『君のような無能な婚約者はいらない』と王太子に捨てられた令嬢ですが、私が去った王宮は三ヶ月で崩壊し、隣国の皇太子に溺愛される毎日です
「——今日をもって、君との婚約を破棄する」
煌びやかなシャンデリアの光が、エドワード殿下の金髪を天使の輪のように照らしていた。建国記念舞踏会——王国で最も華やかな夜に、私は衆人環視の中で婚約破棄を言い渡された。
広間がざわめく。扇の陰でひそひそと囁き合う令嬢たち。憐れむような、あるいは嘲るような視線が、四方八方から私を射抜いた。
「君のような無能で退屈な女は、王妃にふさわしくない」
エドワード殿下は、まるで演説でもするかのように朗々と宣言した。その隣には、蜂蜜色の巻き毛を揺らす可憐な少女——アメリア・クローネ嬢が、青い瞳を潤ませて寄り添っている。
「僕にはアメリアがいる。彼女こそ、僕の傍にふさわしい」
(ああ、ようやく終わったのね)
私は静かに息を吐いた。五年間。気の遠くなるような五年間、私はこの方の婚約者として仕えてきた。
「……かしこまりました、殿下」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。震えも、涙も出てこない。むしろ、長い長い牢獄からようやく解放される——そんな安堵が胸に広がっていた。
左手の薬指から、婚約の証である銀の指輪を外す。青い宝石が、シャンデリアの光を受けてきらりと瞬いた。
「五年間、お世話になりました」
深々と一礼する。完璧な角度で、完璧な所作で。これだけは、誰にも文句を言わせない自信があった。
「……それだけか?」
エドワード殿下が、どこか物足りなさそうに眉をひそめる。泣いて縋りつくとでも思っていたのだろうか。
(何を期待していたのかしら。貴方のために流す涙など、とうの昔に枯れ果てましたのに)
「お幸せに」
それだけを告げて、私は踵を返した。
ざわめきが大きくなる。『あの地味な令嬢』『やはり無能だった』『殿下が可哀想』——聞こえてくる囁きの全てを、私は聞き流した。
「まあ、リーゼロッテ様は大人でいらっしゃいますこと。私にはとても真似できませんわ」
アメリア嬢の甘い声が背中に刺さる。計算し尽くされた憐れみの響きに、私は唇の端だけで笑った。
(ええ、貴女には真似できないでしょうね。だって貴女は——)
広間を出る直前、ふと視線を感じて振り返る。
——深い紫紺の瞳が、私を見つめていた。
漆黒の髪、彫りの深い端整な顔立ち。隣国ヴァルトシュタイン帝国の皇太子、アレクシス殿下。
三年前の舞踏会で、一度だけ言葉を交わしたことがある。あの時の穏やかな声を、私はまだ覚えていた。
しかし今は、立ち止まっている場合ではない。
私は軽く会釈だけをして、舞踏会の喧騒を後にした。
◇◇◇
控えの間で待っていたのは、侍女頭のハンナだった。
「お嬢様……」
彼女の鉄灰色の瞳が、珍しく揺れている。二十年間仕えてきた侍女頭が、こんな表情を見せるのは初めてだった。
「大丈夫よ、ハンナ」
私は微笑んだ。自分でも意外なほど、穏やかな笑みが浮かんだ。
「ようやく、終わったの」
「お嬢様は何も悪くありません!」
ハンナが声を荒らげる。「五年間、お嬢様がどれほど——」
「しっ」
私は人差し指を唇に当てた。壁に耳あり。王宮では、どこで誰が聞いているかわからない。
「帰りましょう。父上に報告しなければ」
(そして、ようやく眠れる)
七十二冊の業務記録。七カ国語の外交文書処理。財務不正の摘発三十二件。エドワード殿下の失態隠蔽、百二十七回。
全ては『婚約者として当然の務め』だった。誰にも語らず、誰にも気づかれず。
——それで、よかったのだ。
私はもう、あの場所に戻ることはない。胸元の古びたブローチ——母の形見を、そっと撫でた。
「行きましょう」
建国記念の花火が、夜空を彩り始めていた。
◇◇◇
馬車の中で、私は窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺めていた。
五年前のことを思い出す。十七歳の私が、第一王子の婚約者に選ばれた日のことを。
『ヴァイスハイト侯爵家の令嬢ならば、王子を支えられるだろう』
国王陛下はそう仰った。代々文官の名家として王国を支えてきた我が家への、信頼の証だと父は言った。
私は必死だった。
婚約者として恥じないよう、徹夜で外交文書を処理した。七カ国語——ローゼンクライツ語、ヴァルトシュタイン語、ヴェルムント語、聖教会公用語、東方商業語、北方諸国語、南方諸国語。全てを習得し、各国からの書簡を翻訳し続けた。
『記憶の祝福』——一度見た文書は一字一句忘れない、母から受け継いだ力。それを駆使して、私は王国の外交を水面下で支えた。
思い出すのは、三年前のある夜のこと。
エドワード殿下が酒宴の席で、ヴァルトシュタイン帝国の使節団に対し「貴国の料理は犬の餌のようだ」と放言した。使節団の顔色が変わり、広間の空気が凍りついた。
——あの瞬間、私の頭の中で無数の選択肢が駆け巡った。
「殿下、先日お読みになった『ヴァルトシュタイン宮廷料理考』の一節を思い出されたのですね」
咄嗟に口を挟んだ。そんな本は存在しない。しかし私は、まるでその本が実在するかのように語り続けた。
「あの書物には、ヴァルトシュタイン料理の素朴さこそが、質実剛健な帝国気質の表れであると記されておりました。殿下は、その気高き精神性を称えておられるのです」
使節団の表情が、わずかに和らぐ。私はさらに続けた。
「『犬の餌のよう』とは、すなわち飾り気のない実直さの比喩。我が国の詩歌では、犬は忠誠と誠実の象徴ですから」
完全な詭弁だった。しかし使節団長は、曖昧に頷いた。外交の場では、相手に逃げ道を与えることも重要なのだ。
あの夜、私は徹夜で詫び状を起草し、ヴァルトシュタイン帝国への贈答品の手配を整えた。エドワード殿下は何も知らない。翌朝も変わらず、優雅に朝食を取っていた。
——これが、百二十七回のうちの一つ。
財務不正の摘発は、偶然から始まった。
ある日、財務大臣オスカー・ヴェルナー卿の報告書に、私の『記憶の祝福』が違和感を訴えた。数字が合わない。わずかな誤差だが、確実に何かがおかしい。
三ヶ月かけて、密かに調査を進めた。結果、三十二件もの横領と不正会計が浮かび上がった。
私は証拠を揃え、王の側近に匿名で告発状を送った。自分の名前は出さなかった。出せなかった。
(女のくせに出過ぎた真似を)
そう言われることが、目に見えていたから。
「お嬢様」
ハンナの声で、我に返った。
「お屋敷に着きました」
馬車を降りると、父が玄関で待っていた。白髪交じりの茶髪、私と同じ灰銀の瞳。寡黙な父は、ただ一言だけ告げた。
「お前の価値がわからぬ者の傍にいる必要はない」
涙が出そうになった。けれど、私は微笑んだ。
「はい、父上」
「辺境のヴァイスハイト領へ行け。あそこならば、お前は自由だ」
追放ではない。これは、父なりの保護だった。王宮の毒から、私を遠ざけるための。
「かしこまりました」
私は深々と頭を下げた。
明日から、新しい日々が始まる。もう徹夜で外交文書を処理する必要はない。誰かの失態を取り繕う必要もない。
(ようやく、眠れる)
それだけが、今の私の願いだった。
しかし私はまだ知らなかった。私が去った王宮で、どれほどの崩壊が始まろうとしているのかを。
——そして、私を待つ者がいることも。
◇◇◇
リーゼロッテ・ヴァイスハイトが王宮を去って、一週間が経った。
「これは……どういうことだ!」
外務卿の悲鳴が、王宮の廊下に響き渡った。
ヴァルトシュタイン帝国からの親書——その翻訳文が、とんでもない誤訳だらけだったのだ。
『友好の証として』が『敵対の宣言として』に。『両国の繁栄を願い』が『両国の滅亡を願い』に。
「誰だ、この翻訳をしたのは!」
「は、はい……宮廷翻訳官のベルント殿が……」
「馬鹿者! こんなものを帝国に返書として送ったら、戦争になるぞ!」
外務卿は頭を抱えた。以前はこんなことはなかった。外交文書は、いつも完璧に処理されていたはずだ。
——いったい、誰が処理していたのか。
誰も、その答えを知らなかった。
同じ頃、財務省でも異変が起きていた。
「帳簿が合わない……」
財務官が青ざめた顔で報告する。
「三年前からの記録を精査したところ、多数の不整合が発見されました。隠蔽されていた不正が、次々と……」
財務大臣オスカー・ヴェルナーは、額に脂汗を浮かべていた。
(あの小娘が消えたのに、なぜ今になって……!)
リーゼロッテが在籍していた頃は、不思議と不正が発覚することはなかった。いや、正確には——発覚しても、証拠が揃う前に対処できていた。
彼女が何かをしていた。そのことに、オスカーは薄々気づいていた。
しかし今、彼女はいない。そして、彼女が残した『何か』が、堰を切ったように噴出し始めていた。
エドワード王子の執務室では、別の問題が発生していた。
「殿下、南方諸国からの使節団が参りましたが……」
「ああ、通せ」
エドワードは優雅に紅茶を啜りながら答えた。傍らにはアメリアが座り、彼の腕にしなだれかかっている。
「殿下、あの……使節団の言語は南方諸国語でして……通訳が必要なのですが……」
「通訳? いつもの者を呼べばいいだろう」
「それが、以前通訳を務めていた方が……」
誰だったか。いつも、誰かが自然と対応していた気がする。地味で、存在感のない、誰かが。
「……リーゼロッテ様でした」
「は?」
エドワードは眉をひそめた。
「あの女が? 馬鹿を言うな、あんな無能な女に通訳など——」
「リーゼロッテ様は七カ国語を操られました。南方諸国語も、流暢に……」
沈黙が落ちた。
アメリアが小首を傾げる。「まあ、七カ国語? そんなこと、私にはとてもできませんわ」
「当然だよ、アメリア。君は可憐であればいい」
エドワードは彼女の頬を撫でた。しかし、その表情にはわずかな翳りがあった。
王の側近、ヴィルヘルム伯爵が調査を開始したのは、混乱が決定的になった十日目のことだった。
「リーゼロッテ嬢の元執務室を調べろ」
彼女が使っていた小さな部屋——王子の執務室の隅にある、目立たない一室。そこから発見されたのは、七十一冊の業務記録だった。
「これは……」
ヴィルヘルム伯爵は、最初の一冊を開いて絶句した。
外交文書の処理記録。翻訳の原文と訳文、対応の経緯、各国大使の性格分析、注意すべき文化的差異——全てが、恐ろしいほど緻密に記されていた。
二冊目は財務記録。不正の摘発過程、証拠の整理方法、告発状の下書き。
三冊目は——王子の失態とその対処法。日付、状況、どう対応したか。百二十七件全てが、克明に。
「五年間……彼女一人で、これだけのことを……」
ヴィルヘルム伯爵の手が震えた。
「なぜ、誰も気づかなかった……」
いや、気づこうとしなかったのだ。地味で控えめな令嬢。『無能』の烙印を押された婚約者。誰も彼女を見ていなかった。
——彼女の価値を、最初から見抜いていた者が、一人だけいたことを除いて。
◇◇◇
辺境ヴァイスハイト領は、王都から馬車で五日の距離にあった。
荒れた土地だと聞いていた。先代領主が亡くなって以来、まともな管理がされていないと。
しかし馬車の窓から見える景色は、思ったほど荒廃してはいなかった。むしろ、素朴で穏やかな田園風景が広がっている。
(ここで、静かに暮らせる)
私は小さく息を吐いた。もう外交文書に追われることはない。王子の失態を取り繕う必要もない。ただ、この土地を少しずつ立て直していけばいい。
「お嬢様、領主館に着きました」
ハンナの声で、私は馬車を降りた。
古びた、しかし堅牢な石造りの館。玄関には使用人たちが整列して待っていた。私を迎えるために。
——そして、その中に。
「お待ちしておりました、リーゼロッテ嬢」
深い紫紺の瞳が、私を見つめていた。
漆黒の髪、彫りの深い端整な顔立ち。舞踏会の夜に見た、あの——
「アレクシス殿下……?」
ヴァルトシュタイン帝国皇太子。なぜ、このような辺境に。
「驚かせてしまいましたか」
彼は穏やかに微笑んだ。氷帝の血筋と畏怖される皇太子とは思えない、温かな笑みだった。
「貴女の父君から、お許しをいただきました。貴女にお話ししたいことがあると」
領主館の応接室で、私たちは向かい合って座っていた。
ハンナが紅茶を淹れ、静かに退室する。彼女の視線が、珍しく心配そうだった。
「突然のことで、困惑されているでしょう」
アレクシス殿下が口を開いた。
「いえ……ただ、なぜ殿下が私のような者に……」
「『私のような者』」
彼は静かに繰り返した。その紫紺の瞳に、わずかな憂いが浮かぶ。
「貴女は、いつもそう仰る」
「……は?」
「三年前の舞踏会でも。貴女は『私程度の者が』と謙遜された」
三年前。あの夜のことを、この方は覚えているのだろうか。
「私は見ていました」
アレクシス殿下が、静かに語り始めた。
「あの夜、エドワード王子が我が国の使節団に暴言を吐いた時。貴女が咄嗟に割って入り、見事な詭弁で場を収めたことを」
私は息を呑んだ。
「そして、その夜のうちに——貴女が私の元に、密かに詫び状と和解の提案を届けたことも」
「……ご存知だったのですか」
「届けたのは匿名の使者でしたが、あの文面を書けるのは貴女しかいなかった」
彼の声は穏やかだが、どこか熱を帯びていた。
「貴女は知らないかもしれませんが、あの夜の暴言は、一歩間違えれば戦争の口実になり得た。両国間の緊張は、当時極限まで高まっていたのです」
「……」
「貴女が阻止したのです。戦争を。数万の命を。たった一晩で」
私は言葉を失った。
ただ、婚約者としての務めを果たしただけ。そう思っていた。戦争など、大げさな——
「あの時から、私は貴女を見ていました」
アレクシス殿下が、身を乗り出した。
「七カ国語を操り、各国の大使と渡り合う姿を。財務の不正を密かに摘発する手腕を。そして——誰にも認められず、それでも黙々と王国を支え続ける、その気高さを」
彼の紫紺の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「貴女の真価を見抜けなかった愚か者の元にいる必要はない」
父と同じ言葉。しかし、その響きは全く違っていた。
「私の元に来てください、リーゼロッテ嬢」
私は、何と答えればいいのかわからなかった。
五年間、ただ尽くすことだけを考えてきた。見返りなど求めなかった。認められたいとも思わなかった。
それなのに——この方は、最初から見ていたという。私の価値を、誰よりも早く、誰よりも正確に見抜いていたと。
「……殿下は、私を買いかぶっておられます」
声が震えた。
「私は、ただ——」
「『ただ』ではない」
アレクシス殿下が、静かに遮った。
「七十一冊の業務記録。外交危機の回避。財務不正の摘発。王子の失態隠蔽百二十七回。それを五年間、誰にも語らず、誰にも認められず続けた。それが『ただ』であるものか」
「なぜ、そこまでご存知……」
「貴女が王宮を去った後、調査が始まりました。貴女の貢献の全容が、ようやく明らかになりつつある」
彼は苦い笑みを浮かべた。
「遅すぎる話ですが」
窓の外では、夕日が辺境の丘を染め上げていた。
アレクシス殿下は、紅茶のカップを置いて立ち上がった。
「今日のところは、これで失礼します。急な話でしたから、お考えいただく時間が必要でしょう」
「殿下……」
「私は待ちます」
彼は振り返り、微笑んだ。冷厳な皇太子とは思えない、柔らかな笑み。
「三年間待ったのです。もう少しくらい、待てます」
そう言い残して、彼は去っていった。
私は一人、応接室に残された。
胸の奥で、何かが震えていた。五年間、凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け始めているような——
「お嬢様」
ハンナが戻ってきた。その目元が、少し赤い。
「あの方は、本物です」
「……ハンナ?」
「お嬢様の価値を、わかっておられる」
侍女頭は、珍しく敬語を崩した。
「ようやく……ようやく、お嬢様にふさわしい方が現れたのです」
私は何も言えなかった。
ただ、母の形見のブローチを、そっと握りしめた。
◇◇◇
それから三ヶ月が経った。
「お嬢様、北の農地の収穫報告が届きました」
領地の執事が、嬉しそうに書類を差し出した。
「今期の小麦の収穫量、昨年の三倍です!」
私は書類に目を通し、小さく頷いた。
「灌漑水路の整備が効いたのね。来期は南の農地にも同じ方式を導入しましょう」
「かしこまりました!」
執事が駆け去っていく。その背中を見送りながら、私は窓の外に目を向けた。
三ヶ月前は荒れ地だった場所に、今は青々とした畑が広がっている。
私がしたことは、単純だった。土地の状態を調べ、適切な作物を選び、灌漑を整備し、農民たちに技術を教えた。王宮で学んだ知識を、実際に活かしただけ。
「リーゼロッテ」
背後から声がかかる。この三ヶ月で、すっかり聞き慣れた声。
「アレクシス殿下」
振り返ると、黒髪の皇太子が穏やかに微笑んでいた。彼は定期的にこの領地を訪れ、私の領地経営を見守っていた。
「素晴らしい成果ですね」
「いえ、まだまだです。商業路の整備も必要ですし、教育施設も——」
「貴女は本当に、働き者だ」
彼が苦笑する。
「少しは休んでください。私は貴女の能力を買っていますが、身体を壊されては困る」
(この方は、いつも私を気遣ってくださる)
五年間、そんな言葉をかけてくれる人はいなかった。徹夜で仕事をしても、『当然だ』と言われるだけだった。
「……ありがとうございます」
素直に礼を言えるようになったのは、いつからだろう。
◇◇◇
一方、王都ローゼンクライツでは——
「な、何だこれは!」
エドワード王子が書簡を床に叩きつけた。
「ヴェルムント公国が同盟を破棄? 南方諸国が通商条約の見直しを要求? 北方との国境で小競り合い?」
次々と舞い込む悪報に、執務室は騒然としていた。
「殿下、外務卿が倒れました」
「財務省で新たな不正が発覚しました」
「ヴァルトシュタイン帝国からの親書の翻訳が、また間違っていたと……」
「うるさい! 黙れ!」
エドワードは頭を抱えた。
何もかもがうまくいかない。以前は、こんなことはなかったはずだ。全てが滞りなく回っていた。誰かが——誰かが処理していた。
「エドワード様……」
アメリアが涙ぐんだ声で縋りつく。
「こんな難しいこと、私にはわかりませんわ……どうか、私を守ってくださいまし……」
「ああ、アメリア。心配しなくていい。僕がなんとかする」
そう言いながら、エドワードの顔色は蒼白だった。
(なんとかする? どうやって?)
彼は何も知らなかった。外交文書の処理方法も、財務帳簿の読み方も、各国大使との交渉術も。全ては、あの地味な婚約者が——
「……リーゼロッテ」
初めて、彼女の名を呼んだ。
「殿下、大変です!」
側近が血相を変えて飛び込んできた。
「アメリア嬢の正体が判明しました! 彼女は——」
「何?」
「ヴェルムント公国の密偵です! 本名も身分も、全て偽りでした!」
エドワードは凍りついた。
アメリアを見る。彼女は——笑っていた。あの可憐な微笑みではなく、冷たい嘲笑を浮かべて。
「あら、バレてしまったの」
声まで変わっていた。甘く媚びた声ではなく、氷のように硬質な響き。
「たかが無能な令嬢一人消えただけで、こんなにも脆いなんて」
彼女は嗤った。
「この国は、最初から終わっていたのよ」
衛兵たちがアメリアを取り押さえる。彼女は抵抗もせず、ただ嗤い続けていた。
「リーゼロッテ・ヴァイスハイト。あの女さえいなければ、私の任務はもっと簡単だったのに。あの女が消えた途端、こうして全てが崩れていく」
最後に、彼女はエドワードを見た。
「王子様、貴方は本当に愚かだった。貴方の傍にいた、本当の宝物の価値も知らずに」
アメリアが連行された後、エドワードは一人、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
(僕は……何をしていたんだ……)
五年間。地味で退屈だと思っていた婚約者。彼女が何をしていたか、考えたこともなかった。
七カ国語を操り、外交を支え、不正を摘発し、自分の失態を取り繕い——それら全てを、『婚約者として当然』と言って、誰にも語らなかった。
そんな女性を、『無能』と断じて切り捨てた。
「……リーゼロッテ」
今更、彼女の名を呼んでも遅い。
遅すぎる。
数日後、エドワードは辺境に向かう馬車の中にいた。
(謝ろう。許しを請おう。戻ってきてくれと頼もう)
彼女なしでは、何もできない。それがようやくわかった。
遅すぎたとしても——まだ間に合うかもしれない。そう信じて、彼は辺境を目指した。
王国の衰退を、その背後に残して。
◇◇◇
その日、私は領主館の庭で薔薇の手入れをしていた。
辺境の気候に合う品種を選び、土を改良し、三ヶ月かけて育てた薔薇たちが、ようやく花をつけ始めていた。淡い桃色の花弁が、午後の日差しに輝いている。
「お嬢様、お客様です」
ハンナの声に、私は顔を上げた。
「アレクシス殿下?」
「いいえ……」
ハンナの表情が曇る。珍しいことだった。
「エドワード殿下が、お見えです」
私の手が、一瞬止まった。
応接室に入ると、エドワード殿下が立っていた。
——以前とは、まるで別人のようだった。
あの輝くような金髪は色褪せ、碧眼は落ち窪み、頬はこけている。華美な衣装を纏っているはずなのに、どこかみすぼらしく見えた。
「リーゼロッテ」
彼が私の名を呼んだ。五年間の婚約期間中、彼が私の名を呼んだことは、数えるほどしかなかった。
「エドワード殿下。お久しぶりでございます」
私は型通りの礼をした。心は、驚くほど凪いでいた。
「座ってくれ。いや、僕が座るべきか……」
彼は落ち着きなく、視線を彷徨わせている。かつての傲慢な王子は、どこにもいなかった。
「リーゼロッテ、僕は……僕は謝りに来たんだ」
「謝罪、でございますか」
「君のことを、無能だと思っていた。退屈だと。でも違った。君は——君こそが、王国を支えていたんだ」
彼の声が震えている。
「七十一冊の記録を見た。君がどれだけのことをしてきたか、ようやくわかった。外交も、財務も、僕の失態も——全部、君が……」
「お気づきになられましたか」
私は静かに答えた。
「五年かかりましたね」
「……っ」
エドワード殿下が、顔を歪める。
「わかっている。遅すぎたことは。でも、まだ間に合う。戻ってきてくれ、リーゼロッテ」
彼が膝をついた。かつての高慢な王子が、私の前に跪いている。
「君がいなければ、僕は何もできない。王国も、僕も、崩壊する。頼む、戻ってきてくれ」
私は、しばらく彼を見下ろしていた。
五年前、この場面を夢見たことがある。殿下が私の価値を認め、頭を下げる日を。
でも今は——何も感じなかった。
喜びも、勝利感も、復讐の快感すらない。ただ、虚しさだけが胸に広がっていた。
「殿下」
私は静かに口を開いた。
「もう遅いのです」
「なっ——」
「私は五年間、お傍におりました」
声は震えなかった。もう、震える理由がなかった。
「五年間、毎日のようにお会いしておりました。その五年間で気づかなかった方が、今更何を仰るのですか」
エドワード殿下の顔色が、さらに蒼白になる。
「待ってくれ、リーゼロッテ。僕は変わる。今度こそ、君を大切にする。だから——」
「殿下」
私は遮った。
「私が欲しかったのは、感謝でも謝罪でもありませんでした」
「……何?」
「ただ——見ていてほしかった。それだけでした」
五年間の献身。誰にも語らず、誰にも認められず。
私はそれでいいと思っていた。でも本当は——ほんの少しでいいから、気づいてほしかった。『ありがとう』と言ってほしかった。
そんな簡単なことすら、この人にはできなかった。
「私程度の者でも、見てくれる方はおりました」
「——誰だ」
「アレクシス殿下」
名前を出した途端、エドワード殿下の顔が歪んだ。
「あの男か……! あの男が、君を……!」
「殿下、誤解なさらないでください」
私は冷静に告げた。
「アレクシス殿下は三年前から、私を見ていてくださいました。私が何をしてきたか、全てご存知でした。それでも——いえ、だからこそ、私を迎えたいと仰ってくださいました」
その時、応接室の扉が開いた。
「リーゼロッテ」
黒髪の皇太子が、静かに入ってきた。その紫紺の瞳が、一瞬だけ鋭くエドワードを射抜き、すぐに私に向けられた。
「大丈夫ですか」
「ええ、アレクシス殿下」
私は微笑んだ。自分でも驚くほど、自然な笑みだった。
「お前……!」
エドワード殿下が立ち上がる。
「リーゼロッテを返せ! 彼女は僕の——」
「貴方の、何です?」
アレクシス殿下が、静かに問いかけた。
「婚約者? それは貴方自身が破棄した。臣下? 彼女はヴァイスハイト侯爵令嬢であり、貴方の所有物ではない」
「……っ」
「彼女の価値を知る者の元にいるべきだ」
アレクシス殿下が、私の傍に立った。その存在だけで、不思議な安心感があった。
「そして私は——」
彼が私を見た。冷厳な皇太子の仮面が解け、穏やかな微笑みが浮かぶ。
「彼女を、世界で一番幸せにする自信がある」
エドワード殿下は、何も言えなかった。
ただ立ち尽くし、私とアレクシス殿下を交互に見つめ、やがて——崩れ落ちるように肩を落とした。
「……僕は、馬鹿だった」
「ええ」
私は頷いた。
「愚かでした、殿下」
容赦のない言葉だったかもしれない。でも、もう優しくする理由がなかった。
「お帰りください、殿下。私はもう、あの場所には戻りません」
エドワード殿下が、ゆっくりと踵を返す。
応接室を出る直前、彼は振り返った。
「……幸せに、なれよ」
絞り出すような声だった。
「今度こそ——報われる場所で」
私は何も答えなかった。ただ、静かに一礼しただけだった。
彼が去った後、アレクシス殿下が私の手を取った。
「よく言えましたね」
「……ずっと、言いたかったのかもしれません」
私の声が、少し震えた。
「五年間の献身が、ようやく——」
「終わったのです」
アレクシス殿下が、私の言葉を引き継いだ。
「もう、終わりでいい。これからは——」
彼が私の髪をそっと撫でた。
「私が、貴女を幸せにします」
涙が、頬を伝った。
五年間、泣かなかった。泣く理由がないと思っていた。でも本当は——ずっと、泣きたかったのかもしれない。
「はい」
私は頷いた。
「はい——アレクシス」
初めて、彼を名前で呼んだ。
◇◇◇
一年後——
ヴァルトシュタイン帝国皇太子妃の執務室には、朝の光が柔らかく差し込んでいた。
私は窓辺に立ち、庭園を眺めていた。帝国の薔薇園は、ローゼンクライツ王国のそれとは比べものにならないほど壮麗だった。
「リーゼロッテ」
背後から腕が回される。温かな体温と、馴染みのある香り。
「おはよう、アレクシス」
「おはよう。よく眠れましたか」
「ええ、おかげさまで」
私は微笑んだ。毎朝、彼はこうして私を起こしに来る。皇太子の激務の合間を縫って、必ず。
「今日の予定は?」
「午前中は西方諸国との通商交渉、午後は北方使節団の歓迎式典です」
「……相変わらず、働き者だ」
アレクシスが苦笑する。
「少しは休んでください、と何度言えば——」
「これは休憩のようなものよ」
私は彼の腕の中で振り返った。
「好きでやっていることですから」
帝国での私は、皇太子妃としてだけでなく、外交顧問としても活動していた。七カ国語の能力と、王宮での経験が、ここでは正当に評価されている。
「貴女の能力は、帝国の宝です」
アレクシスが私の髪を撫でた。
「そして——私の宝でもある」
「大げさね」
「本心です」
彼が私の額に口づける。
一年前、私はこの人に求婚された。正式な儀式の場で、各国の大使が見守る中で。
『私は彼女を、世界で一番幸せにします』
その言葉通り、彼は私を溺愛してくれた。
「お嬢様——いえ、皇太子妃殿下」
ハンナが入ってきた。彼女も私と共に帝国に移り、今は筆頭侍女として仕えている。
「ローゼンクライツ王国から、新しい報告が届いております」
「……何かしら」
「エドワード元王子の廃嫡が、正式に決定したそうです」
私は、静かにティーカップを置いた。
一年間で、ローゼンクライツ王国は大きく変わった。
アメリアの正体発覚後、内通者の調査が進み、財務大臣オスカー・ヴェルナーを含む多くの貴族が処刑された。外交関係は悪化し、経済は低迷し、民の不満が高まった。
エドワード王子は、その全ての責任を問われた。婚約破棄が国難の引き金になったと——今更ながら、世間は気づいたのだ。
「第二王子が次期国王に内定したとのことです。エドワード元王子は、王都から追放され、辺境の修道院に入るそうです」
「……そう」
因果応報という言葉が、頭をよぎった。
私を『無能』と断じて追放した人が、今度は自分が追放される。かつて私を『退屈』と切り捨てた人が、今度は自分が世間から忘れ去られる。
——けれど、不思議と喜びは湧かなかった。
「哀れな話ですわ」
ハンナが呟いた。
「お嬢様の価値を、最初からわかっていれば——」
「もういいの、ハンナ」
私は窓の外に目を向けた。
帝国の空は、今日も澄んでいる。
「あの方のことは、もう——」
「リーゼロッテ」
アレクシスの声で、私は我に返った。
「過去のことを考えていましたか」
「……少しだけ」
「辛い記憶を?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ただ——終わったのだと、実感していたの」
五年間の献身。認められなかった日々。理不尽な婚約破棄。
全てが、遠い過去のことのように思える。
「貴女は十分に報われました」
アレクシスが私の手を取った。
「そしてこれからも——私が貴女を幸せにし続けます」
「知っているわ」
私は微笑んだ。
「貴方はいつも、約束を守ってくれるから」
◇◇◇
夕暮れ時、私は一人で庭園を歩いていた。
母の形見のブローチを、胸元に感じる。古びた、地味なブローチ。でも私にとっては、何よりも大切なもの。
(お母様)
心の中で呼びかける。
(私、幸せになれましたよ)
遠くで、夕日が沈んでいく。ローゼンクライツ王国がある方角——もう、見ることのない故郷の空。
振り返ろうか、と一瞬だけ思った。
でも、足は止まらなかった。
私の居場所は、もうあそこにはない。私を見てくれなかった場所には、何も残っていない。
「リーゼロッテ」
背後から、アレクシスの声がした。
「待っていますよ、夕食の時間です」
私は振り返った——彼の方を。
「今行くわ」
彼の元へ歩み寄りながら、私は微笑んだ。
穏やかな日々。正当に評価される喜び。愛されている実感。
五年間求めて、得られなかったもの全てが、ここにはある。
私はもう、振り返らない。
過去には、何も残していない。
後悔も、未練も、恨みすらも——全て、置いてきた。
「アレクシス」
彼の手を取る。
「明日の通商交渉、一緒に出席してくれる?」
「もちろん。貴女の七カ国語の交渉術を、間近で見られる機会ですからね」
「大げさね」
「本心です」
二人で、食堂へ向かう。
西の空には、最後の茜色が残っていた。ローゼンクライツ王国の方角に沈む夕日。
私はもう、見なかった。
——これからの日々を、見つめていた。
【完】




