『ダラダラしたい』は最高の防御 姉妹の理論を同時にバグらせる
キアス・キャッスル 回廊、僕とエリス姉さまは、回廊の石畳の上に、完璧な五体投地の姿勢で張り付いていた。
「私が城内の空気を完全に再浄化するまで、その姿勢を崩すことは、辺境伯家の恥と心得るように」
アルヴィナ姉さまの怒りの声が遠くから聞こえる。彼女は今、全魔力を城の空気清浄に集中させているため、こちらに細かい監視の魔力は向けていない。
「ちくしょう! ルー、貴様が風の流れに乗るなどという小細工を使ったからだ! 私の訓練の達成感が、アルヴィナ姉さまの潔癖症で台無しだ!」
エリス姉さまが、地面に額をつけたまま、低い唸り声で囁く。僕の隣にいる動く破壊兵器は、完全にアルヴィナ姉さまの「静かなる圧力」によって動きを封じられている。
――今だ。これは、二人の姉さまの行動原理が最も強固な状態であり、同時に最も脆弱な状態でもある。アルヴィナ姉さまは「知識と清浄」以外に意識を割けず、エリス姉さまは「訓練と命令」以外に頭が回らない。僕は、地面に額をつけたまま、目だけを動かして周囲を確認し、そして、ごくわずかな魔力を喉に集中させた。
「……エリス姉さま。アルヴィナ姉さま。これは緊急事態だ」僕の声は、二人だけに聞こえるほどの微細な音量だった。エリス姉さまは、額を地面に擦りつけるようにして、僕に顔を向けた。
「なんだ、ルー? まさか、この姿勢で腹筋訓練をしようというのか?」
「違う!エリス姉さま。そしてアルヴィナ姉さま」
僕は、アルヴィナ姉さまが作業しているであろう方向に向かって、知識欲を刺激するキーワードを慎重に選んで囁いた。
「アルヴィナ姉さま! 思い出したんだ! 祖父様の文献『辺境魔術師の休息における最適な空気清浄度』に、『大規模な再浄化には、静的魔力を持つ銀の壺に古い巻物を入れ、無人の部屋で三十分間、静置しなければならない』とあったはずだ!」
ピクッ……!
遥か遠く、図書室の方角から、アルヴィナ姉さまの魔力の波長が一瞬乱れた。彼女の理論に新たな、無視できない変数が投入されたのだ。
「そんな記述が……!? しかし、その『銀の壺』がどこに……!」
「――地下の、古い資料保管庫です! アルヴィナ姉さまの風魔法が届かない、最も汚い(=病原菌が多い)場所です! 僕は今すぐ、その『危険な壺』と『汚れた巻物』を無人かつ清浄な部屋へ移動させ、儀式を監視しなければなりません!」
この言い回しは、アルヴィナ姉さまの論理を完全に支配した。
1. 古い巻物: 知識の危機。
2. 汚い場所: 病原菌の脅威。
3. 無人の部屋: 彼女自身が近づけない。
4. 監視: 僕が安全を確保する必要がある。
アルヴィナ姉さまは、風魔法による大規模浄化を停止することはできない。彼女は、自分の潔癖症と知識欲の矛盾に苦しみながら、僕の行動を承認せざるを得ない。
「……ルーカス。汚い物に触れたら、即座に全身を洗浄しなさい! そして、絶対に、誰にも邪魔されずにその儀式を完遂しなさい! 城全体の清浄度に関わる、最優先事項よ!」
アルヴィナ姉さまの静かなる圧力が、僕の行動を「正当な任務」として認めた。
次に、僕はエリス姉さまに顔を向けた。
「エリス姉さま! 今聞いた通りだ! これは、城全体を欺く、トップシークレットの『潜入・静置ミッション』だ! アルヴィナ姉さまの指示はカモフラージュだ!」エリス姉さまは目を丸くした。訓練以外の「任務」という言葉に弱い。「な、なんだと!? 潜入任務だと!? 私の知らない訓練か!?」
「そうだ! この任務の真の目的は、『動かず、静かに、一瞬で目標地点に潜伏する能力』のテストだ! 誰にも見つからずに『銀の壺』を運び、監視中に一切の魔力や動きを漏らさないという、最高難度の精神集中訓練なんだ!」
「精神集中……! それは僕が最もルーに教えたい訓練だ!」
「だから、エリス姉さま。僕がこの訓練を成功させるには、絶対的な単独行動が必要だ。エリス姉さまが僕を追跡したり、訓練と称して近づいたりすれば、任務は失敗し、辺境伯家の未来に関わる機密が漏洩する! これは、重要な事なんだ!」僕は、エリス姉さまの「訓練」と「任務」という二つの柱を同時に突いた。彼女は、僕の訓練への干渉と、任務の失敗という、二つの恐怖に挟まれた。
エリス姉さまは、地面に額をつけたまま、激しく地面を叩いた。
「くそっ! ルーのくせに! 分かった! 私が監視している! 貴様が任務を終えるまで、私は最高の姿勢で、この五体投地の訓練を続けるぞ!」
僕は、二人の姉さまの行動原理を同時に「フリーズ」させることに成功した。
僕は静かに立ち上がった。一瞬、虚ろな顔で立ち尽くす。そして、そのまま静かに、「汚い」資料保管庫を目指して歩き出した。誰も僕を追わない。
アルヴィナ姉さまは、僕の「安全確保」と「知識の危機」に集中している。
エリス姉さまは、僕の「潜入任務」の成功を最高の姿勢で監視している。
資料保管庫の鍵を開け、中に入り、静かに扉を閉めた。
埃っぽい、カビ臭い、アルヴィナ姉さまの監視から最も遠い、完璧なまでの汚い空間。
僕は、古びた毛布を見つけ出し、その上に大の字に寝転がった。
「……やった……」
最高の安全地帯で、僕のダラダラしたいという切実な願いは、ついに叶えられた。
誰も僕を監視しない。誰も僕を走らせない。
僕は、静かに、そして安全に、最高の無意味な時間を満喫した。
しばらくして、僕は毛布の上で、ふと小さな寝息を立てた。その寝息は、城中に響くアルヴィナ姉さまの風魔法の音にも、回廊で五体投地の姿勢を崩さないエリス姉さまの「訓練」の唸り声にも、決して邪魔されることはなかった。




