第106話 森が沈黙する日
シエルが見つけた足跡を囲み、一同はしばらく言葉を失っていた。
地面には、大小さまざまな足痕が幾筋も刻まれ、古いものと新しいものが複雑に重なり合っている。
その乱れた軌跡は、まるで荒野そのものが何かを訴えているかのようだった。
──魔獣が、この一帯を頻繁に動き回っている。
レオンはしゃがみ込み、足跡へそっと手を添えた。
指先に伝わる土の感触はまだ柔らかく、崩れていない。
夜露の跡もない。
「新しいですね」
シエルが短く頷く。
「夜明け前。早くても昨晩だと思います」
オスカーは周囲へ鋭く視線を巡らせた。
吹きすさぶ風が彼の外套を揺らす。
「数が多すぎる。これだけ通れば、巡回兵が気づいてもおかしくない」
ガレスも腕を組み、低く言った。
「実際、ここ数日は目撃報告が増えている。だが──襲撃は減っている」
その言葉に、レオンが顔を上げた。
頭の奥で、何かがゆっくりと形を成し始める。
「……そういうことですか」
「何か気づいたのか」
エリザベートが問いかける。
レオンは静かに頷いた。
「数が増えているのに、被害は増えていません。普通なら逆です」
魔獣が増えれば、隊商や巡回兵への襲撃も増えるはずだ。
しかし実際には違う。
目撃される。
足跡も残る。
それなのに、襲ってこない。
まるで──何かに追われているかのように。
「まるで……」
ドーガンがぽつりと呟いた。
「何かから逃げているみてぇだ」
一同が彼を見る。
ドーガンは少し照れ臭そうに鼻を掻いたが、その瞳に冗談の色はなかった。
「昔もあったんだ。五年くらい前かな。魔獣じゃねぇが、狼どもが急に群れで走り回る年があってな」
「その年は?」
レオンが尋ねる。
ドーガンの表情がわずかに曇る。
「熊の群れが北方山脈から下りてきた。狼は熊を避けて動いてた」
レオンの漆黒の瞳が細くなる。
シエルも森の奥へ青い瞳を向け、何かを考え始めていた。
「つまり──」
レオンはゆっくり立ち上がる。
冷たい風が濃い灰色の前髪を揺らした。
「その魔獣たちも、もっと強い“何か”を避けている可能性があります」
冷たい風が吹き抜けた。
ガレスの顔から笑みが消える。
「……嫌な話だ」
「ええ。一番考えたくない可能性です」
その場の空気が、わずかに沈んだ。
枯草が風に揺れ、どこか遠くで何かが軋むような音がした。
森の奥で蠢く“何か”の気配を、微かに告げているかのように。
⸻
その時だった。
先頭を歩いていたシエルが、森の奥へ向けていた視線をぴたりと止め、小さく息を呑んだ。
風に揺れていた銀髪が静止し、空気がわずかに張りつめる。
「やはり……静かすぎます」
その声は、風よりも細く、鋭く、森の沈黙を切り裂くようだった。
一同が耳を澄ます。
聞こえるのは──風。
草と木々の擦れる音。
それだけだった。
鳥がいない。
小動物の気配もない。
昨日から続く違和感──いや、もっと前から、森は少しずつ音を失っていたのかもしれない。
ガレスは森を見つめながら、ぽつりと言った。
「前に来た時は、ここまで静かじゃなかった」
確かにそうだった。
魔の森とはいえ、魔獣以外の生き物は当然いる。
鳥が飛び、獣が走り、猿のような獣が木々を飛び移る姿も見えた。
森は常に何かしらの気配を放ち、荒野とは違う“生のざわめき”を持っていた。
だが今日は違う。
まるで森そのものが息を潜め、何かを待っているようだった。
その沈黙は、ただの静謐ではなく──不吉な予兆のように思えた。
レオンは折り畳まれた地図を広げる。
「ガレスさん、ここ一ヶ月の目撃地点を全部書き込めますか」
「もちろんだ」
ガレスは記憶を頼りに次々と印を付けていく。
巡回兵の報告も加え、オスカーが補足し、シエルは足跡の位置を書き足した。
地図の上に刻まれていく印は、まるで森が発している“沈黙の理由”を形にしていくようだった。
⸻
やがて、一枚の地図が印で埋まり、魔獣の軌跡が紙の上に浮かび上がった。
レオンはその地図をじっと見つめ、静かに息を吸った。
「……やっぱり」
「どうした?」
エリザベートが身を乗り出す。
レオンは一本の線を指でなぞった。
魔獣の足跡、目撃地点、巡回兵の報告──それらが描く軌跡は、ひとつの方向へ流れていた。
「全部、魔の森の東へ寄っています」
ガレスが目を見開く。
確かに、以前なら砦正面へ現れていた群れが、今は少しずつ東側へ偏っている。
魔の森の東側には、北の砦からザルツ村や鉱山へと繋がる北街道があり、さらにその東には、林や草原、そして規模が比較的小さな森が点在している。
偶然とは思えない。
むしろ、何かに導かれているかのようだった。
「何故だ?」
ガレスが低く呟く。
しかし誰も答えられない。
その時、ドーガンが地図を覗き込み、腕を組んだ。
「……隊長。街道の東側、この先って──フィヨル村へ続く間道じゃねぇか?」
空気が、一瞬で凍りついた。
整備されていない間道を弧を描くように東南へ進むと、その先には、東街道がある。
そしてさらにその向こうには──フィヨル村。
豊穣祭を終えたばかりの、豊かになり始めた美しい村。
レオンたちと村人が丹精込めて育てた、大麦と亜麻の村だった。
風に揺れる黄金色の畑、麦酒の香り、笑い声──そのすべてが脳裏に浮かぶ。
あの村の温もりは、荒野の冷たさを忘れさせるほどだった。
エリザベートの胸が締め付けられる。
「まさか……」
レオンは静かに首を振った。
「まだ分かりません。ですが──偶然ではないでしょう」
ガレスは拳を握りしめた。
フィヨル村、ザルツ村、カウム村。
どれもレオンとエリザベートが命懸けで育ててきた村だ。
荒野の厳しさに耐え、ようやく芽吹いた希望の土地。
今さら失わせるつもりはない。
「オスカー、東側巡回を倍に増やせ」
「承知しました」
「シエル、斥候兵に指示して森の東縁を重点的に偵察しろ」
「分かりました」
ガレスの端的な指示に、二人は迷いなく動き始めた。
その背中を見送りながら、ドーガンがぼそりと呟く。
「忙しくなるな」
ガレスが苦笑する。
「だから来てもらったんだ」
「酒飲む暇ぁ無くなるぞ」
「終わったら付き合え」
「約束だぞ」
二人は笑った。
だが、その笑顔の奥には、これまで辺境を守ってきた勇士だけが知る張り詰めた色があった。
荒野の風が彼らの外套を揺らし、沈黙の森が遠くで息を潜めている。
戦は、いつも静かに始まる。
突然ではない。
必ず、どこかに小さな異変がある。
それを見逃さない者だけが、戦に勝利し、人々を守れるのだ。
⸻
夕暮れ。
砦へ戻ったレオンは、城壁の上に立ち、ゆっくりと東の空を見つめた。
荒野の向こうには木々が点在するだけで、異変は見えない。
だが、そのさらに先には──フィヨル村がある。
収穫を喜び、麦酒を醸し、人々が笑い合う村。
大麦の香りが風に乗り、亜麻の青い花が揺れ、子どもたちの声が響く村。
レオンの脳裏に、その光景がはっきりと浮かんだ。
魔獣たちが東へ寄っている理由は、まだ分からない。
ただ、森の奥で“何か”が起こっているのは確かだ。
それがフィヨル村へ向かう兆しなのか、あるいはまったく別の理由なのか──
今の段階では判断できない。
だが、守るべきものがある以上、備えだけは怠れない。
レオンはゆっくりと拳を握りしめた。
夕陽がその拳を赤く染める。
「……どんな理由であれ、守り抜く」
その静かな決意を聞いていたのは、すぐ隣りに立つエリザベートだけだった。
彼女は何も言わず、小さく頷く。
その蒼い瞳には、レオンと同じ未来が映っていた。
守るべき村。
育ててきた土地。
人々の笑顔。
そして──まだ見ぬ脅威に備える覚悟。
冬の訪れを告げる風が北の砦を吹き抜ける。
凍てつく風は鋭く、森の影から何かを運んでくるようだった。
そして沈んだ森のどこかで──
誰にも気づかれることなく、巨大な“何か”がゆっくりと目を開いていた。
その気配は、まだ遠い。
だが確かに、静寂の底で蠢いていた。
しかしその静けさは、ただの夕暮れの静謐ではなく──
何かが始まる前の、わずかな息継ぎのように思えた。
森は息を潜め、影は身じろぎし、世界が一瞬だけ凍りつく。
その沈黙は、嵐の前触れのようだった。




