその視線を真正面から受け止める。
魔剣を握る手に、自然と力がこもる。
呼吸が浅くなり、胸の鼓動が森の王の迫力に押し上げられるように強く打ち始めた。
風が、両者の間をすり抜けていく。
空から、白いものがひとひら。
ふわり、と舞い落ちる。
凍てついた空気に溶けるように、ゆっくりと軌跡を描きながら落ちてきた。
その静寂は、戦場の喧騒とはあまりにも対照的で、まるで世界が一瞬だけ息を潜めたかのようだった。
誰もまだ気づかない。
それが、この冬最初の雪であることに。
そして、この雪が降り積もる頃には──
戦場は、今とはまったく違う形になっている。




