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彝 ー眞究竟眞實義ー 掌篇之輯

ちんねん

掌篇。 第拾參輯。





 珍念にはほとほと困ったものであった。


 新弟子のくせに、初日から和尚様を質問責めにする。貴族の家の出だからか、二つ上の私より隋分と物知りだった。


「和尚様、眞實の眞如の眞の眞髓を教えてください」

「和尚様、全てを総べる究竟の原理を教えてください」

「和尚様、究窮極眞奥々義たる眞理を教えてください」

 そして、和尚様が笑いながら言おうとすると、

「あいや、和尚様、わたくしめも『摩羅迦小経(まらかしょうきょう)』のことは存じております。毒矢の喩えのお話です。それ以外で、筏の喩えも存じております」


 兼好法師も八つになりしときに質問で父親を困らせたと云うが、八つというのはそういう年頃なのだろうか。奇しくもそのときの珍念も八歳であった。


 毒矢の喩えとは、『箭喩経(せんゆきょう)』とも呼ばれる。毒矢に射られた男が治療をしようとする者に対して、「私を射た者の階級・出自・氏素性が何であるかを教えてくれなければ、この矢は抜かない」とか、「矢を射た者の背が高いか、低いか、中くらいかを教えてくれなければ、この矢は抜かない」、「矢の羽がどんな鳥のものか知らなければ、この矢は抜かない」など幾つもの質問をしたとしたら、その人は答を得ずに死んでしまうであろう、そういう説諭だ。


 ちなみに、筏の喩えとは、旅をしていて、大きな川を渡るために筏を作った人がその筏を担いで旅を続けたらどうであろうか(それは適切な対応であろうか)という喩えで、悟りを開いて彼岸に渡り終えたなら、教えに執著してはならないという意味だ。

 手段が目的ではない。


『楞伽経』に在る「如愚見指月觀指不觀月計著文字者不見我眞實」と同じようなことだ。月を見せようとして月を指差しても、指差す指ばかりを見て月を見ない、経典などの文字ばかりを見て真実を見ようとしない、そういう喩えだ。


 しかしながら、珍念はそんなことはわかっていると言って、和尚様の諌めを聞こうとしないのだ。和尚様は穏やかに、

「何も考えず、まずは理を抜き、眼前の事物に直參せよ」

「でも、それは部分であって全体ではありません。存在は一片であって、全体を網羅しません」

「そうじゃったとしても、何かから着手せねば前へ進まんじゃろ」

「それは、わたくしのこういう考え自体、単に一片の言辞に過ぎないという意味でしょうか」

「直參せよ、やらねばわからぬ」


 その後、戦亂や飢饉・疫病や地震・洪水などで離散し、樣々な時節を経て、二十数年後に再会したとき、珍念は圓禪和尚となっていた。

「あの頃は、何もわかっておらず、とんだ勘違いをしていました」

 笑いながら、私にそう言った。






掌篇小説

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