キアス城全域(フルスケール)鬼ごっこ ラスボスが仕掛けた生存競争
キアス・キャッスル 全域
図書館の肖像画の前で得た安息は、わずか一時間で終わりを告げた。
僕はアルヴィナ姉さまの「静かなる包囲網」を逆利用してエリス姉さまから逃れたが、エリス姉さまはすぐに僕の狡猾さに気づいた。彼女は、僕が「ルール」の隙間を狙っていることを理解し、そのルールを丸ごと書き換えた。
「ルーカス・ディ・キアス! サボり魔の称号を持つ者に、通常の訓練など不要だ! 今日から貴様は『キアス城サバイバル隊員』と呼ぶ!」
エリス姉さまは、巨大な砂時計を逆さまにすると、高らかに宣言した。
「隊員ルーカスの任務は、この城のどこかに隠れ、三十(分)私から逃げ切ること! 逃げ切れれば、今日一日は免除だ! 捕まれば……」
彼女はニヤリと笑った。
「今日の訓練は『アイアンクロー』耐久テスト百回追加だ!」
三十分だ。しかし、この城全域を舞台にした、騎士団見習い隊長との鬼ごっこ。
ドンッ!エリス姉さまが床を蹴り、訓練を開始した。彼女の騎士の血と訓練で培われた脚力は、僕の比ではない。
僕は慌てて、最も安全性が高いと計算したエリアへ向けて走り出した。エリス姉さまは速いが、僕はアルヴィナ姉さまが「病原菌の魔物」を恐れて徹底的に清掃させているルートを選ぶ。具体的には、調理場と食堂に続く、常に風魔法で空気清浄されている通路だ。エリス姉さまが埃っぽいルートを通ると、アルヴィナ姉さまの警報が発動し、動きが鈍るはずだ。僕は走りながら、魔力を足に集中させ、ギリギリの身体強化を使う。エリス姉さまの全力の動きを許さない程度に、僕も必死に動く。
僕は、食堂の巨大な食器棚の裏に身を潜めた。砂時計の砂はまだ半分以上残っている。「ルー! 隠れても無駄だ! 騎士の嗅覚は、獲物の怠惰の匂いを嗅ぎ分ける!」ガシャンッ!
背後で、食堂の重い椅子が数脚、豪快に吹き飛ばされた。エリス姉さまは、僕を捕まえるためなら、城の備品など気にしない。
僕は食器棚の裏から飛び出し、螺旋階段を駆け上がった。この螺旋階段はアルヴィナ姉さまのお気に入りの本が飾られた書庫に繋がっている。
危険な選択だ。
もしエリス姉さまが書庫を破壊したら、アルヴィナ姉さまの怒りが二人に降り注ぐ。だが、エリス姉さまは「歴史的冒涜」を恐れる。きっと書庫前では躊躇するはずだ。計算通り、書庫の入り口に辿り着いたエリス姉さまは、一瞬立ち止まった。
「くっ……! 姉さまの聖域か……!」
その一瞬の隙に、僕は書庫を駆け抜けた。
しかし、僕の策略は、新たな脅威を呼び覚ましてしまった。
僕とエリス姉さまが城内を高速で移動し、埃を巻き上げ、物を破壊し、そして何よりも静寂を破ったこと。それが、城の全ての階層に、最高度の「警報」を鳴らした。書庫の上、すなわち城の最上階から、アルヴィナ姉さまの魔力が、爆発的に拡散した。
それは、特定の場所を覆う『風の密室』ではない。城全体を包み込む、大規模な魔術だった。城の全ての窓や通路から、強烈な風が吹き荒れ始めた。それは、淀んだ空気を浄化し、病原菌を城外へと吹き飛ばす、アルヴィナ姉さまの『大浄化のハリケーン』だ。
僕が今いる螺旋階段は、強烈な向かい風と化した。
「な、なんだこれは!?」風の力で、僕は階段から引き戻されそうになる。しかし、これがアルヴィナ姉さまの風魔法である限り、僕への悪意はない。ただ、「安全のために、動くな」というメッセージなのだ。
僕は魔力を全身に巡らせ、風に抵抗しながら、階段を駆け下りた。
そして、僕を追ってきたエリス姉さまは、この風を新たな訓練と捉えた。「素晴らしい! 逆風突破訓練だ! ルー、貴様は風の抵抗を避けようとする! 僕は風の抵抗を力で押し切る!」
エリス姉さまは、その小さな体からは想像もできない膂力で、強風を体当たりで押し戻し、階段を駆け上がってきた。彼女の動きは一切衰えていない。
僕は風の力を借りて通路の角を滑り込み、一気に距離を稼いだ。アルヴィナ姉さまの風魔法は、あくまで「安全な空気の流れ」を意識している。僕は風を避けるのではなく、風の流れに乗る魔術師の知識を利用する。
僕が通路の曲がり角を曲がるたびに、風は僕を遠心力で押し出そうとする。僕はその力を制御し、滑空するように加速させた。ピューン!
エリス姉さまが、階段の踊り場から僕の姿を捉えた。
「ぐ、速い! 風を推進力に使っているのか! 狡猾な! しかし!」
エリス姉さまは、僕の追跡を再開した。僕が風に乗って滑空すれば、エリス姉さまは魔力を込めた脚力で、風を押し切って追ってくる。
砂時計の砂が残りわずかになった頃、僕は城の屋根裏の隅、最も風の力が弱まる場所で息を潜めた。全身は汗と埃と、そしてアルヴィナ姉さまの魔法による静電気でバチバチしている。
そして、チン、と小さな音が鳴った。
砂時計が、三十分の時を終えた。
その瞬間、エリス姉さまの荒々しい足音が止まった。
「……ぐぬぬぬ……逃げ切りだと!? まさか、この私が、サボり魔のルーに!」
エリス姉さまは歯軋りしながらも、約束通り、今日は訓練を諦めてくれた。僕は、ただ地面に倒れ込み、今日の勝利を噛みしめる。
だが、安堵は束の間だった。
ヒュウウウ……
倒れ込んでいる僕の周囲を、柔らかな風が優しく包んだ。そして、どこからともなく、アルヴィナ姉さまの声が響く。
「ルー。動かないで。すぐに私の元へ。あなたの心拍数が、異常な興奮状態を示しているわ。心身の健康を損なう刺激が強すぎる。次は、五時間かけて静かにお茶の歴史を学びましょう」
訓練からは逃れられたが、今度は知識の監禁が待っていた。
結局、キアス城での僕の生活は、逃げ場のない「訓練」と「過保護」という、二つの地獄のどちらかにいるしかないのだ。




