訓練は挨拶代わり! 今日も僕は辺境伯家のサンドバッグ
アルヴィナ姉さまの『風の密室』がエリス姉さまの拳によってひび割れると、もう抵抗は無意味だった。
「だらけているヒマなどないぞ、ルー! 辺境伯家の男は常に国境の風より速く動かねばならんのだ!」
エリス姉さまはそう叫ぶと、ひび割れたバリアの隙間から、僕の右腕を掴んだ。その握力は、とても11歳の少女のものではない。代々騎士を輩出してきたキアス家の血統と、異常なまでの訓練量が、彼女の腕に「動く破壊兵器」としての強度を与えている。
「ちょ、待って! 昨日の夜、アルヴィナ姉さまに咀嚼回数数えられて、顎がまだ痛いんだ!」
「軟弱な! 顎の痛みなど騎士の勲章だ! 今日は『魔獣の森を駆け抜ける騎士』を想定した、持久走訓練だ!」
そう言うが早いか、僕の体は地面から浮き上がり、そのまま城壁沿いの回廊へと強制的に連行された。彼女の歩幅についていけるはずもなく、僕は半ば引きずられながら、訓練場へと続く石畳を擦っていく。
そして、辿り着いた訓練場は、いつものように荒々しいエネルギーに満ちていた。
「よし、ルー! まずはウォーミングアップだ! 訓練場を二周、全力で走れ!」
「ぜ、全力って……。僕は騎士じゃない、三男だ。ダラダラしたい三男だ!」
「何を言っている! 未来の私の副隊長たるお前が弱音を吐くな! 始め!」
エリス姉さまの命令は絶対だ。彼女が騎士団の見習い隊長だと本気で思っている以上、僕には拒否権がない。僕は重い足を引きずって走り出す。一歩踏み出すたびに、昨日エリス姉さまにやらされた腹筋百回のせいで腹筋が悲鳴をあげる。
エリス姉さまの訓練は、決して僕の体格や適性を考慮しない。彼女が訓練したい内容を、ただ僕に押しつける。それは剣術の受け身だったり、魔獣を模した巨大なサンドバッグを叩く練習だったり、今日のように体力持久走だったりする。
「遅いぞ、ルー! 集中力が足りていない!」
背後から飛んでくる木の枝(彼女の訓練用木剣の代わり)を避け損ない、僕は背中に鈍い衝撃を受けた。
僕は知っている。彼女にとって僕は「弟」であると同時に、「動く訓練用具」なのだ。サンドバッグ、人型標的、そして時々、精神力の弱い敵役。
一周を終え、呼吸が乱れた僕の目の前で、エリス姉さまは剣の構えを取った。彼女はまだ汗一つかいていない。
「休憩はなしだ。次は組手だ!」
「組手? 僕は魔術師志望なんだよ!」
そして、僕はわずかに生意気な顔をしてしまった。完全に反射だ。この辺境伯家で生きていくうちに身についた、姉たちに対するわずかな反抗心。
その瞬間、エリス姉さまが消えた。
「――っ!」
視界の端で、何かが光ったかと思うと、僕の頭はガッチリと、まるで鉄の檻に閉じ込められたように固定された。
『アイアンクロー(僕にしか使ってないけど)』だ。
エリス姉さまの指が、僕の頭蓋骨に食い込んでくる。痛みで涙目になるが、それ以上に、僕の自由が完全に支配されていることへの絶望が重い。
「生意気な口をきくな、ルー。お前が謝るまで、この訓練は終わらないぞ」
「……ぐ、ぐうっ……ごめ……なさい、エリス姉さま! 今日も、訓練は……最高で、すっ!」
僕が心の底からそう思っていないことを、彼女は知っている。しかし、騎士道精神に則り、形式的な謝罪があれば彼女はこの必殺技を解く。
指の力が緩むと同時に、僕は地面に崩れ落ちた。
「よし! 謝罪完了! では、次は部屋で筋力訓練だ! お前の部屋のおもちゃの耐久度を測るぞ!」
「やめろぉぉぉ!」
静かなる過保護から逃げた先は、容赦ない物理的な暴力。辺境伯家の三男は今日も、ダラダラしたいという切実な願いを、筋肉痛と頭痛と共に遠く見送るしかなかった。




