計算された安全地帯 過保護な監視カメラを逆利用せよ!
キアス・キャッスル 図書館
僕は、床に倒れ込みそうになる身体を無理やり引き上げ、図書館へと向かっていた。
身体強化は失敗した。むしろ、エリス姉さまは僕の抵抗を評価し、訓練のレベルを上げてきた。今や僕の訓練は「アイアンクロー耐性強化」という、もはや拷問と区別のつかないレベルだ。
物理で勝てないなら、知恵を使うしかない。
そして、僕の目の前には、世界で一番本を読む人、アルヴィナ姉さまがいる。彼女の過保護な監視は、通常は僕の自由を奪うが、その「過保護」の基準は、エリス姉さまの「訓練」の基準と真逆にある。
そうだ。彼女の静かな圧力こそが、エリス姉さまの物理的な圧力から僕を守るための唯一の防壁になる。
僕が図書館に入ると、案の定、中央の巨大な書架の隙間から、アルヴィナ姉さまの心配の視線が飛んできた。
「ルー? 珍しいわね、図書館に。でも、本棚の埃は吸わないように、ゆっくり息を吸うのよ。あと、本には古い病原菌が……」
アルヴィナ姉さまが風のバリアを準備する前に、僕は静かに、そしてゆっくりと、彼女の目の前にある**「キアス辺境伯家の歴代当主の肖像画」の真下に座り込んだ。
ここだ。この場所こそが、僕が計算した『計算された安全地帯』だ。
1. アルヴィナ姉さまの視界内、僕が安全かつ静かに過ごしていることを示す。
2. 埃が少ない場所、肖像画の前はメイドたちが頻繁に清掃するため、病原菌のリスクが低い。
3. 歴史的価値の高い場所、アルヴィナ姉さまが「刺激が強すぎる」と歴史を語り始める余地がない、むしろ彼女が最も尊重する場所。
僕は、目を閉じ、完全に無防備な体勢を取った。動かない。ダラダラする。そして、何よりも静かに。
「ルー、どうしたの? 具合が悪いの? もし疲れているなら、私がお菓子の歴史について語って、精神的にリラックスさせてあげるわよ?」
「……大丈夫だよ、姉さま。僕は今、歴代当主の『偉大なる静けさ』を学んでいるんだ」
僕は声を潜めた。動かない、静か、知的。アルヴィナ姉さまの「安心」のチェックリストを全て満たす行動だ。彼女は満足したように頷き、再び書架の検証に戻っていった。彼女の心配の魔力の糸は、僕を縛りつけるのではなく、ただ優しく包むように漂っている。
これで静かなる圧力からは一時的に解放された。
そして、数分後。
ドス!ドス!ドス!
荒々しい足音と共に、エリス姉さまが図書館に姿を現した。
「ルー! どこだ! 耐久訓練の途中だぞ! 逃げるな、騎士は諦めない!」
エリス姉さまは、僕がダラダラしている姿、特に静止している姿を見ると、猛烈に訓練への衝動に駆られる。
彼女は、肖像画の前に座り込んでいる僕を見つけた。
「おい、ルー! 何をしている! そんなところに座り込んで! 姿勢が悪いぞ! 訓練だ!」
彼女は僕の腕を掴もうと、一歩踏み出した。まさに、エリス姉さまの物理的な圧力が発動する寸前。
その時、静かなる圧力の防壁が発動した。
「エリス!」
アルヴィナ姉さまの冷たい声が響いた。それは、いつもの心配の声ではなく、図書館の秩序を乱す者への絶対的な命令だった。
エリス姉さまはピタリと動きを止めた。彼女の体が震えている。
「姉さま、こいつはサボっているんです! 騎士は常日頃から鍛錬を……」
「静かに! ルーカスは今、キアス家の歴史的価値を学ぶ、非常に重要な精神訓練をしているのよ。あなたのような荒々しい訓練は、彼の精神の集中を乱す。そして、この肖像画の前で暴れることは、歴代当主に対する冒涜よ」
アルヴィナ姉さまの理論武装は完璧だった。エリス姉さまは「物理的な暴力」は恐れないが、「歴史的冒涜」や「姉さまの命令」には弱い。
エリス姉さまは唸り声をあげ、僕の訓練を強行したい衝動と、アルヴィナ姉さまの権威と秩序の板挟みになって苦しんでいる。
「くっ……! ちくしょう! 分かった! だが、ルー! 精神訓練が終わったら、すぐに訓練場だ! 逃げるなよ!」エリス姉さまは、悔しそうに足音を立てながら去っていった。
僕は助かった。アルヴィナ姉さまの過保護が、エリス姉さまの訓練から僕を守ったのだ。
僕は、肖像画に頭を下げ、静かに勝利を噛みしめた。ダラダラしたいという切実な願いを叶えるには、力ではなく、姉さまの「ルール」を理解し、利用する狡猾さが必要なのだ。
だが、エリス姉さまの「すぐに訓練場だ!」という宣告は、猶予が少ないことを示している。この安全地帯は、いつまで持つだろうか。




