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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第十四章:忍び寄る巨影

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第106話 森が沈黙する日

 シエルが見つけた足跡を囲み、一同はしばらく言葉を失っていた。

 地面には、大小さまざまな足痕が幾筋も刻まれ、古いものと新しいものが複雑に重なり合っている。

 その乱れた軌跡は、まるで荒野そのものが何かを訴えているかのようだった。


 ──魔獣が、この一帯を頻繁に動き回っている。


 レオンはしゃがみ込み、足跡へそっと手を添えた。

 指先に伝わる土の感触はまだ柔らかく、崩れていない。

 夜露の跡もない。


「新しいですね」


 シエルが短く頷く。


「夜明け前。早くても昨晩だと思います」


 オスカーは周囲へ鋭く視線を巡らせた。

 吹きすさぶ風が彼の外套を揺らす。


「数が多すぎる。これだけ通れば、巡回兵が気づいてもおかしくない」


 ガレスも腕を組み、低く言った。


「実際、ここ数日は目撃報告が増えている。だが──襲撃は減っている」


 その言葉に、レオンが顔を上げた。

 頭の奥で、何かがゆっくりと形を成し始める。


「……そういうことですか」


「何か気づいたのか」

 エリザベートが問いかける。


 レオンは静かに頷いた。


「数が増えているのに、被害は増えていません。普通なら逆です」


 魔獣が増えれば、隊商や巡回兵への襲撃も増えるはずだ。

 しかし実際には違う。

 目撃される。

 足跡も残る。

 それなのに、襲ってこない。


 まるで──何かに追われているかのように。


「まるで……」

 ドーガンがぽつりと呟いた。


「何かから逃げているみてぇだ」


 一同が彼を見る。

 ドーガンは少し照れ臭そうに鼻を掻いたが、その瞳に冗談の色はなかった。


「昔もあったんだ。五年くらい前かな。魔獣じゃねぇが、狼どもが急に群れで走り回る年があってな」


「その年は?」

 レオンが尋ねる。


 ドーガンの表情がわずかに曇る。


「熊の群れが北方山脈から下りてきた。狼は熊を避けて動いてた」


 レオンの漆黒の瞳が細くなる。

 シエルも森の奥へ青い瞳を向け、何かを考え始めていた。


「つまり──」

 レオンはゆっくり立ち上がる。

 冷たい風が濃い灰色の前髪を揺らした。


「その魔獣たちも、もっと強い“何か”を避けている可能性があります」


 冷たい風が吹き抜けた。

 ガレスの顔から笑みが消える。


「……嫌な話だ」


「ええ。一番考えたくない可能性です」


 その場の空気が、わずかに沈んだ。

 枯草が風に揺れ、どこか遠くで何かが軋むような音がした。

 森の奥で蠢く“何か”の気配を、微かに告げているかのように。


⸻


 その時だった。

 先頭を歩いていたシエルが、森の奥へ向けていた視線をぴたりと止め、小さく息を呑んだ。

 風に揺れていた銀髪が静止し、空気がわずかに張りつめる。


「やはり……静かすぎます」


 その声は、風よりも細く、鋭く、森の沈黙を切り裂くようだった。


 一同が耳を澄ます。

 聞こえるのは──風。

 草と木々の擦れる音。

 それだけだった。


 鳥がいない。

 小動物の気配もない。

 昨日から続く違和感──いや、もっと前から、森は少しずつ音を失っていたのかもしれない。


 ガレスは森を見つめながら、ぽつりと言った。


「前に来た時は、ここまで静かじゃなかった」


 確かにそうだった。

 魔の森とはいえ、魔獣以外の生き物は当然いる。

 鳥が飛び、獣が走り、猿のような獣が木々を飛び移る姿も見えた。

 森は常に何かしらの気配を放ち、荒野とは違う“生のざわめき”を持っていた。


 だが今日は違う。

 まるで森そのものが息を潜め、何かを待っているようだった。

 その沈黙は、ただの静謐ではなく──不吉な予兆のように思えた。


 レオンは折り畳まれた地図を広げる。


「ガレスさん、ここ一ヶ月の目撃地点を全部書き込めますか」


「もちろんだ」


 ガレスは記憶を頼りに次々と印を付けていく。

 巡回兵の報告も加え、オスカーが補足し、シエルは足跡の位置を書き足した。

 地図の上に刻まれていく印は、まるで森が発している“沈黙の理由”を形にしていくようだった。


⸻


 やがて、一枚の地図が印で埋まり、魔獣の軌跡が紙の上に浮かび上がった。

 レオンはその地図をじっと見つめ、静かに息を吸った。


「……やっぱり」


「どうした?」

 エリザベートが身を乗り出す。


 レオンは一本の線を指でなぞった。

 魔獣の足跡、目撃地点、巡回兵の報告──それらが描く軌跡は、ひとつの方向へ流れていた。


「全部、魔の森の東へ寄っています」


 ガレスが目を見開く。

 確かに、以前なら砦正面へ現れていた群れが、今は少しずつ東側へ偏っている。

 魔の森の東側には、北の砦からザルツ村や鉱山へと繋がる北街道があり、さらにその東には、林や草原、そして規模が比較的小さな森が点在している。

 偶然とは思えない。

 むしろ、何かに導かれているかのようだった。


「何故だ?」

 ガレスが低く呟く。

 しかし誰も答えられない。


 その時、ドーガンが地図を覗き込み、腕を組んだ。


「……隊長。街道の東側、この先って──フィヨル村へ続く間道じゃねぇか?」


 空気が、一瞬で凍りついた。


 整備されていない間道を弧を描くように東南へ進むと、その先には、東街道がある。

 そしてさらにその向こうには──フィヨル村。


 豊穣祭を終えたばかりの、豊かになり始めた美しい村。

 レオンたちと村人が丹精込めて育てた、大麦と亜麻の村だった。

 風に揺れる黄金色の畑、麦酒の香り、笑い声──そのすべてが脳裏に浮かぶ。

 あの村の温もりは、荒野の冷たさを忘れさせるほどだった。


 エリザベートの胸が締め付けられる。


「まさか……」


 レオンは静かに首を振った。


「まだ分かりません。ですが──偶然ではないでしょう」


 ガレスは拳を握りしめた。

 フィヨル村、ザルツ村、カウム村。

 どれもレオンとエリザベートが命懸けで育ててきた村だ。

 荒野の厳しさに耐え、ようやく芽吹いた希望の土地。

 今さら失わせるつもりはない。


「オスカー、東側巡回を倍に増やせ」


「承知しました」


「シエル、斥候兵に指示して森の東縁を重点的に偵察しろ」


「分かりました」


 ガレスの端的な指示に、二人は迷いなく動き始めた。

 その背中を見送りながら、ドーガンがぼそりと呟く。


「忙しくなるな」


 ガレスが苦笑する。


「だから来てもらったんだ」


「酒飲む暇ぁ無くなるぞ」


「終わったら付き合え」


「約束だぞ」


 二人は笑った。

 だが、その笑顔の奥には、これまで辺境を守ってきた勇士だけが知る張り詰めた色があった。

 荒野の風が彼らの外套を揺らし、沈黙の森が遠くで息を潜めている。


 戦は、いつも静かに始まる。

 突然ではない。

 必ず、どこかに小さな異変がある。

 それを見逃さない者だけが、戦に勝利し、人々を守れるのだ。


⸻


 夕暮れ。

 砦へ戻ったレオンは、城壁の上に立ち、ゆっくりと東の空を見つめた。

 荒野の向こうには木々が点在するだけで、異変は見えない。

 だが、そのさらに先には──フィヨル村がある。


 収穫を喜び、麦酒を醸し、人々が笑い合う村。

 大麦の香りが風に乗り、亜麻の青い花が揺れ、子どもたちの声が響く村。

 レオンの脳裏に、その光景がはっきりと浮かんだ。


 魔獣たちが東へ寄っている理由は、まだ分からない。

 ただ、森の奥で“何か”が起こっているのは確かだ。

 それがフィヨル村へ向かう兆しなのか、あるいはまったく別の理由なのか──

 今の段階では判断できない。


 だが、守るべきものがある以上、備えだけは怠れない。


 レオンはゆっくりと拳を握りしめた。

 夕陽がその拳を赤く染める。


「……どんな理由であれ、守り抜く」


 その静かな決意を聞いていたのは、すぐ隣りに立つエリザベートだけだった。

 彼女は何も言わず、小さく頷く。


 その蒼い瞳には、レオンと同じ未来が映っていた。

 守るべき村。

 育ててきた土地。

 人々の笑顔。

 そして──まだ見ぬ脅威に備える覚悟。


 冬の訪れを告げる風が北の砦を吹き抜ける。

 凍てつく風は鋭く、森の影から何かを運んでくるようだった。


 そして沈んだ森のどこかで──

 誰にも気づかれることなく、巨大な“何か”がゆっくりと目を開いていた。

 その気配は、まだ遠い。

 だが確かに、静寂の底で蠢いていた。


 しかしその静けさは、ただの夕暮れの静謐ではなく──

 何かが始まる前の、わずかな息継ぎのように思えた。


 森は息を潜め、影は身じろぎし、世界が一瞬だけ凍りつく。

 その沈黙は、嵐の前触れのようだった。

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