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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第十六章:群れを護る矜持

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第119話 黎明の誓い

 カン――。

 カン――。

 カン――。


 再び、警鐘が黎明の空を震わせた。


 薄明の光が砦の石壁を淡く染める。

 夜の名残を引きずった冷気が、鐘の響きに震えながら砦を駆け抜けた。

 前回の警戒の鐘からほとんど時間が経っていないというのに、今度の三度の響きは、“戦いが始まる”という事実を、兵士たちの胸へ鋭く突き刺した。


 静かだった砦が息を吹き返す。

 篝火が次々と灯り、炎の揺らめきが石壁を赤く染め、兵士たちの影を長く伸ばした。

 その影は、震えているのではない。

 覚悟を固めた者の影だった。


「弓兵、第一列へ!」

「槍兵は北門前に集結!」

「油壺を城壁に運べ、急げ!」


 ガレスの怒号が砦の隅々まで響き渡る。

 その声は荒々しいのに、兵士たちの心を乱さない。


 兵士たちは、誰一人慌てていなかった。

 春先の襲撃以降、何度も何度も繰り返してきた訓練が、今まさに形となろうとしていた。


 鎧の擦れる音、

 槍の柄を握り直す音、

 油壺の蓋がわずかに鳴る音──

 そのすべてが、砦が戦場へ変わっていく“音”だった。


⸻


 城壁の上では、レオンが北の森を見つめていた。

 空はゆっくりと明け始め、黎明の薄光が荒野の端を淡く染めていく。

 しかし、その光は森の奥までは届かない。

 深い森は、夜の名残ではなく──むしろ夜より濃く、重く、底知れぬ“闇”を抱えたまま、不気味な沈黙を保っていた。


 冷たい風が頬を撫でる。

 その風の向こうで、森の闇がわずかに揺れた。

 揺れたというより、蠢いた。

 まるで何かが、長い眠りから目を覚まし、ゆっくりと身じろぎしたかのように。


 次の瞬間──

 闇の底から、赤い瞳がひとつ、またひとつと浮かび上がった。


 最初は朝の光に溶けてしまいそうなほど小さな点だった。

 だが、点はすぐに線となり、面となり、森の闇を押し破るように、数え切れない赤い光が波のようにうねり始めた。


 それは瞳だった。

 牙狼の瞳。

 角熊の瞳。

 岩猪の瞳。

 森に潜む魔獣たちの瞳が、黎明の薄光の中で赤く燃え上がる。


 朝が来ようとしているのに──その光景だけは、夜よりも深い闇を孕み、黎明の光は広がっていくのに、森の闇だけは深まっているようだった。


「……来ます」


 レオンの短い一言が、砦の空気をさらに張り詰めさせた。

 その声は小さかったが、兵士たちの耳へとまっすぐ届いた。


⸻


 その時だった。

 森の奥から、低い地鳴りが響き始めた。


 ドン……

 ドン……

 ドン……


 一定の間隔で大地が震え、城壁の上の兵士たちは息を呑んで北へ視線を固定した。

 黎明の薄光の中で、震動だけが生き物のように砦を揺らす。


 そして──森の黒い影が裂けた。


 一頭の牙狼が荒野へ飛び出す。

 続いて二頭、三頭、十頭、二十頭。

 影は途切れることなく溢れ出し、荒野を黒い奔流のように染めていく。


 角熊が吠え、岩猪が地面を削り、牙鹿が跳ねる。

 無数の魔獣が荒野を埋め尽くし、その数は前回の襲撃を遥かに超えていた。


 兵士たちの喉が鳴る。

 だが、誰一人として持ち場を離れなかった。

 その張りつめた緊張の中で──


 エリザベートが、ゆっくりと城壁の上へ歩み出た。


 黎明の薄光が濃紅の長髪を淡く照らし、蒼い瞳は揺らぎなく、まっすぐ北の森の闇を見据えている。

 抜き放った魔剣の翠光が、彼女の横顔を神々しく照らした。


 その姿だけで、砦の空気が変わった。

 兵士たちは思わず背筋を正した。


「我がフォルスワーグの兵士たちよ!」


 エリザベートは、そこで初めて振り返った。

 長い髪が黎明の風に揺れ、曇りなき瞳が兵士たち一人ひとりを見つめる。

 その視線は誰かを選ぶものではなく──全員を、同じ温度で包み込むものだった。


「今日、我々が守るのは……石の壁ではない」


 凛とした響きは大きくはない。

 しかし、砦の隅々まで届く力強さがあった。

 その声は、不思議なほど自然に兵士たちの心へ染み渡っていた。


「ザルツ村。

 フィヨル村。

 カウム村。

 宿場町レスト。

 領都グランディア」


 名を呼ぶたび、兵士たちの奥底で何かが震えた。

 そこには家族がいる。

 友がいる。

 帰る場所がある。


 エリザベートは、そっと息を吸った。


「そして──」


 蒼い瞳が、兵士たちをまっすぐ捉える。


「皆の愛する家族。

 皆が守りたい人。

 皆が帰りたい場所。

 そのすべてが、このフォルスワーグ領だ」


 声が震えていた。

 弱さではない。

 心の奥底から溢れた、真実の響きだった。


「私は……父が、我々の先祖たちが血と汗で守り続けたこの領地を、必ず護り抜く」


 濃紅の髪が風に揺れ、蒼い瞳が強く輝く。


「だが──」


 魔剣の翠光が、黎明の空に淡く滲んだ。


「私は一人ではない」


 兵士たちの腹の底に熱が灯る。

 誰かが小さく息を呑んだ。


「ここに皆がいる。この領地を愛し、この地で生きることを選んだ皆が……ここにいる」


 彼女は微笑んだ。

 慈愛を堪えるような、強く優しい微笑みだった。


「どうか、力を貸してくれ。この領地を……未来を……皆と一緒に守らせてくれ」


 誰かが涙を拭い、

 誰かが槍を握り直した。

 

 城壁の上の若い兵士が、小さく呟いた。


「……必ず護る」


 その声は誰へ向けたものでもなかった。


 けれど隣りの兵士も、無言で頷いた。

 その小さな動きが、兵士たち全体へ音もなく広がっていく。

 兵士たちの瞳に光が宿った。

 誰もが身体の奥で何かが燃え上がるのを感じた。


 エリザベートは魔剣を高く掲げた。

 翠色の光が黎明の薄明かりに溶け、砦の闇を押し返すように輝く。


 続いてガレス。

 そしてレオン。


 三振りの魔剣が北の砦の空に並び、砦の空気が震えた。


 その瞬間──森の奥から、これまでとは比べものにならない咆哮が轟いた。


 ゴォォォォォォォォォッ!!


 牙狼たちが一斉に駆け出す。

 角熊が地面を揺らし、岩猪が突進する。

 魔獣の大群が濁流のように北の砦へ殺到した。


 フォルスワーグ領の命運を懸けた戦いが、ついに幕を開けた。


⸻


「弓兵、構え!」


 ガレスが右手を高く掲げた。

 その瞬間、城壁の上の空気がぴたりと止まる。

 兵士たちは息を呑み、弓を引き絞りながら距離を測った。


 百五十。

 百二十。

 百。

 九十。


 迫り来る牙狼の咆哮が、耳の奥を震わせる。

 地面を蹴る音が、荒野の向こうから波のように押し寄せてくる。


「今だ!」


 ガレスの声と同時に、弦が一斉に鳴り響いた。

 ヒュウッ――!

 矢が黎明の空を裂き、雨のように降り注ぐ。


 先頭の牙狼が次々と倒れ、荒野に黒い影が崩れ落ちる。

 それでも群れは止まらない。

 倒れた仲間を踏み越え、さらに前へ、さらに前へ。


「第二射!」


 再び矢の雨が降り注ぎ、角熊が膝をつき、岩猪が地面へ沈む。

 しかし、その後ろから新たな群れが押し寄せ、荒野は途切れることのない黒い奔流と化していた。


「すごい数だ……」


 若い兵士が震える声で呟く。

 その肩を、ドーガンが力強く叩いた。


「慌てるな。まだ始まったばかりだ」


 その言葉は、荒野の轟音に負けないほど力強く、確かな重みを持って兵士の腹の底へ落ちていった。


⸻


 魔獣たちはついに城壁へ到達した。

 牙狼が石壁へ飛びつく。

 しかし──登れない。


 春先の襲撃を教訓に、壁の表面は滑らかに削り直されていた。

 鉤爪が石を滑り、掴むことができない。

 牙狼は苛立つように吠え、何度も跳ね上がるが、結果は同じだった。


「今だ!」


 槍兵たちが一斉に突き下ろす。

 鋭い槍先が牙狼の肩や背を打ち、魔獣たちは地面へ叩き落とされていく。

 城壁の上から見下ろす兵士たちの表情には、恐怖ではなく、張りつめた集中が宿っていた。


 その時──


 ズドォォン!!


 岩猪が門へ突撃した。

 分厚い木門が大きく揺れ、城壁全体が低く唸る。

 しかし破れない。


 門の内側には、新しく組まれた補強梁。

 ザルツ村の鍛冶が打った鉄の金具が、木門をしっかりと抱え込んでいる。

 その強度は、以前の門とは比べものにならなかった。


「効いてます!」


 オスカーが、張り詰めた息を吐くように声を上げた。

 安堵と興奮が混ざったその声は、戦場の空気に小さな光を落とした。


 ガレスも短く頷く。


「ああ。これなら持つ」


 その言葉は、砦の空気にわずかな希望を灯した。


⸻


 一方、砦内の物見櫓ではシエルが弓を構えていた。

 矢を番えたまま、牙狼を狙うことなく──群れ全体の動きだけを静かに追っていた。


「……何かおかしい」


 ぽつりと呟く。


 牙狼たちは門へ向かっているようで、どこか怯えている。

 何度も後ろを振り返り、まるで“押し出される”ように前へ進んでいた。


 城壁の上で魔獣の動きを測っていたレオンも、同じ異様さに気づいた。

 牙狼の群れが、後方から迫る何かに追われるように波打っている。


「……押されている」


 レオンは低く言った。


「え?」


 エリザベートが振り向く。


「あの群れ、自分の意思で突撃していません」


 次の瞬間──森の方角から咆哮が響いた。


 ゴォォォォォォォォッ!!


 腹の底まで震える咆哮。

 その声だけで牙狼たちが狂ったように前へ走り始めた。

 角熊も岩猪も、恐怖に駆られるように砦へ突進する。


「……そういうことか」


 レオンは低く呟く。


「彼らは逃げ道を塞がれている」


⸻


 戦いは一時間近く続いた。

 魔獣の死骸が城壁前に積み重なり、兵士たちの肩にも疲労が滲む。

 矢束は減り、息を整える暇もない。


 槍を握る手が血で濡れている者もいた。

 腕に裂傷を負いながら、片手で槍を支えている兵士もいる。

 治療を受ける余裕などなく、それでも誰一人、持ち場を離れなかった。


 その時だった。


 荒野を満たしていた咆哮と足音が、ふっと静まり返った。

 牙狼たちが突然、左右へ散り始めた。


「止まった……?」


 オスカーが目を見開く。


 魔獣の波が割れ、まるで道を開けるように、荒野の中央が音もなく広がっていく。


 そして──その奥。


 登り始めた陽の光を浴びながら、ゆっくりと、巨大な影が姿を現した。


 誰も声を出せない。


 城壁より高くはない。

 だが角熊の倍近い巨体は、それだけで周囲を圧倒していた。


 黒灰色の硬い甲殻のような皮膚。

 地面へ届きそうなほど太い前脚。

 陽光を鈍く反射する三本の巨大な鉤爪。


 黄金色の瞳が、まっすぐレオンを射抜いた。


 レオンの瞳が僅かに見開かれた。

 腰袋の魔素石が震え、魔剣がそれに呼応するように微かに唸った。


 ガレスが、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……初めて見る」


 歴戦の騎士でさえ知らない魔獣。

 その異形がゆっくりと口を開き──


 大気を震わせる咆哮を放った。


 ――ゴォオオオオオオオオオオッ!!


 その咆哮だけで、北の砦の空気が震えた。

 兵士たちの足元の石が細かく震え、誰もが無意識に息を止めた。

 

 そして、誰もが悟った。


 ついに──

 森の王が、その姿を現したのである。

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