第4話 対話
ギルドの喧騒は、いつも通りだった。
依頼達成の報告を終えた冒険者たちが酒場へ流れ、受付前では次の仕事を探す新人たちが言葉を交わしている。
俺たちが森で遭遇した闇の精霊のことなど、誰もしらずに。
――狼型魔物の討伐、完了。
それが、公式な結果だった。
だが、俺の中では、何ひとつ終わっていなかった。
闇の精霊の持つ、圧倒的な存在感。そして、明確な意思。
魔物でも、倒すべき敵でもない。ただ、そこに在る存在。
「……」
家へ戻る途中、俺は足を止めた。街の外れ、森へ続く道の方を見つめる。
このまま、知らなかったふりをして生きることもできる。
ギルドの依頼だけをこなし、荷物持ちとして経験を積み、いつか魔導士として最低限の居場所を得る。
それが、無難な選択だ。
――でも。
あの精霊は、今も森の奥にいる。誰にも知られず、理解もされず。
もし次に、別のパーティが踏み込んだら?
力ずくで刺激すれば、今度は本当に死人が出るかもしれない。
「……対話、か」
自分で口にして、苦笑した。
魔力量最低ランクの新人魔導士が、精霊と話し合おうなんて。
無茶もいいところだ。
それでも――
あの場で感じた確信が、胸から離れなかった。
俺なら、できるかもしれない。
知識がある。対話に必要な呪文も、方法も知っている。そして何より、あの存在は、話を聞く意思を持っているように見えた。
決意が、静かに固まる。
俺は踵を返し、宿へ戻る道から外れた。街を抜け、再び森へ向かう。
「……ほんと、無茶だな」
自嘲しながら、魔導書を抱え直す。
そのときだった。
「リオン、どこ行くんだい」
背後から、聞き覚えのある声。振り返ると、弓を肩にかけたエルフが立っていた。先程の任務を共にした彼女だった。
「……森へ」
「やっぱりね」
「……気づいてたんですか」
「そりゃね。アンタ、顔に出やすい」
エルフは肩をすくめる。
「他の魔物に襲われたら困るだろ?」
「それに……」
一拍置いて、続けた。
「さっきの話、私も気になってる」
それ以上、理由は語らなかった。彼女から、ついていくと言う確固たる意思を感じる。
俺は少し迷ってから、頭を下げた。
「……助かります」
「さっきの恩があるし、気にするんじゃないよ」
そう言って、彼女は先に歩き出す。俺も、その背中を追った。
こうして俺は、もう一度森へ向かう。剣も、派手な魔法も持たずに。
ただ――
精霊と話すために。
森の奥へ進むにつれ、空気が冷たく、重くなっていく。
木々のざわめきが遠のき、音そのものが削ぎ落とされていく感覚。
「……ここから先だね」
エルフが足を止め、小声で言った。俺も頷き、魔導書を胸に引き寄せる。
闇の魔力を、はっきりと感じる。黒い霧のようなものが、木々の間に溜まり、ゆっくりと形を成す。昼間に見た、あの漆黒の塊――闇の精霊。
喉が鳴る。それでも、逃げずに地面を踏み締める。
精霊は動かない。しかし、はっきりとこちらを見ている。
俺は一歩前に出て、ゆっくりと対話の呪文を詠唱した。慎重に、一語一句間違えぬよう。
詠唱を済ませると、俺は口を開いた。
「……ここは、あなたの縄張りですね」
声が、震えなかったことに自分で驚いた。返事はない。だが、闇の揺らぎが、ほんのわずかに変化する。
――聞いている。
「俺たちは、知らずに踏み込みました」
「ですが、目的は魔物の討伐だけでした。あなたを害するつもりはありません」
敵意を持たず、干渉もせず、存在を示すだけ。闇が、ゆっくりと縮んでゆく。
頭の中に、直接響く感覚があった。
――侵入者。
――騒がしい。
――だが、害意はない。
言葉ではない。
意味だけが、流れ込んでくる。
「……はい。もう、仲間は来ません」
精霊の圧が、わずかに和らいだ。
「この森を守りたいだけなら、俺たちは二度と近づかない」
「その代わり……人里には、近づかないでほしい」
一瞬、闇が膨らむ。
拒絶かと思った、その直後――
――境界を、守る。
――侵すなら、排除する。
――これ以上奥には、入るな。
それだけを残し、闇の精霊は、霧のように薄れていき、完全に消えた。
しばらく、俺はその場から動けなかった。
「……はぁ」
背後から、長いため息。
「正気じゃないね、アンタ」
振り返ると、エルフが呆れたように立っていた。
「魔力量最低ランクの新人が、精霊と交渉ねぇ……」
彼女は、はっきりと俺の目を見てもう一言、
「アンタ、自分がどれだけ異質かわかってる?」
言葉に詰まる。
「魔力が少ないのに精霊と会話できて、力でも経験でもなく、ちゃんと理論で立ち回る。まるで学者ね」
胸が、強く脈打つ。
「精霊や魔力の在り方を読む側の人間。ギルドじゃ評価されにくいだろうけど……」
そこで、少しだけ笑った。
「アタシは嫌いじゃないよ。そういうの」
夜の森に、静寂が戻る。俺は魔導書を閉じ、深く息を吐いた。
今日、確かにやり遂げた。まだ名前もない、俺の役割を。
それが何なのかは、まだわからなくて良い。




