9 過愛
暗闇の中に横たわる男神を、
立ち尽くしたままじっと視つめるのは、闇の主だ。
賢しい言霊を巧みに操り、三貴神を追い込んだ思兼を囚えたのは
僥倖であったのか掴みかねていた。
「さて、どうしたものか――」
全てを知ることは出来る。
だが、知りたくないような気もする。
二心を持つこの神が、さらに月神を追い込んだのだと、
今は気づいてしまったから。
月神を追いつめることは容易かったに違いない。
あんなにも無垢で、稚かったのだから。
太陽の女神を希い、孤独にうち震えるあの頃の月神ならば、
この老獪な言霊に容易く絡み取られ、
面白いほど思うままに動く手駒であったろう。
そして、自分も、この男神にとっては
月神を追い込む使い易き手駒であったろう。
思兼の思う通りに翻弄され、挙げ句に決別した。
初めて得た『友』という存在への喜びや期待、
自分に対する傲りが目を眩ませて、疑いもしなかったのだ。
「――」
小さく息をついて、闇の主は横たわる思兼の傍らに膝をついた。
豊葦原は暗闇に覆われていたが、此処では、細い月が出ていた。
儚く、幽けく、弱々しい光を思うと、
切なさに似た物思いが沸き上がる。
満ちた月に、逢いたかった。
美しく、気高く、咲うだけでこの心を慰めてくれた月に。
それ故に。
「夜よ……我らは、何故、互いを失わねばならなかったのか――」
知らねばならなかった。
数多の悔いとともに。
真円の月が浮かぶ。
其処は、静寂というよりも寂寞とした、夜の食国だった。
「姉上……」
その言霊に、応えはない。
高天原に至る路はすでに閉ざされ、夜の食国には自分独りだけ。
世話をする采女も、決してその姿を視せるなと厳命されているのか、
自分の前に姿を顕したこともない。
そうして、独り。
ひたすら独りで在り続けた。
夜しかないこの国は、時の流れも曖昧で、
月神は自分がどれ程独りで在り続けたのかもわからなくなっていた。
高天原が恋しかった。
姉の――天照の傍にいたい。
自分達は対の命なのに、
何故太陽の女神はあんなにも冷たいのだろう。
穢された自分を、未だ厭うている故か。
「姉上……」
独り憂えても、応えはなく、夜の食国をただ彷徨う。
さほど広くもない領域をいつしか出でて、闇の中を独り彷徨う。
あてどもなくただ往き過ぎて、どれ程経ったのであろうか。
不意に月神は在る場処に辿り着いた。
「――」
暗闇の中、大きな湖がそこに在る。
「此処は――」
湖岸に静かに降り立つと
月見を楽しむために設えられたように大きな一枚岩が在る。
静寂の中、浮かぶ月。
凪いだ湖面。
膝を折り、その淵を覗き込めば、
あまりにも澄んでいて己の姿がくっきりと映る。
思わず触れると、波紋が湖面を震わせた。
「その水を、飲んではならぬ」
低く、だが優しい響きの言霊に、月神は驚いて振り返った。
夜の闇の中に、美しい神の姿が視えた。
此方を視据える瞳は美しい琥珀色だった。
漆黒の長い髪に闇色の上衣を纏い、
闇に在るのが相応しい男神であるのに、
陰の神気は見事に調和していた。
「なんと、我以外に此処を視出す者が在ろうとは」
男神が近づいて来る。
月神は立ち上がった。
「その神気――月神だな」
美しい容が、自分を覗き込む。
この神気は――黄泉神だと気づいた。
「何故に此処へ? 月視にしては、高天原からは遠すぎる」
「――」
では、此処は黄泉国なのか?
それはおかしい。
生神は、黄泉国には来られない。
「その容からするに、太陽の女神は知らぬな。
大方、気に入らぬ事が在って彷徨い出て、
偶然に此処を視出したか」
「――」
この男は、私が神逐いされたことを知らぬのか。
黄泉神の言霊を量りかねて、月神は応えを返せずにいた。
そんな月神の様子に、男神は首を横に振る。
「答えたくないなら、良い。
独りになりたい時とてあろう。
私のことは気にするな」
黄泉神である男神は、静かに一枚岩に腰を下ろした。
「今宵は望月。
月夜を愛でに来て、本当の月を拝めるとは。
月神も座るがいい」
あまりにも事も無げに言われたので、月神は素直に傍らに腰を下ろした。
不思議な心持ちだった。
自分に平気で話しかけてくる。
高天原には、もう気安く言霊を交わしてくれる神はおらぬというのに。
「美しい処だ、此処は」
思わず、言霊が口をついて出る。
その呟きに、静かに返る言霊。
「そうであろう。
おそらくそなたが生まれる前から在る処だ。
この美しさと静かさは、格別だ。
だから、我も何度も足を運んでしまう」
月神が傍らに視線を向ける。
「では、此処は、黄泉国ではないのか」
「違う。黄泉国ならば、そなたは来られぬ。
此処は狭間の領域。暗闇の世界だ。
恐らく我とそなたしか此処に足を踏み入れた者はおるまい」
視返す瞳は何処までも穏やかに語られる。
「――そうか。そなたの気持ちはわかる。
こんなにも美しく静かな処ならば、
私も夜毎此処に来たいと思う」
そう返すと、黄泉神は意外そうに月神を視た。
「どうした?」
「そのようなことを言われたのは初めてだ。
闇を愛する我の気持ちがわかるなどと――
神々は、大抵は闇よりも光を愛する」
「そうだな。だが、私は月神だ。月は闇にこそ映えるもの。
それ故、月神が闇を愛するのはおかしな事ではあるまい」
その言霊に、黄泉神は咲った。
あまりにもそれが優しげに視えたので、
月神はその咲みに暫し心を奪われた。
「月は闇にこそ映える、か――その通りだ。
月神と語り合うのがこれ程に楽しいものとは、思わぬ僥倖だ」
黄泉神の言霊に、月神も嬉しくなる。
どれほど永くともに在っても、
このように話せる者など、高天原にはいなかった。
三貴神である身で、容易く語りかける者などいないし、
自分も高天原に在りたかったのは、偏に天照の傍に在りたかったからだ。
その天照でさえも、
容を視れば常に夜の食国に返れとしか言ってはくれなかった。
だが、この黄泉神は違う。
初めから、心易く語りかけてくれた。
自分の言霊に心を向けてくれる。
このような神は、他にいない。
「――そうか。
私もそなたと話すのは楽しいし、嬉しい」
月神も咲いながら応えた。
互いに咲い合い、
心が温かくなるのを互いに感じた。
「では、明晩も此処で会おう。我はまたそなたと語らいたい。
友と語らうように」
「ああ。明日もまた、このように心易く語らいたい。
そなたはすでに私の友だ」
月神は、初めて得た友に問うた。
「友よ、そなたの名は?」
男神は、瞬き一つの間、逡巡した。
「我は――黄泉大神。黄泉国を統べる闇の主だ」
その言霊に、月神は違和感を憶えた。
「それは、そなたの名ではない」
月神の言霊に、男神は咲った。
「月神は稚いな。まるで幼子のようだ」
「何故だ。名を聞いたからか」
「そなたは我に真名を問うたのだ。
そのように容易く問うものではない」
教え諭すように、男神は言う。
だが。
「私はそなたを闇の主とは喚びたくない。
黄泉大神ともな」
黄泉大神も、闇の主も、
この男神を呼ぶには相応しくないと月神は感じた。
月神の言霊に、男神は暫しその容を視つめ――それから、
愛しげに咲った。
「確かに、私もそなたを月神とは喚びたくない。
私の名など好きに喚べ」
咲う男神は、死を司る闇の主には視えなかった。
その容を、月神は視つめ返した。
美しい琥珀の瞳が、闇に浮かぶ月のように美しかった。
自分達は、どこか似ている。
そう気づいた。
「では、夜見。
私はそう喚ぶ。
我らが愛する闇の領界、美しい夜の世界を見護る者故に」
呼ばれた瞬間、言霊が祝福するように大気を震わせた。
月の光の欠片が、様々な色を持って二柱の神の周りを彩る。
「何と――そなたは美しき言霊で、私を言祝いだ」
闇の主――否、新しき名を得た夜見の美しい容が、
柔らかくほころんだ。
「では、私はそなたを夜と喚ぶ。
そなたを視つめるに相応しき名だ」
夜見の口から出づる美しい名が、先程と同様に大気を震わせた。
闇に降り注ぐその光は、
さながら星の欠片を散りばめたように言祝ぐ。
二柱の神は、互いを視やり、そして、咲った。
「よかろう。此処にいる間は、互いをそう喚ぼう」
「ああ。此処にいる間は、我らはただの夜見と夜」
「そう、此処では、何の柵もない、かけがえのない友だ」
美しい夜だった。
愛しい者とようやく出逢った、初めての夜だったから。
月が出るのを待ちきれずに、月神は向かった。
降り立った先には、すでに友である夜見の姿が在った。
「来たか、夜」
差し伸べられた夜見の手を月神は取った。
「夜見。私を、待っていてくれたのか?」
「ああ。不思議なことに、別れてすぐに会いたくなってな。
早くに此処に来てしまった」
その言霊に、胸が温かくなる。
自分が訪れるのを、このように嬉しげに迎えられることなど、
初めてだった。
「友を待つというのも悪くないものだ。
そなたの姿を視つけると待つ間の退屈な時を忘れてしまう」
この琥珀の瞳を、いつまでも視ていたいと思う。
低く、優しく響く声を、いつまでも聴いていたいと思う。
友と在るというのは、このように満ち足りているのか。
月神は幸せだった。
幸せであるということがどういうことなのか、
やっと気づいた気がした。
「私も、そなたに早く会いたかった。
だから、月が出るのを待ち切れずに此処に来てしまったのだ」
互いに咲い合い、また昨晩のように岩に腰かけ、湖面に移る月を視る。
夜空に輝く月は、湖面に映っても美しかった。
月が輝いているために目立たぬが、
ひっそりと控える星々もまた美しかった。
「そういえば、
そなたは私にこの水を飲んではならぬと言った。
何故だ」
傍らの夜見を視つめると、
湖面の月のように美しい琥珀の瞳が得心したように咲う。
「ああ。この水は黄泉の源泉――始まりの水だ。
この水を飲むと、記憶を無くすのだ」
「記憶を無くす?」
夜見の言霊に、月神は驚く。
静かな湖面にもう一度目をやる。
「人間であれば一口でも口にすれば
全てを忘れてしまうであろう。
神ならば、もっと必要だが――」
「――」
忘れられるのか。
忌まわしい記憶は全て。
瞬き一つの間、そんなことを月神は思った。
「忘れたい記憶でもあるのか、夜?」
問われて、我に返る。
容を上げると、琥珀の瞳が此方を視ていた。
労るようなその眼差しに、つい答えてしまう。
「――私だけが忘れてもどうにもならぬ。
姉上にも飲んでもらわねば。
だが、忘れてもらいたい記憶だけを無くすことは
出来ぬのだろう?」
「そうだな。新しい記憶から忘れることになる。
昔の出来事ならば、どこまで飲めばよいかは、私にもわからぬ。
飲んだことがないからな」
「ならば、やはり、どうにもならぬ」
諦めたように、月神は咲った。
どうせ、自分は天照には逢えない。
高天原を神逐いされたのだから。
それを、なかったことになど出来ない以上、
自分だけが忘れても意味がない。
「太陽の女神と諍いがあったのか?」
あまりにも優しく問われたので、またも月神は答えてしまう。
「少しな。だが、心配は要らぬ。
姉上と私は対の命だ。
いずれ姉上も許してくださる」
言霊は、ただの気休めのように響いた。
それでも、言いながら、心を静めようと努める。
そうでもしないと耐えられそうにない。
不意に肩を抱かれて引き寄せられる。
「夜見――」
「辛いのなら、そのように耐えるな」
夜見の肩に寄りかかって、月神は暫くそうしていた。
温もりが伝わる距離で、
こうしているのはなんと安心できるのだろう。
ざわめいていた心が、落ち着いていく。
だが、夜見とこうして傍に在る幸せとともに、
天照と共に在ることが出来ない哀しみが沸き上がる。
「どうして、姉上は私を突き放すのだ。
私とて、姉上の救けになれるのに。
私は、そんなに頼りにならぬのか――」
「そうではない。そなたは――そのままで良い。
恐らく、太陽の女神はそのようなことを
考えて欲しくないのであろう」
「どういうことだ」
月神が夜見を視上げる。
夜見の琥珀の瞳は、どこまでも労るように優しく映った。
「煩い事は、そなたではなく自分が引き受けたかったのであろう。
そなたには心安くあって欲しいのだ」
「……そうなのか……?」
「太陽の女神はきっとそのように思っているはずだ。
私もそなたには心安くあってもらいたい」
夜見の言霊は、心地よく響く。
夜見は自分をわかってくれる。
「姉上は、私を愛しく想ってくださっているのだな」
「想わぬはずがない。
友である私でさえ、そなたを愛しく思うのだ。
対の命である太陽の女神は、それ以上であろう」
愛しく思う。
夜見のその言霊に、月神は胸が高鳴るのを感じた。
友が自分を愛しく思ってくれる。
それだけで、全ての憂いが消え去って往く。
「夜見、そなたは本当に得難き友だ。私は幸せだ」
咲う月神に、夜見も咲みを返す。
「私もだ。得難き友を得て、幸いだ」
寄り添いながら、二柱の神は動こうとしなかった。
それ以上の言霊はいらなかった。




