『風の密室』からの脱出 地面に触れたいだけなのに
僕の名前はルーカス・ディ・キアス。キアス辺境伯家の三男だ。
辺境伯家といえば、国境警備と魔力の研究を担う名門貴族。父さんは外で国を守り、母さんは外交で国境を繋ぐ、立派な人たちだ。でも、その立派な人たちが城を空けるたびに、僕の自由は霧散する。なぜなら、キアス城の管理者と僕の教育係は、あの二人の姉だからだ。
今、僕は城の裏庭にいる。目の前には、誰もいないはずの芝生が広がっている。いや、正確には、誰もいない密閉空間にいる。
「ルー! 地面の土は病原菌の魔物よ! 決して触れてはダメ!」
上空から響く、長姉アルヴィナ姉さま(16歳)の声。彼女の職業は多分、世界で一番本を読む人。風呂以外ずっと図書館にいるはずなのに、僕の行動は完璧に監視されている。彼女は心臓が止まるほどの心配性の風魔法使いだ。
その声と同時に、僕の周囲に突如として透明な壁が出現した。風の魔法によって形成された、直径三メートルほどの『風の防護壁』だ。この壁は地面から僕の頭上までを完全に覆い、外界の土や花粉、鳥の羽、そして僕が想像するあらゆる「自由」をシャットアウトする。
「お姉さま! 庭に出た意味がないじゃないか!」
僕は叫ぶが、ガラスケースの中に閉じ込められた声は、風の層に吸われて城壁には届かない。ああ、今日もだ。芝生に寝転がりたい、地面の匂いを嗅ぎたい、ただそれだけの、あまりにも純粋な願いが、高性能な監視カメラによって封じられるのだ。
ある日、僕は新しい冒険のおもちゃ、辺境の商人が持ってきた「土を掘るためのシャベル」に夢中になっていた。だが、それを見たアルヴィナ姉さまは図書館から瞬時に現れた。
『過保護なハリケーン』発動。
「ルー。そのシャベルの起源は、古代都市アトランティスでの採掘技術にまで遡るの。その設計思想は……」
彼女が古代のシャベルの歴史について三時間語り終える頃には、シャベルを握る僕の右腕は痺れ、そして何より、土を掘るという行為への情熱は、完全に消滅していた。刺激が強すぎるのは、シャベルではなく姉さまの知識量の方だ。
僕は、せめて密室の中でダラダラしようと、その場に座り込んだ。しかし、その時、城壁の陰から、別の魔物が現れた。
「ルー! 見つけたぞ!」
次姉エリス姉さま(11歳)。騎士団の見習い隊長(だと本人は思っている)。僕にとっては文字通り、動く破壊兵器。
エリス姉さまは、僕の『風の密室』など意に介さない。彼女は僕のバリアの前に立つと、剣の訓練で鍛えられた右腕を思い切り風の層に叩き込んだ。
バチンッ!防護壁が激しく震え、その一部がひび割れたように撓む。
「ルー、そんなところでだらけているな! 騎士は常に動くものだ! さあ、訓練するぞ!」
彼女の瞳は獲物を見つけた猛獣のそれだ。ダラダラしたい僕の意志を完全に無視し、挨拶代わりに僕の腕を掴もうと、破壊兵器が侵入ルートを確保しにかかっている。僕は、地面の土に触れる自由すら許されない静かな牢獄から、次は汗と泥と暴力を浴びる強制労働の特訓場へ連行されようとしていた。
アルヴィナ姉さまの「安全な場所から一歩も出るな!」という静かな圧力と、エリス姉さまの「動け!走れ!戦え!」という物理的な圧力。
今日の僕は、果たしてどちらの地獄で一日を終えるのだろうか。




