世界は色付くその一瞬に
その時、わたくしは十八歳になったばかり。二月先に式を挙げる婚約者にエスコートされて、王宮ホールの大階段を上っておりました。今宵の夜会は階段の先の大広間で行われているからです。
近頃は以前よりもドレスの膨らみが抑えられ、重ねられるペチコートの枚数も減って、動きやすくはなりましたが、コルセットは依然として身体を締め付け、ドレスの中に埋もれた踵の高い絹の靴が進む先を見失うのはそのままでしたので、婚約者の腕は大海で溺れる者が掴む命綱に変わりはございません。
つまりは、大階段を上る行為は大変に危険で疲れる行動だったのです。
ようよう踊り場に辿り着いて、そこで一組の男女とすれ違います。一瞬目が合い、互いに軽く会釈して場を譲り合って、そのお二人はわたくしたちとは逆に階段を下りていかれました。今宵は王宮の普段は入れない庭園も解放されておりますので、そちらに向かわれるのでしょう。
ただ、それだけの事だったのです。
けれど、その時から、ずっと曖昧に薄ぼんやりしていたわたくしの世界に、鮮やかな色がひらめいたのでした。
吹き抜けの高い天井からいくつも下げられたシャンデリアは白金にきらめき、足元の階段を覆う絨毯の緋色が鮮やかで。手すりを飾る彫刻も大理石の白さがとろりと光って、わたくしの舞台を彩っているのです。婚約者の瞳の色の深緑のドレスが歩く度に森を思わせ、寄り添う彼の纏うテールコートが濃紺の宵闇のようでさえありました。
世界にはこれほどの色が溢れていると、この時はじめて実感したのです。これまでわたくしが見ていたものはすべて、夢の中の影のように曖昧に揺らめくばかりでありましたものを。
「どうしたんだ? 夜会はこれからなのにもう疲れたのかい?」
「今夜を楽しみにしすぎて、ずっと興奮しておりますの」
気遣う婚約者と他愛ない話をしながら大階段を上り切り、さらに煌びやかな人々の喧騒が広がる会場へと至ったわたくしは、子供のようにはしゃいでいる自覚をしておりました。きっとこの夜のことを、わたくしは一生忘れる事などないのでしょう。
それから。わたくしは婚約者から夫に変わった彼の元へと嫁ぎ、翌年には息子を、更に二年後に娘を生んで。夫を支え、家を切り盛りして子供たちを育てながら過ごして参りました。
政略で結ばれた夫は、特筆するほど何かに優れているわけではありませんでしたが、堅実に物事を進め、穏やかに家族を見守る善き夫でありました。無事に後継を得た後も愛人を囲うでもなく、妻たるわたくしに誠実に接してくれましたから、概ね、わたくしは幸福な貴族夫人であったと言えましょう。
夫との婚姻生活は二十年に満たず幕を下ろしました。息子が十八歳で成人したあたりから病を得て寝付くようになり、そのまま回復することなく逝ってしまったのです。
彼は亡くなるその日まで、
「君がいつも幸せそうに隣で笑っていてくれたから、私もずっと幸せだったよ」
そう告げてくれる優しい人でした。
わたくしこそ、夫には感謝の念しかございません。
「あなたの隣でしたから、わたくしもずっと幸せなままでいられましたのよ」
そこに嘘などひとつもございませんでした。
若くして当主の座を引き継がねばならなくなった息子を補佐して、少し落ち着いた頃に娘を嫁に出し。いつしか夫を見送って二年が過ぎておりました。
「もう大丈夫だから。母上は少しゆっくりしてきたらどうだろう?」
息子に勧められるまま、家のことは息子夫婦に任せて、わたくしは侍女をひとりだけ連れて保養地にと出かけたのでした。
王都からもほど近いわりに、少し鄙びた印象のあるその地は、血気盛んな年頃だと物足りないかもしれませんが、一線を退いた者たちにとっては妙に居心地の良い場所でした。ここにも貴族の社交の場はありましたが、裏を読み本心を隠して微笑みの下にすべてを覆い隠すような、かつてのギスギスした空気はありません。お互いに肩の荷を降ろした者同士の穏やかな親交があるばかり。
そんな折、知古になった夫人から一人の男性を紹介されました。
「こちら、あなたと同じく、伴侶を亡くされ御子息に後継を譲られたばかりなのですって。きっとお話も合うのではないかしら?」
少し白いものの混じった髪をきっちりと撫でつけた紳士が、青灰の瞳を揺らめかせてわたくしに微笑みかけらておられました。
「やっと、あなたの声が聴けるのですね」
「ええ。でもまずは、あなたの名前から教えてくださる?」
二十年という年月が過ぎ、お互いが歳を重ねてはいたけれども、見誤るはずなどありません。
たった一度の恋でした。
王宮の大階段の踊り場。
一瞬交わした視線だけで互いに恋に落ちたことを知ったのです。
けれどわたくしたちはお互いに貴族で。決められた相手もおり。互いに交差する人生がないことも、またその一瞬で理解しました。
ですが、そこで恋が潰えたわけではありません。むしろそこから始まったと言って良いでしょう。
同じ世界、同じ国、同じ時代に、たとえ二度と会うことが叶わなくとも、他の人が傍にいても。お互い想いあっていることを知っているだけで、世界が輝き、生きる支えとなったのですから。あの日からずっと、醒めぬ夢に溺れておりました。
夫との間にあったのは、貴族としての義務の上に重ねて寄り添って育てた愛でした。それを否定するものではありません。
ただこれは恋だから。もっと自分勝手で我儘な、身分や義務にも縛られない、何者でもないお互いだけの感情です。胸の奥で燦然と輝く宝物として、ずっと恋していられました。恋をしている自分を知っているから、ずっと幸せだったのです。
まさかすべての義務を果たしてから巡り合えるなんて、恋の女神からの贈り物でしょうか。
あなたが微笑む。
わたくしが微笑み返す。
さあ、ここから恋の第二章をはじめましょうか。
泉鏡花の『外科室』が大好きで。あれは私が知る限り最も美しい恋の物語だと思っています。オマージュというにもおこがましいですが、書いてみたくなったので挑戦しました。しかも、どうせ書くならハッピーエンドにしたかった。美しさは悲恋が勝るけれど、美しいより俗に寄ってもいいのではないかと。
主人公は夫を裏切っていたわけではなく。それはそれ、これはこれ。と割り切っていました。ちゃんと愛はあったし。
今後、この恋の行方が美しいままとはきっといかないでしょうけれど。一目惚れって、外見情報しか取り込んでないから。




