第115話 王の爪痕
牙狼たちの群れがザルツ村を駆け抜けていった明くる朝。
鉱山を包む空気は、昨日にも増して張り詰めていた。
北風が尾根に沿って吹き下ろし、灰色の岩肌を撫でるたび、その冷気は季節の移ろいだけでなく、“何かが近づいている”という不安を誘う。
村外れの狼煙台では、交代したばかりの兵士が南方を見つめていた。
森は静まり返っている。
しかし、その静寂は昨日よりも深く、重く、息を潜めているようだった。
異変は終わっていない──誰もがそう感じていた。
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村の中央にある寄合小屋の大きな机には、一枚の地図が広げられていた。
レオンは机の端に置かれていた小袋から、村の子どもたちに集めてもらった小石を取り出し、ひとつ、またひとつと地図の上へ置いていく。
それは森の入口を示す印であり、牙狼たちが逃げてきた道筋であり、今日向かうべき“境界地帯”の位置でもあった。
石が置かれるたび、地図の上に広がる緊張は輪郭を帯び、まるで石そのものが、森の奥で蠢く“何か”の気配を運んできたかのようだった。
レオンは全員を見渡して一呼吸置くと、口を開いた。
「今日、森へ入る者は二人だけです」
視線の先にはオスカーとシエル。
二人は迷いなく頷いた。
その表情には緊張があったが、恐れはなかった。
「目的は戦うことではありません」
「敵を見つけることでもありません」
レオンは二人の顔を交互に見つめる。
その瞳は冷静でありながら、どこか温かく、彼らの帰還を何よりも優先していることが伝わった。
「確認して帰ること。それが任務です」
「承知しました」
「必ず無事に戻ります」
オスカーの返事は力強く、シエルの返答は簡潔で、どちらも揺らぎがなかった。
その言葉に、レオンは穏やかに微笑む。
「それで十分です」
ガレスは腕を組んだまま苦笑した。
「若い頃なら俺もついて行ったんだがな」
エリザベートがくすりと笑う。
「ガレスが行けば、斥候じゃなくて討伐になるだろ」
「違いねぇ」
ドーガンが豪快に笑い、張りつめていた空気が少しだけ和らいだ。
だが、その笑顔の裏で──誰もが二人の無事を祈っていた。
森へ入る二人を見送る視線には、期待ではなく信頼があった。
この任務が、ただの“確認”では終わらないかもしれないことを、全員が理解していたからだ。
⸻
朝靄の残る獣道を、オスカーとシエルは音もなく進んでいた。
足音を殺し、落ち葉を踏まぬように重心を低く保ち、風向きを確かめながら、一歩ずつ境界地帯へ近づいていく。
境界地帯へ近づくにつれ、森の音が変わっていった。
風の流れが細くなり、鳥の声が途絶え、空気そのものが息を潜めているようだった。
やがて二人は森と岩場が入り混じる場所へ出た。
魔の森の北端──ザルツ村へ続く道との境目だ。
昨日、牙狼たちが現れた場所でもある。
シエルがそっと手を上げた。
止まれ、という合図。
オスカーは即座に身を低くし、周囲の気配を探る。
風が流れ、鼻先をかすかに刺激する臭いがあった。
血の匂いだ。
シエルが囁く。
「……血」
二人は慎重に臭いを追った。
やがて、小さな窪地へたどり着く。
そこに横たわっていたのは、一頭の牙狼。
すでに息はない。
しかし、その姿を見た瞬間、オスカーは言葉を失った。
「……なんだ、これは」
牙狼の胸から腹へかけて、一本の深い“線”が走っていた。
それは肉を裂いた傷ではない。
引きちぎられた痕でもない。
巨大な刃物が、獣の身体をなぞるように通り抜けた一撃。
その軌跡が、そのまま牙狼の身体に刻まれていた。
断面は驚くほど滑らかで、肉の繊維が整列したまま切断されている。
自然が獣に及ぼす傷ではない。
人間の剣でもない。
もっと大きく、もっと重く、もっと速い何か──
その一撃だけで牙狼は抵抗する暇もなく絶命したのだと、傷口が物語っていた。
シエルは周囲を見回し、声を潜めて言った。
「争った跡がありません」
牙狼は逃げていた。
そして、一撃で仕留められた。
抵抗する間もなく。
オスカーは息を呑む。
牙狼は決して弱い魔獣ではない。
普通の兵士なら数人がかりでようやく倒せる強敵だ。
それを、ここまで一方的に。
シエルはしゃがみ込み、傷口へ手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れた。
「我々が知っている大きさの爪じゃありません」
「なんだと?」
「まるで……刃物で斬られたみたい」
オスカーも身を寄せる。
確かに傷は裂けたものではない。
鋭い刃物で断たれたように滑らかだ。
しかし、剣で切った痕とも違う。
もっと大きい。
もっと重い。
そして──。
「……魔素が残ってる」
シエルが低く呟いた。
「魔素……? 牙狼の死骸に?」
オスカーから思わず声が漏れる。
彼女は指先を地面へ向ける。
牙狼の血が染み込んだ土が、わずかに淡い翠色の光を放っていた。
ごく微かな光。
普通の人間なら見逃すほど淡い。
「レオンさんが言っていました。強い魔獣ほど、魔素が濃いって」
オスカーは背筋を伸ばした。
ザルツ村の北にある鉱山で採れる魔鉱石。
そこから精製される魔素石。
そしてフォルスワーグ領を支える三振り──ガレス、レオン、エリザベートの魔剣。
その力の源となる魔素が、今、牙狼の死骸に残っている。
つまり──。
二人の声が重なる。
「相手にするのは、普通の魔獣じゃない(ではありません)」
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二人の声の余韻が消えゆく、まさにその時だった。
シエルの耳がぴくりと動いた。
風がひと筋、森の奥から流れてくる。
枝が揺れる微かな音──
だが、それとは違う“重さ”が混じっていた。
ドン……
ドン……
地面の奥底から響くような、鈍い振動。
ゆっくりと。
しかし確実に近づいてくる。
シエルは即座にオスカーの袖を掴んだ。
その指は震えていない。
迷いのない、斥候としての判断だった。
「帰りましょう」
「まだ――」
「今すぐ」
その声は小さいのに、拒めない強さを持っていた。
オスカーは一瞬だけ窪地の奥を見た。
木々の向こう。
岩陰のさらに先。
そこに──
巨大な影が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
形は見えない。
輪郭も分からない。
ただ、“何かがいる”という事実だけが、腹の底を冷たく掴んだ。
それで十分だった。
二人は来た道を戻り始めた。
走らない。
慌てない。
斥候の基本を守りながら、それでも足取りは自然と速くなる。
背後で、再び振動が響いた。
ドン……
ドン……
森が息をしているような、重い音。
そのたびに空気がわずかに震え、木々の影が揺れる。
オスカーは決して振り返らなかった。
シエルも同じだった。
生きて帰る。
それがレオンとの約束であり、
ザルツ村、そしてフォルスワーグ領の未来を守るための、最初の条件だった。
⸻
夕暮れ前。
オスカーとシエルがザルツ村へ戻ると、寄合小屋にはすでにレオンたちが集まっていた。
薄暗い室内に灯されたランプの光が、緊張を帯びた面々の表情を静かに照らしている。
オスカーは無言で一枚の布を差し出した。
布の中には、牙狼の血で黒く染まった土が包まれている。
「持ち帰りました」
レオンはそれを丁寧に受け取り、しばらく視線を落としたまま動かなかった。
その沈黙が、報告の重さを物語っていた。
やがて彼は、ザルツ村の工房から借り受けた小さな魔素石を取り出し、そっと血の染みた土へ近づけた。
次の瞬間──
魔素石が淡く翠の光を放った。
寄合小屋の空気が一気に張りつめる。
誰もが息を呑み、光に吸い寄せられるように目を見開いた。
レオンはゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、揺らぎのない確信が宿っていた。
「……間違いありません」
静かな声が、部屋の隅々まで届く。
「敵は──上位魔獣です」
エリザベートが小さく息を吸い、ガレスは魔剣の柄を強く握りしめた。
その手に力が入る音が、わずかに聞こえた気がした。
レオンは続ける。
淡い翠光を放つ魔素石を見つめながら。
「しかも──魔素石が反応するほど高密度の魔素を持つ相手です」
「牙狼を一撃で屠りながら痕跡をほとんど残さない。並の上位魔獣ではありません」
魔素石は、まるで呼応するように微かに瞬いた。
その光は弱いのに、どこか“重さ”を感じさせる。
「つまり」
レオンは視線をガレス、エリザベート、そして自分の腰にある魔剣へと移した。
それぞれが領内で唯一“上位魔獣と対峙できる力”を持っている。
三本が揃う時──それは、フォルスワーグが本気で戦うということだ。
「私たち三人の魔剣が必要になります」
その言葉は、寄合小屋の空気を決定的に変えた。
敵は姿を見せぬまま、ただ存在するだけで──フォルスワーグ最強の三人を戦場へ引き寄せたのだ。
北風が、寄合小屋の隙間から音もなく吹き抜ける。
その冷たさは、まるで決戦の訪れを告げる合図のようだった。
戦いの時は、もう間近に迫っていた。




