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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第十六章:群れを護る矜持

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第125話 七歩の先に降る雪

 北から吹き下ろす風は、いよいよ冬の匂いを濃く孕み始めていた。

 荒野を渡る風は枯れ草をざわめかせ、兵士たちの頬を容赦なく叩く。

 薄く裂けた雲の隙間に、白い月がかすかに残っていた。

 その光は、地平線の向こうから滲み始めた朝陽に押されるように、静かに薄れていく。


 朝陽が地平線から顔を出し始めた空の下で、森の王はゆっくりと歩みを進めていた。


 一歩。

 また一歩。


 巨体が地を踏みしめるたび、乾いた大地が鈍く震え、荒野の空気がわずかに揺れる。


 森の王の呼吸は、冬の空気を震わせるほど重く、荒々しかった。

 吐き出される白い息は、獣の怒りそのもののように揺れ、昇り始めた朝の冷気へと静かにほどけていく。


 右脚には、レオンが刻んだ深い傷が残っていた。

 黒い血はなお滴り、冷気に触れて鈍く固まり始めている。

 それでも歩みは止まらない。

 まるで己の痛みなど、戦場の前では取るに足らぬものだと言わんばかりに。


 ガレスは魔剣を肩に担ぎ、強がるように笑った。


「化け物ってのは、これくらいでなくちゃ面白くねぇ」


 豪放に見える笑みだった。

 だが、その額には汗が滲み、呼吸は先ほどよりも浅く速い。

 辺境伯領で過ごした濃い時間は、レオンにそれだけで分からせた。

 ガレスも確実に消耗している。


 エリザベートも同じだった。

 鎧の左肩には森の王の尾撃で刻まれた亀裂が走り、その下では肩が熱を持ち、腕を動かすたび鈍い痛みが走る。

 それでも彼女は魔剣を下ろさない。

 領主が剣を下ろせば、兵士たちの心まで折れてしまうことを知っているからだ。


 レオンは二人の横顔を見つめ、落ち着かせるように息を吸った。


 ──時間がない。


 こちらの体力も、兵士たちの矢も、高い士気も、無限ではない。

 森の王を丘へ誘導する策は順調に進んでいる。

 だが、それが成功する前に防衛線が崩れれば、すべてが無に帰す。


 戦場の空気は、どこか不穏に軋み始めていた。


⸻


 レオンの心に焦りが滲んだまさにその時だった。


 荒野の喧騒を裂くように、若い兵士の悲鳴が響いた。


「突破される!」


 牙狼の一団が槍の穂先をかいくぐり、奔流のように押し寄せていた。

 最前列の新兵が一瞬たじろぐ。

 牙狼の赤く濁った瞳が目前まで迫り、鋭い牙が朝光を冷たく反射した。


 ──やられる。


 そう思った瞬間だった。


「腰が引けてるぞ!」


 怒鳴り声とともに、一筋の槍が横から突き出された。

 牙狼の首を正確に貫き、その勢いのまま地面へ叩き伏せる。


 ドーガンだった。


 白髪交じりの髪を風に揺らしながら、彼は無造作に槍を引き抜く。

 その動きは無駄がなく、長年の戦場が刻んだ重みがそこにあった。


「槍は腕で振るな。腰で押せ。」


 短く言い放つと、もう次の牙狼へ向かっていた。


 新兵が呆然と見つめたその背中にも、肩にも腕にも、積み重ねた歳月が深い影を落としていた。

 決して大柄ではない。

 だが、その後ろ姿は誰よりも頼もしく見えた。


「何を見てる! 戦は終わっちゃいねぇぞ!」


「……はい!」


 新兵は歯を食いしばり、槍を握り直した。

 牙狼が跳ぶ。

 槍を突く。

 穂先が胸を貫き、魔獣は地面を転がった。


 その瞬間、周囲の兵士たちから歓声が上がる。


「よくやった!」

「その調子だ!」


 新兵はきつく握りしめた指を、槍からゆっくりと剝がそうとした──

 

 まだ怖い。

 

 だが、今は前に出られる。

 その理由だけは分かっていた。


 兵士たちの様子を見ていたオスカーは、わずかに口元を緩めた。


「……さすがだ、ドーガン殿。戦場で人を育てられる者は、そう多くない」


⸻


 丘の中腹では、シエルが頂上を目指しながら、途切れることなく矢を放っていた。

 彼女の足取りは軽くはない。

 だが、迷いは一度もなかった。


 背後では弓兵たちが息を切らしながら続いていた。

 矢筒はすでに軽くなり、腕は痺れ始めている。

 呼吸は荒く、脚は重い。

 それでも誰一人として足を止めなかった。

 シエルの背中が、風の中で揺れる銀の軌跡が、彼らを前へと押し出していた。


 彼女の矢は決して派手ではない。

 だが、必ず「誰かを救う一矢」になる。


 槍兵の死角へ回り込もうとした牙狼。

 負傷兵へ飛びかかろうとした岩猪。

 指揮を執るオスカーを狙った魔獣。

 そのすべてを、彼女の矢が静かに、確実に仕留めていく。

 矢が放たれるたび、戦場のどこかで誰かの命が繋ぎ止められる。


 丘の頂きから風が吹く。

 冷たい風が、彼女の銀髪を大きく揺らした。

 シエルは矢羽根に指を添え、わずかに息を整える。


「……外せない。いや、外さない」


 それは誰に聞かせるでもない。

 戦場の喧騒に消えるほど小さな声。

 だが、自分自身への、揺るぎない約束だった。


⸻


 一方、丘の麓では、森の王が再び咆哮を上げた。


 その咆哮は冬の空気を一気に押し返し、荒野の地面を震わせた。

 乾いた土が小さく跳ね、周囲の兵士たちの胸にまで衝撃が響く。


 ガレスがその正面へ躍り出た。


「来い!」


 魔剣が唸り、王の鉤爪と激しくぶつかり合う。

 火花が淡い朝光に散り、冴えた風に飲まれて消えていく。

 その隙にエリザベートが左から斬り込み、レオンはさらに半歩だけ後退した。


 誰も気づかないほど、わずかな距離。

 だが、その半歩で森の王の脚は、確かに緩やかな斜面へとかかり始めていた。


 レオンは心の中で静かに数える。


 ──あと七歩。


 七歩進めば、丘の傾斜はさらにきつくなる。

 右脚の傷が必ず動きを鈍らせる。

 その時こそ、盤上の一手。


 しかし、その七歩が何より遠い。

 森の王の一歩は重く、荒々しく、踏みしめるたびに乾いた地面が低く震えた。

 その一歩に合わせて繰り出される猛攻は、レオンたちの体力を容赦なく削っていく。


 七歩──その七歩が、領地の未来を決める。


 風が音もなく吹いた。

 戦場の空気が、ほんの一瞬だけ張り詰める。


 森の王の黄金の瞳がレオンを捉えた。

 そこには獣の怒りだけではない、鋭い警戒があった。


 レオンはその視線を真正面から受け止める。

 魔剣を握る手に、自然と力がこもる。

 呼吸が浅くなり、胸の鼓動が森の王の迫力に押し上げられるように強く打ち始めた。


 風が、両者の間をすり抜けていく。


 空から、白いものがひとひら。

 ふわり、と舞い落ちる。

 凍てついた空気に溶けるように、ゆっくりと軌跡を描きながら落ちてきた。


 その静寂は、戦場の喧騒とはあまりにも対照的で、まるで世界が一瞬だけ息を潜めたかのようだった。


 誰もまだ気づかない。


 それが、この冬最初の雪であることに。

 そして、この雪が降り積もる頃には──

 戦場は、今とはまったく違う形になっている。

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