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辺境領再建記 〜追放された天才文官は、鉄血の女領主をロジカル内政力で救い出す〜  作者: 雅 佳人
第十四章:忍び寄る巨影

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第101話 朔風の継承

 夜明け前のグランディアは、まだ深い眠りの中にあった。

 街を包む薄闇は静まり返り、まるで領都全体が息を潜めて夜の終わりを待っているようだった。


 見張り塔の上では当番兵が肩をすくめ、冷たい空気を吸い込みながら周囲を見渡している。

 吐く息は白くほどけ、夜気へ溶けていく。

 塔の上だけが、眠りの世界から切り離されたようにわずかに動いていた。


 やがて東の空が淡い藍色へと変わり始める。

 夜と朝の境界がゆっくりと滲み、世界が少しずつ色を取り戻していく頃──

 北門の前には、すでに十数頭の馬が整然と並んでいた。

 馬たちは静かに鼻を鳴らし、蹄で地面を軽く叩いている。

 これから向かう先がただの視察ではないことを、本能で感じ取っているのだろう。


 エリザベートは愛馬の首筋をゆっくり撫でながら、北の空を見つめた。

 雲ひとつない。

 澄み切った冬めく空が、どこまでも広がっている。


「いい天気だな」


 隣りに並んだレオンが、柔らかく微笑んだ。


「視察日和ですね」


「……少し物足りんな」


「何がです?」


「お前なら『天気が良すぎる日は油断するな』とか言いそうだからな」


「それはガレスさんの役目です」


 二人が笑う。

 その背後から、本当にガレスの声が飛んできた。


「聞こえてるぞ、お前ら」


 ガレスは腰に魔剣を下げ、いつもの革鎧ではなく金属製の鎧を身につけていた。

 肩には北方遠征用の厚手の外套。

 その姿は、戦場へ向かう騎士そのものだった。


 エリザベートもまた、今日は領主としての正装ではない。

 胸当てと軽鎧を身につけ、腰には気品ある魔剣を佩いている。

 柄には翠色に光る魔素石が嵌め込まれ、鍔には辺境伯家の紋章が誇らしげに刻まれていた。

 普段は式典や討伐時にしか帯びないそれを、迷いなく装備していた。

 その魔剣は、父が最後に手にしていたものだった。


 レオンも同じだった。

 いつもの軽装ではなく、旅装に簡易の防具を重ね、腰には魔剣を収めた鞘が揺れている。

 文官でもある彼が剣を携えるのは、今回の視察が“戦場へ向かう可能性のある旅”であることを示していた。


「北は昼でも冷える」


「分かっています」


「本当に分かってるか?」


「ガレスさん」


 レオンは苦笑した。


「私はあなたほど無茶しません」


「そうか?」


「はい」


「お嬢様より?」


「……」


「返事が遅い」


 ガレスが豪快に笑う。

 エリザベートはその端正な顔に苦笑いを浮かべる。


「そこはすぐに私をフォローしろ」


 朝の空気が少し和らぎ、遠征前の緊張がほんのわずかにほどけた。

 だが、その和らぎは長くは続かなかった。

 木枯らしがひと吹きすると、雰囲気は再び引き締まる。

 これから向かう先が、ただの視察ではないことを思い出させるように。


⸻


 そこへ、馬を引いたオスカーとシエルが姿を見せた。

 朝の冴えた空気を切り裂くように歩み寄る二人の気配は、すでに遠征の緊張を含んでいた。


「北方視察メンバー、準備完了しました」


 オスカーが短く、しかしよく通る声で報告した。

 その表情には、夜明け前から動いていた者だけが持つほど良い緊張がある。


「北の街道沿いの巡回状況も確認済みです」


「ご苦労」


 ガレスが静かに頷くと、オスカーは馬の手綱を整えながら一歩下がった。


 シエルは小さく礼をし、無言のまま荷の固定を続けていた。

 指先の動きは凪のように静かで、余計な力も音も生まない。

 彼女が紐を締めるたび、馬具がわずかに鳴り、その響きが色を取り戻し始めた空に吸い込まれていく。


「では」


 エリザベートは馬の腹帯を確かめ、軽やかに鞍へ身を預けた。

 その姿勢は迷いがなく、北へ向かう決意がそのまま形になったようだった。


「行こう」


 彼女の声と同時に、頑丈な北門がゆっくりと開いていく。

 軋む音が低く響き、朝焼けの光が門の隙間から差し込むと、金色に染まり始めた北へ続く街道が姿を見せる。


 ガレスが号令を掛けると、十数頭の馬が蹄を鳴らしながら歩み出す。

 その動きはゆっくりだが、確かな力を持って北へ向かっていた。


 グランディアから少し離れただけで、景色は一変する。

 収穫を終えた畑が広がり、積み上げられた藁束が冷えた風に揺れていた。

 農夫たちは冬支度に追われ、点在する農家からは白い煙がまっすぐ空へ昇っている。

 畑では、早朝にもかかわらず子どもたちが落ち穂を拾い、笑い声が風に乗って遠くまで響いていた。


 その光景は、まるで領地全体が豊かさを誇っているかのようだった。


「良い冬を迎えられそうですね」


 レオンが周囲を見渡しながら言う。


「ああ」


 エリザベートも頷いた。

 その瞳には、去年とは違う景色が確かに映っていた。


 以前は、どこか沈んだ空気が漂っていた。

 だが今年は違う。

 農民の顔には笑みがあり、荷車や牛の数も増えていた。

 街道には、すでに商人の姿まである。


 領地が、躍動している──

 その実感を目の当たりにすると、ふいに目頭が熱くなった。


⸻


「おーい!」


 畑の向こうから、老人が大きく手を振った。

 朝の光を受けてしわだらけの顔がほころび、まるで孫に声をかけるような親しみがその声に宿っている。


「領主様ー!」「お気を付けて!」


 いくつもの声が重なり、風に乗って一行へ届いた。

 エリザベートは思わず馬上で身を起こし、柔らかな笑みを浮かべて手を振り返す。


 レオンも軽く頭を下げる。

 その横顔には、彼女の人気を誇らしく思う気持ちが微かに浮かんでいた。


「人気者ですね」


「……まだ慣れん」


 照れたように目を細めるエリザベートの横顔を見て、レオンは自然と微笑んだ。

 その柔らかな空気を、前方から見ていたガレスがわざとらしく咳払いで断ち切る。


「二人とも」


「はい?」


「北へ向かってるんだぞ」


「分かっています」


「もう少し緊張感を持て」


 ガレスの声は叱責というより、戦場を知る者の本能に近かった。

 レオンは肩を竦め、苦笑しながら返す。


「緊張しっぱなしでは疲れますよ」


 ガレスは言葉を失い、ほんの一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙の奥に、かつての戦場の記憶が影のように揺れた。


 そして──

「旦那様も同じことを言ってた」


 その声は、いつもの豪快さとは違い、どこか懐かしさを含んでいた。


 エリザベートが驚いて振り向く。


「父上が?」


「ああ」


 ガレスは馬を進めながら、遠くの空を見上げた。

 陽光が鎧に反射し、彼の横顔を白く照らす。


「戦の前日ほど酒を飲んで笑ってた。『笑えるうちに笑っとけ』ってな」


「意外だな」


「お嬢様は真面目すぎる」


「む……」


 ガレスは口元をわずかに緩めた。


「笑えるうちに笑っておくのがよいですよ」


 その言葉は、軽口のようでいて、どこか深い温もりを持っていた。

 エリザベートは小さく息を吸い、その言葉をそっとしまい込む。


「……覚えておく」


 その返事は、風に溶けるほど淡いようで、確固たる芯が通っていた。


⸻


 昼前、一行は北街道の終着点へと辿り着いた。


 ここから先は、整備された道ではない。

 轍が深く刻まれた土道が続き、雨が降ればぬかるみ、冬になれば凍る。

 風が吹けば土埃が舞い、荷馬車の車輪跡はところどころ深く抉れていた。


 レオンは馬を止め、ゆっくりと周囲へ視線を巡らせた。

 その表情に、エリザベートが気づく。


「どうした?」


 彼女の問いに、レオンは短く息を吐いた。


「……なるほど」


「何が?」


「次の課題が見えました」


 ガレスが苦笑しながら馬を寄せる。


「やっぱり気づいたか」


 レオンは馬から降り、しゃがみ込んで土を掴んだ。

 指先に伝わる感触は乾いている。

 だが、土の奥には水が抜けきらずに残っている気配があった。

 少し雨が降れば、この道は一気にぬかるむだろう。


 彼は立ち上がり、街道脇へ視線を移す。

 そこには休憩所もなく、雨風をしのぐ小屋もない。

 井戸もなければ、避難できる場所もない。

 ただ、荒れた土道が北へ向かって伸びているだけだった。


「この道では──」


 レオンは静かに言葉を続けた。


「魔鉱石も鉄も、安定して運べません」


「そうだ」


 ガレスが重く頷く。


 この道が整わなければ、北方の発展はいつまでも“運任せ”のままだ。


「旦那様も最後まで頭を悩ませていた」


 エリザベートは黙って北の砦へ続く道を見つめた。

 父も見た景色。

 父が守ろうとした北方。

 そして今、その責務は自分の肩に乗っている。


 レオンも同じ結論へ辿り着いていた。


「まずは北を守る」


 彼の声は静かだが、揺るぎなかった。


「そして、この道も必ず整備しましょう」


 エリザベートは力強く頷いた。


「ああ」

 

 その蒼い瞳には迷いがなかった。

 北へ向かう彼女の決意を確かめるように、風が頬を撫でていった。


⸻


 午後になると、景色はさらに姿を変え始めた。


 風は鋭さを増し、肌を刺すような冷たさを帯びていた。

 その風の向こう、地平線の彼方に──北方山脈がゆっくりと姿を現し始めていた。

 まだ遠く霞の中に沈んでいるというのに、その連なりは重みを帯び、灰色の影が世界の端を静かに縁取っている。


 目を凝らすと、麓からはうっすらと白い煙が立ち昇っている。

 まるで山脈が静かに息を吐いているかのように、細く、途切れず、空へ伸びていた。


「魔素石工房の煙ですね」


 シエルが馬上から静かに告げる。

 その声に一行は足を止め、自然と山へ視線を向けた。


 あの煙の近くには鉱山があり、魔鉱石などの鉱物を産出する坑道がある。

 そして──フォルスワーグ領の未来を支えるザルツ村の人々が暮らしている。

 その事実が、山脈の姿をより大きく見せた。


 その時だった。

 オスカーが目を細め、街道脇へ視線を向ける。


「……ガレス隊長」


「どうした」


「あれを」


 彼が指差した先を見た一行の空気が瞬時に切り替わる。


 柔らかな土に、大きな足跡が深く沈んでいた。

 人ではない。

 馬でもない。

 熊よりも大きい──それは、明らかに“何か”の存在を示していた。


 爪痕は鋭く、土を抉り取るように刻まれている。

 周囲の木の皮は荒々しく剥がれ、つい先ほどまでそこに暴れた気配が残っていた。


 ガレスの表情が即座に変わる。


「止まれ」


 その声は低く、鋭かった。

 一行の空気が張り詰め、風の音さえ遠くへ消えていく。

 まるで周囲の世界が、この足跡を中心に静寂《しじま》を纏ったかのようだった。


 レオンは馬を降り、外套が汚れることも厭わずに足跡を確かめる。

 土の湿り具合、爪痕の鮮度──すべてが“新しい”と告げていた。


「昨日……いや──」


 彼は指先で土を軽く払う。


「半日前ですね」


 立ち上がったレオンの声は、妙に冷静だった。

 その抑揚のなさが、逆に事態の不気味さを増幅させる。


「こちらも、歓迎の準備はしてくれているようです」


 冷たい冬風が一行の間を吹き抜けた。

 遠く、山の彼方から一羽の烏が飛び立ち、黒い影が空へ舞い上がる。

 その鳴き声だけが、初冬の空へ長く、鋭く響いていた。

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