【孫策と呉王朝の後世評】
【孫策 伯符】
呉王朝の初代皇帝。
揚州 呉郡の小豪族であった孫堅の長男として、175年に誕生。
幼少の頃より才気にあふれ、英邁闊達との評を得ていた。
18歳で父 孫堅を失うも、後に袁術の傘下に加わり、武功を重ねはじめる。
やがて揚州刺史 劉繇との戦いに乗り出し、195年に勝利して江東に地盤を築いた。
その後、袁術と袂を分かつも、198年には揚州の大部分を制して、”江東の小覇王”と呼ばれる。
この頃、献帝を擁する曹操と接近し、会稽太守、討逆将軍の官職を得た。
また199年に廬江の皖城を攻めた際、後の皇后となる大橋と出会い、彼女をめとっている。
200年には揚州、荊州の大部分を支配する一大群雄となり、朝廷から荊州牧、安南将軍に任じられる。
後に益州をも支配し、3州をよく治めた功績によって、205年に呉王に封ぜられた。
さらに交州も傘下に加わり、”華南の覇王”と呼ばれる一大勢力にのし上がる。
以後、曹操との緊張が高まる中、華南の統治を固めつつ、軍備を拡充していった。
やがて華北を制した曹操から言いがかりをつけられ、それに対抗する形で208年に開戦。
当初は襄陽を中心に激しい戦いを繰り広げたが、やがて華北で反乱を誘発させると、逆襲に討って出た。
翌年には冀州の鄴城まで攻め寄せ、曹操のだまし討ちに遭うもこれを撃退。
さらにその晩に現れた光帯が、孫策を祝福する瑞兆と見られ、献帝が禅譲を決意したという。
禅譲を受けた半年後には呉王朝を創設し、皇帝に即位した。
その後、西暦240年に逝去するまで、様々な改革を行い、後世では呉の聖祖 明武帝と呼ばれている。
橋皇后との間に2男2女をもうけ、嫡男の孫紹が2代皇帝となった。
【呉王朝について】
西暦209年に、孫策が開いた古代中国の王朝。
基本的に後漢の版図、制度を引き継いだが、建業を首都とする、初の江南中心の中華帝国となった。
支配体制は漢と同様に郡県制と封建制を組み合わせたもので、皇族を各地に封じて重しとした。
北方の国境では侮られない程度の軍備を維持しつつ、遊牧民に宥和的な政策を取ったため、漢代よりも安定をみた。
華南でも異民族の同化政策を進めており、やはり治安が良かったという。
また不要な工事や外征を慎んだため、ほとんどの時期で豊かな財政を誇った。
その豊富な資金を国内の物流網、インフラの整備に投じることによって、商業の活性化を推進。
古代中国としては異例なほどの重商政策を取ったことにより、大きな経済成長を遂げている。
その一方で孫策は、下層民の救済にも取り組んだため、”慈愛の皇帝”とも呼ばれ、絶大な人気を誇ったという。
これにより当時、進んでいたといわれる寒冷化にもかかわらず、呉王朝の人口は増大した。
その特異な成果により、”江南の奇跡”、”古代中国で最も成功した帝国”と呼ばれている。
後漢の制度に、優秀な諜報機関を組み合わせることにより、呉王朝は300年の永きに渡って平和と繁栄を謳歌した。
しかしその末期には外戚や宦官の不正、汚職によって弱体化し、最終的に北方の遊牧民族によって打倒されている。
前作でも、”外征はしないの? 残念” というコメントをいただきましたが、モンゴル族みたいな遊牧民ならいざ知らず、この時代の中華帝国が外征する意味は無いと考えてます。
前漢の武帝なんか、遠征を繰り返して最大の版図を得たはいいものの、国力をめっちゃ消耗して、人口は半減したらしいですからね。
それを知っていた孫策は内政に励み、むやみに外征しないような仕組みを作った、という想定です。
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