pray nonsense(06)
嫌な予感というものは往々にして当たるものだ。
「何があった、陀多っ!」
俺は無線に向かって叫んだ。
しかし、返事はない。高周波数のノイズが耳鳴りのように響くだけ。
俺はコンクリートに転がる二人の男の状態をそれぞれ睨んだ。意識が完全にない事を確認すると、金網のフェンスに駆け寄り、目を凝らす。こめかみから目頭にかけての筋肉が軋み、視神経が可視領域の限界を超える。ぶちっ、ぶちっ、と眼球付近の血管が切れる音をよそに、隣のビルを見る。
明かりが一切見当たらない廃墟ビル。無論、人の気配も無い。このマンションより少しだけ高いが、薄墨色の壁や窓硝子は汚れ、それはまるで無機物の屍骸のようだった。
その何処からも陀多と、その他の俺が求める情報は見付からなかった。
「周防、陀多はどうした」
俺は尚も廃墟ビルを睨みながら、無線へと呼びかける。
「屋内に入っているから分からない」
「こちらからのアプローチも無理です。送電線が活きていません」
周防に続き、篠が言った。
俺たちの間に緊張が走る。
「ちっ」
俺は舌を打ち、
「俺が直接向かう。篠はジャミングを継続、マンションのシステムもダウン。現場に誰も近づけるな」
「はい!」
篠がらしくない取り乱した返事をする。
「周防は外事対策局を召集、マンションの処理をさせろ。それから第一種政策立案局に連絡、半径五百メートル以内に厳戒態勢を配備させろ。四の五の言い出される前に、俺の名前を出して引き摺り出せ」
「分かった」
周防の冷静な声にも、平静を装っている色が含有していた。
そう言う俺自身も、内心は乱れていた。苛立ちと焦燥を撹拌させたような感情が胃を押し上げる。
俺は刀を握り締め、奥歯を噛み締めると、金網から距離を取った。
「待って、伽由。まさか飛び降りる気っ?」
焦ったような周防の声。
俺は声の調を落とし、
「そうだが?」
「危険です!」
篠が叫ぶ。
しかし俺は小さく笑い、
「危険、か。悪くない響きだ」
そして、駆け出した。
無線からの声は異郷の言葉のように、俺の耳には届かない。
膝を撓め、跳躍。
金網に片足を掛け、闇夜へと身を投げた。
激しい雨と風圧が全身を殴りつける。
加速しながら落下する体。
やがて迫る廃墟ビルの壁。
俺は顔の前で腕を交差し、両膝を立てる。
そのまま膝から窓硝子に突っ込んだ。
ずしゃぁぁぁぁあっ、と割れた硝子を巻き込みながら床を転げる。
体を回転させて衝撃をいなすが、それでも逃がしきれない衝撃が全身を襲う。
肺から空気が押し出され、肩口の骨が砕ける。
体中に突き刺さる硝子の破片。
やがて壁に衝突して停止すると、脳震盪を堪えながら立ち上がった。
「伽由さん、平気ですかっ?」
篠が必死に呼びかけてくる。
「余り大きな声を出さないでくれ。脳が揺れてるんだ」
俺は激痛を無視し、外れた肩を強引に嵌めた。
「す、すみません……あの、無事ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
「良かった……」
篠が安堵したような息を漏らした。
「篠、任務に集中しなさい。いいね?」
俺は宥めるように言った。
「は、はい……」
少し沈んだ篠の声。
実際には、彼女を宥めたのと同時に、自分の内心を落ち着かせていた。感情には焦燥が勝りつつあったのだ。これ以上胸の内が乱されると、上手く理性を保てる自信がなかった。
かしゃっ、と硝子片を踏む。
乾いた音は、暗い空間に木霊した。
聴覚を研ぎ澄ませるが、雨音を捉えるばかり。陀多からの応答も銃声も、何も不審な音は聞こえてこない。
内装を見る限りでは、どうやらこの建物もマンションだったようだ。老朽化か経営不振か、廃棄された正確な理由は分からないが、隣のマンションを見れば大体の察しはつく。
陀多は屋上から屋内に入り、待機していた。となると、最上階にいたはずだ。そこから移動したとしても、ここより下に行ったとは考え難い。
俺は呼吸のテンポを落とした。
壁に背を付け、階段を覗く。
安全を確認し、階段に足を掛けた。
その頃には体中の打撲や裂傷、骨折は完全に治っていた。
踊り場には五階と記されていた。隣のマンションが八階建て。推測するに、この廃墟ビルは九階から十階建てだろう。
階を上がるにつれて、胸が軋みを上げる。しかし、息切れなどするはずがない。どうやら、思っている以上に動揺しているらしい。
俺は三段飛ばしで階段を駆け上る。
そして十階に上がった時、足を止めた。
階段が濡れていたのだ。擦れたような水の跡が薄れ、乾きかけていた。陀多が狙撃手を運んだ跡だろうか。
俺は背広の襟に手を滑り込ませ、短刀を取り出した。それから足音を消し、耳を澄ませながら廊下を進む。額や頬に張り付いた髪が鬱陶しく、短刀の先で払い除けた。
やがて、水の跡が続く部屋に辿り着く。
その部屋の扉は開き、中から物音が聞こえた。何かを物色しているような音だ。
そして、嗅覚が血の臭いを捉える。
俺は湧き立つ感情を抑えながら、細心の注意を払い、室内に入る。
目を凝らし、耳を澄まし、進む。
突然、硝子が割れるような音がした。
「まったく、本当に何もないな」
男の声だった。
その声から男の位置を察知する。
俺は短刀を放り、飛び出した。
キッチンをあさっている男を視界で捉え、刀を抜く。
短刀が壁に突き刺さり、男はその音の方向を向く。
しかし俺の気配を察知したのか、素早く振り返り、手に持っていた銃を俺へと向ける。
その時、俺は思わず足を止めてしまった。
「お、お前……」
眼前の男に見覚えがあったのだ。
奴の銃口の照準を脳が無意識に算出し、我に返り、咄嗟に横へと抜ける。
不覚にも、敵の眼前で動揺してしまった。
反射神経で銃弾を躱せる距離まで離れ、鞘を放り、刀を構える。
「少し遅いんじゃないかな」
男は溜め息を吐き、俺の眉間を完全に捉えていた銃口を下げた。
「……白露」
俺はありったけの嫌悪を込め、奴の名前を呟いた。
一目見ただけでは少年と間違えてしまいそうな小柄で細身の男、白露。色白の肌に、薄い顔立ち。無数の装飾品で長い髪や耳を飾っている。その右の首筋から右頬にかけて、猛禽類の爪と嘴を象った、漆黒の刺青が彫られている。服装は黒色の薄い布を何枚も羽織ったような独特のもの。相変わらず、まるで女のような男だ。
奴は片手で銃を回転させ、あさっていた棚を一瞥した。
「暇潰しに何かないか探していたんだけど、ここ、何もなくてさ。それより伽由、酷い格好だね。背広がぼろぼろじゃないか。なるほど、さっきの凄い音はそれか」
白露は笑った。
無邪気な子供のように、屈託のない笑顔が癇に障る。
「おい、伽由。白露って……」
無線機越しに周防が言う。
俺は白露から目を逸らさずに、
「直ぐに第二種政策立案局を召集。ビルには近付けるな、近辺を完全包囲させろ。それから最低でも三人で行動させるんだ」
「……陀多は、陀多は無事なのか?」
危惧を孕んだ声色。
しかし俺はそれには答えず、
「これより特別任務に移行する。こちらから連絡を入れるまで無線は控えろ。篠もだ」
「……分かった」
「……はい。どうか、ご無事で」
俺は返事をしなかった。
「いいのかい? 君なら辞世の句の一つや二つ、用意していると思ったんだけれど」
「安心しろ、必要がないだけだ」
「相変わらずの自信家だな、早死にするよ?」
白露は何かの瓶を手に取り、ラベルを見ると顔をしかめ、それを放り投げた。
黄色い物体が入った瓶は割れずに、床を転がる。
「何故お前がここにいる? 眞山の組織はお前の差し金か?」
「眞山?」
首を傾げる白露。本当に知らないといった顔だった。
どうやら関係ないらしい。
「陀多は何処だ?」
「質問が多いな」
「答えろ」
辺りを窺うが、陀多の姿はどこにもない。
引き摺ったような水の後は廊下で途切れていた。
しかし、鼻腔を突き刺すような血の臭いだけが辺りに充満していた。
「もしかして、あの弱い男のこと?」
白露は可笑しそうに笑い、
「分かってるんでしょ、伽由。君の嗅覚なら、分からない筈がない」
「……阿呆が」
そう呟いた俺は違和感を覚え、自らの頬に触れた。心なしか、頬が痙攣している。
「懐かしいね、その口癖」
白露はけらけら笑い、腰帯に携えていた刀を抜いた。
なだらかに歪曲した日本刀。刀身が薄く、身幅が低い、かつて最も美しいと呼ばれた刀だ。二年前のある事件を堺に所在が不明となっていた国宝である。
「……新月宗近。やはり貴様が持ち出していたのか」
俺は白露を睨んだ。
「本当は君の獅子姫が欲しかったんだけどね」
奴はうっとりとした眼差しで自身の手に握る刀と、俺が握る刀を舐めるように見た。
「さて、本題に入ろう。伽由、僕がここにいる理由は分かるだろう?」
「これが欲しいのか?」
俺は自身の首を指差した。
「いや、君の全てさ」
そう言った直後、白露は駆けた。
同時に俺も地面を蹴り、迎え撃つ。
二人の間の距離はまさに一瞬で消滅する。
流れるような足捌きで踏み込む白露は、銃口で牽制しつつ下段から斬撃を繰り出した。
左下から高速で迫る刃。
俺は、奴の肩の高さや銃口の角度から、銃の照準を瞬時に算出。
体を傾けて銃の照準を躱し、刀を握る右腕を振り抜いた。
刀身同士が衝突、甲高い金属音が爆ぜる。
互いの膂力が拮抗する。
静止した刃の隙間から、俺と白露の視線が交差する。
「どうした、その程度か?」
俺は体ごと強引に刀を振り抜いた。
左足で踏み留まり、振り抜いた勢いを相殺。
すかさず腰を右へと捻り、左の掌底を突き出す。
左の爪先から左手へと馳せる回転エネルギー。
刀を弾かれ、僅かに浮いた白露の上体。
しかし、白露は更に上体を仰け反た。
伸びきった掌底は、奴の鼻先を掠める。
やはり、この程度の剣技と体術の連携では躱されるか。
俺の動作に露塵の隙が生じる。
「それは一体、どの程度のことかな?」
白露は左腕を上げ、銃口を俺に向けた。
照準は、眉間。
俺の体は伸びきったまま。
「ちっ」
俺は手の中で刀を回す。
回転した切っ先で、白露の銃を弾いた。
ほぼ同時に、発砲。
だが、銃口が逸れ、爆音と共に吐き出された銃弾は俺の頬を掠めた。
一呼吸置き、互いに刀を振り抜き、刀が激突。
その反動を利用し、互いに後方飛翔。
テーブルに着地した俺は、更に飛び退き、床に降りた。
白露も家具を避けながら、俺から距離を取る。
「おや、伽由。楽しそうだね」
片方の鼻孔から血を流す奴は、心底嬉しそうに笑った。
自然と俺の目は、雨音を遮る硝子に向かう。そこに映った俺は、笑っていた。唇を歪め、頬から一筋の血を流して。そして、口から勝手に言葉が飛び出す。
「ああ、さっきから楽しくて堪らない。反吐が出るほど喜悦に浸る気分だ」
俺は唇を舐め、手首のスナップで刀を回転させた。
白露には俺と同様、一つ一つの攻撃がコマ送りで見えている筈だ。同時に、水中で足掻くようなコマ送りの世界の中を、自由自在に駆け巡る身体能力も持ち合わせている。覚醒者の中でも、膨大な亜型成長ホルモン(あがたせいちょうほるもん)の分泌量を持つ者の特徴だ。
なら、限界を超えるまで。
「少し、速度を上げるとしよう」
俺は笑った。
ごろっ、と先ほど白露が投げ捨てた瓶が転がる。
それを機に、白露が銃を連射。
俺は壁に沿って走り抜け、銃弾の豪雨を回避。
その一弾一弾が、的確に俺の頭部を狙っている。
窓硝子が割れ、破片が飛散する。それだけではない。壁や家具が銃弾により、無残に価値を削ぎ落とされていく。
暗い室内にあらゆる音が反響する中、俺は方向転換。
白露へと直進する。
銃弾の照準を精確に読み取り、全て寸前で微塵の隙もなく躱していく。
目前で、奴が音速の刃を水平に振るう。
だが、俺は床を蹴り、そのまま飛翔、白露の頭上を飛び越えた。
そして空中で体を捻り、体の向きを変える。
そこから奴の後頭部へと両断の一撃を振り下ろした。
白露は素早く振り向き、刀で応戦。
しかし体勢が万全ではなく、全体重を乗せた俺の斬撃に呆気なく弾かれる。
その一瞬の隙。
俺は着地し、一切の無駄のない連動で左掌底を繰り出した。
掌底が、ようやく白露の顔面を捉える。
更に肘を内側に捻り込み、小指の付け根で押し出すように、奴の顔面を打ち抜いた。
「うっ……」
白露が呻く。
しかし、体は吹き飛ばない。
この一撃を呼んでいた白露は、足で踏み止まっていたのだ。
「掛かったね、伽由」
三日月のように口の端を吊り上げる白露。
気付いた時には、左下段から刃が俺へと迫っていた。
ご丁寧に、銃口が俺の胸部の寸前に存在している。
照準は左心房左心室、つまり匪核。
俺は咄嗟に脳内で膨大な選択肢を消去し、最善の策を選択。
伸びた左手を曲げ、肘を垂直に急降下。
奴の手首を打ち、銃口を下げさせる。
更に、その肘と膝で来襲する白刃を挟み込んだ。
直後、銃口が火を噴き、鉛玉が俺の横腹を穿つ。
構わずに、俺は右足の指の付け根に力を込め、体を右方へ急速旋回。
右から左へと、刀を走らせる。
白露は慌てて後ろに飛び退くが、その頚部を切っ先が捉える。
一時、休符。
俺の右腹部から血が溢れ、奴の左頚部から血飛沫が弾ける。
だが、互いの傷は直ぐに塞がった。
荒れた息さえ、深呼吸一つで整う。
「くくっ」
不意に、俺の口から哄笑の尻尾が飛び出した。
理由は分かっている。
久しぶりの出血。
久しぶりの激痛。
久しぶりの衝動。
心臓を取り出して高らかに放り投げるような、そんな命のやり取りが、どうしようもなく俺の胸を煽り立てる。
白露も同じく、嬉々とした笑みを浮かべる。
「伽由、君は素晴らしいよ。やはり僕は、君が欲しい」
「もう少し、速度を上げるか」
互いに一つ笑い、駛走。
二迅の颶風と化し、再び衝突する。
白露が放つ、上段の横一閃。
俺はそれを屈んで躱し、奴の懐に潜る。
そして右足を引き、左足を軸に回転。
後ろ回し蹴りを放ち、銃を突き出す白露の左腕を蹴る。
腕を弾かれ、大きく仰け反る白露。
俺は振り抜いた右足で地面を踏み締め、体を逆旋回。
斬撃を繰り出す。
右下から左上へと煌く刃。
白露の刃は間に合わず、閃光は奴の腹部を斜めに引き裂く。
間髪入れず、俺は手首を返す。
飛燕のように翻る刃。
左下から右上へと、刀を振るう。
刃は白露の左大腿部から右胸部に噛み付いた。
苦悶を漏らす白露。
連動し、俺は更に左手を突き出す。
それは白露の右眼球を狙った四本貫手。
直角に折れ曲がった肘から、撃ち出される銃弾のように、指突を放った。
中指の先が白露の睫毛に触れる。
しかし、白露は瞬時に体を捻り、貫手を躱す。
そのまま銃弾を連射しながら右に抜けた。
俺は銃弾を躱し、左に抜ける。
壁に弾痕の点線が描かれる。
やがて弾倉が尽き、白露は銃を投げ捨てた。その腹部は大きく十文字に切り開かれ、桃色の腸が零れている。しかし傷が浅かったのか、内臓はほとんど無傷だった。
それでは直ぐに治癒されてしまう。
「うぅぅぅぅぅぐっ……」
白露は膝を震わせるが、苦悶を上げながら、自らの手で腸を腹部に押し込んだ。そして痛みを堪えるように歯を食い縛り、目を硬く瞑った。
その隙に、俺は急速接近。
全身の筋肉を駆使した疾駆。
右足で踏み込み、腰を捻る。
そこから繰り出す、両目を狙った神速の横一閃。
白露は首を反らし、寸前でそれを躱す。
しかし、それは体を次の動作に繋げるものではなく、単なる反射的な回避。言わば、愚直なまでの生存本能。
俺は勢いのままに左回転、白露のこめかみを左の裏拳で打ち抜く。
尚も回転し、刀を振るい、奴の咽喉を斬り裂いた。
ぎゅじゅっ、と噴き出す鮮血。
白露はまるで俺の速度に追い付いていない。その表情に僅かな驚愕が過ぎる。
俺は更なる連携の回し蹴りで、裏拳と同じ箇所を強襲、頭蓋骨を粉砕した。
離れ際、俺の刃が白露の側頭部を狙う。
しかし、白露が咄嗟に左腕を上げた。
脳漿を両断する筈の軌道が強引に逸らされる。
その白露の左腕が吹き飛ぶ。
俺が更なる追撃を繰り出そうとした時、奴は突然口を開いた。
不愉快な口腔が晒される。
そして、真っ赤の舌の上には銀色の球体が乗っていた。
白露が右腕で両耳と右耳を覆う。
その動作だけで、舌上の物体が何か判断出来た。
「……くっ」
俺は咄嗟に横に抜け、部屋を飛び出す。
閃光と轟音が発せられたのは、俺が左手で両目と片耳を押さえた直後だった。
閃光弾だ。
悪臭と言い閃光弾と言い、それに嫌な予感の的中と言い、ここまで来ると厄日としか言いようがない。
それから数秒後、俺は右耳の回復を待たずに部屋に戻った。
すると白露は腕を拾い、断面を合わせていた。額に玉のような汗を掻きながらも、捲れた服の奥の腹部は完全に完全に治っている。相当優れた治癒能力だ。
やがて鼓膜が治り、耳鳴りが止み、俺の右耳が正常な機能を取り戻す。
白露は繋がった左手をゆっくりと握り、開いた。まだ神経が繋がりきっていないのだろう、薬指と小指が小刻みに痙攣している。
「閃光弾とは、ふざけた真似をしてくれる。実はな、さっき食らったばかりだ」
「へえ、そう」
白露は床に置いた新月宗近を拾い上げ、
「時間は充分に稼がせてもらったけど、このままじゃ君には勝てないらしい」
「当然だ」
「一応聞いておきたいんだが、やはり僕の気持ちを受け入れてはくれないのかい?」
白露は本当に切なそうに言った。頬を上気させ、微醺を帯びたように僅かに瞼を伏せる。
俺は鼻で笑い、
「俺に剥製になれと? 芙蓉や竜胆たちを捕らえたことは素直に評価できる。だが、優れた覚醒者を蒐集するとはとんだ悪癖だな」
「蒐集じゃないっ! 僕は彼ら、そして君を愛しているんだ!」
語気を荒げる白露。
「それが悪癖なんだよ」
俺は右外耳内で固まった血液を指で掻き出した。
二年前、国使防衛局の諜報員が相次いで失踪した。当時は、今回のように、七十二支構想に対する組織の所業かと期待されたが、実際は白露による反逆行為だった。
かつて白露は優れた諜報員を捕らえ、彼らの脊髄を破壊し、意識がないまま生命活動及び匪核の活動を継続させた。つまり、永遠に形状を維持する人形を手に入れたのだ。それを繰り返し、実に五体もの諜報員の身体を蒐集した。そのどれもが完璧に限りなく近い犯行で、なかなか実情を掴めずにいた。しかし七十二支構想を構成する各機関の捜査によって奴の犯行が明らかになり、上層部は白露の抹殺処分を下した。結果として白露は逃亡、犯行の動機も不明、捕らわれた諜報員の身体も三体しか回収できなかった。その未回収の諜報員が芙蓉と竜胆であり、どちらも二年前には戦闘において五本指に入るとの呼び声が高かった諜報員だ。さぞかし白露のお気に入りなのだろう。
「竜胆ならまだしも、芙蓉め、この程度に負けるとは解せないな」
「僕の愛が通じたのさ」
「愛? はっ、違うな」
俺は片目を細め、
「自分より優れたものを束縛し、蹂躙することで優越感に浸っているだけだろうが。闘いの中でしか自分の価値を見出せず、誰かを虐げることでしか自己を肯定できない。そうしていないと、ろくに自我すら保てない」
「……」
白露は笑おうとして、失敗した。吊り上げた口角が痙攣している。
割れた窓ガラスの奥では、けたたましく降りしきる雨が闇の中に斜線を描く。一向に止む兆しのない秋雨。空の水分を絞り尽くすような勢いだ。遠からず、遥か上空の積乱雲が雷鳴を轟かせるかもしれない。
「……今日は出直すとするよ、伽由」
白露は刀で牽制しつつ、踵を返そうとする。呼吸を酷く荒げているが、それは体力的な問題ではない。恐らく、精神的には満身創痍に近いはずだ。いくら傷が癒えようと、痛覚は感じ、しばらくは残留する。つまり、亜型成長ホルモンは心肺機能をも高めるが、心因性の呼吸困難までは完全に抑えることは出来ないということだ。
「逃げるなよ、白露」
俺は緩慢に右腕を上げ、刀の切っ先で白露を差す。
「悦楽の深淵へ辿り着けるまで、己の奥底に潜む欲望を手繰り寄せようじゃないか。赤々と燃え滾る獄炎のように、青々と飛沫を上げる酸海のように、白々と乱反射する溶光のように、黒々と何もかもを飲み込む牢闇ように、お前の中にもふつふつと湧き立つものがあるだろう。横隔膜の裏側で沸騰する、どうしようもなく溢れる感情。それが、俺とお前の全てだ」
「……悪いけど、今日はここまでにしよう」
白露は顔色を変えなかったが、先ほど見せた表情を俺は忘れていない。
「まさかお前、俺が怖いのか?」
俺は顎を上げ、白露を見下す。
「残念だよ。ああ、残念だ」
何も答えない奴が奥歯を噛み締めたのを、俺は見逃さなかった。
「興醒めだよ、白露」
「……また会おう、伽由」
白露は苦々しくそう呟くと踵を返し、窓から飛び降りた。
俺は奴を追わなかった。その気になれば、アキレス腱へと短刀を投擲し、背中を斬りつけることも出来た。だが、しなかった。しようと思わなかった。それは、俺が望んでいたから。歪に吊り上ったままの唇が、それを物語っていた。
雨は相変わらずの煩さだ。情緒の欠片もない。
既に政策立案局の包囲網は整っているはずだ。しかし、白露が捕まることはないだろう。
俺はただ秋雨を見詰めたまま、笑っていた。
「伽由、隣で篠が震えてるんだけど?」
唐突に無線からの周防の声が、俺の耳朶に触れる。その声色は、まるで俺を責めるような響きだった。
「勝手に連絡するなと言った筈だが?」
俺は居るはずもない周防を脅すように、左下を睥睨した。
そこには黄色い液体が詰まった瓶が転がっていた。
「そんなこと言っている場合じゃないだろう」
食下がる周防。
俺の臓腑を掻き混ぜるように、汚泥のような感情が滲み出る。
「……黙れ」
「伽由」
「同じ事を二度も言わせる気か?」
「落ち着け、伽由。お前はもう昔のお前……」
「黙らないと貴様を塵以下に斬り裂くぞっ!」
俺は周防の言葉を遮った。その怒鳴り声が、咽喉を不躾に痛めつける。
そして、息を呑む音。
それっきり、無線からは何も聞こえなくなった。ただ高周波の雑音が漂っているだけ。
しかし、直ぐに俺は後悔した。感情の制御がどうも上手くいかない。それもこれも、白露のせいだ。そう決め付け、テーブルを蹴り飛ばした。
テーブルは派手な音を立てながら転げ、脚が折れ、木片を撒き散らす。
はっ、と息を吐き出し、部屋を出た。辺りに充満する二種類の血の臭い。その片方を辿り、隣の部屋を覗き込んだ。
暗黒に眠る部屋。そこには二組の肉塊が転がっていた。一つは奥の壁際から本棚にかけて、もう一つは小さな机から窓にかけて。どちらの組み合わせも血に塗れ、微動だにしない。
俺はその内の一つ、窓の前にしゃがんだ。
頚部と四肢を切断された、六つの肉の残骸。おびただしい量の血の中に、まるで孤島のように二本の腕と二本の足と一つの頭部、そして胴体が浸かっている。
覚醒者も雛形はあくまで人間だ。生命活動を維持できないような損傷、それこそ頭部と胴体を切り離されれば当然のように死ぬ。四肢なら直ぐに断面を繋げれば治癒し、神経も繋がる。しかし脳髄の治癒能力は低く、心肺機能を取り戻す程度の回復は出来ても、完全な治癒はありえない。そもそも意識を失っては、切断面を繋げることはほぼ不可能だ。
「……だからお前は阿呆なんだ」
俺は、開いたままの陀多の瞼をそっと下ろした。
亜型成長ホルモンがもたらす造血作用や神経作用により、頚部を切断されてから数分は活動を維持することが出来る。しかし、陀多は明らかに手遅れだった。
「……陀多は死んだ。匪核も機能していない」
俺は無線の向こうに、ありのままを伝えた。
「そ、そんな……」
周防は凋衰した声で言った。
「直ぐに外事対策局に処理させろ」
「ま、待って、陀多は……」
周防は混乱しているのか、口調が苦笑混じりだった。
俺は立ち上がり、窓の外を眺めた。硝子に映った顔はもう笑っていなかったが、全身が血に塗れていた。自分の血もあるが、ほとんどが返り血だ。その軌跡をふと顧みた時、また唇が歪みそうになり、直ぐに窓から目を逸らした。血溜まりを踏まないように扉を潜り、そのまま部屋を出た。
「俺の刀も回収するように言っておいてくれ。獅子姫は国宝だ、丁重にな」
「え?」
「今日は帰らない」
「ち、ちょっと……」
周防の呼びかけを無視し、俺は壁に刀を立て掛け、短刀を全て放り投げた。
「ねえ、伽由?」
困惑しているような周防の声。
「伽由ってば!」
「伽由さんっ?」
無線越しに周防と篠が俺の名前を叫ぶ。
それでも俺は返事をしなかった。
二人の声は尚も俺に呼びかけ続ける。
煩い。
俺はイヤホンを外し、無線機を壁に叩きつけた。更にポケットから非常用の携帯電話も取り出し、投げつけた。
その飛散した破片が俺の頬を掠める。
傷口が予想以上に深かったのか、一筋の血の雫が顎を伝った。
「……阿呆が」
木霊した言葉は、狭い廊下に響き渡り、やがて俺へと収束するようだった。
俺は、まるで何事もなかったかのように静かな廊下を歩き、階段を下った。
人間とはつくづく難儀な生き物だ。何かを手にしたと思えば、失い、そこで漸くその何かを手にする資格がなかったことに気付く。それが血に濡れた指で白百合の花弁を愛でるような、咎められるべき行為だと思い知らされるのだ。そして実は、失ったはずの何かを、手にしてすらいなかった事を知る。
明日に意味がないとしても人は生きる事を望み、無理にでも意味を見出す。しかし昨日に意味がない事を知る人は、明日に何かを求めたりはしない。ただ、何かも分からない何かに渇望するだけ。あるいはそういった人間は、断崖から眺望できる景色の限界を知り、新しい世界を切望してそこから身を投げるような類だ。得られるはずのものを予期しながらも、それを放棄することで自らの正当性を保っている。言わば、自虐。
また俺の手から、掬い上げた水のように呆気なく零れ落ちる何か。
指の隙間から、しと、しと、と。
一階まで下り、廃墟ビルを出た。
扉の鍵は開いていた。
空を見上げる。
この雨は、誰の手から零れ落ちたのだろう。
まだ鼓膜に残っている音。
周防の息を呑む音と、微かに聞こえた篠の悲鳴。
じわり、と口の中に苦いものが広がる。
「……俺は、何だ?」
答えなんて、とっくに出ている。
それでも、自分を諦められない。
そんな自分を今すぐ殺してしまいたかった。
頬を流れる血液は、涙にはなれずに雨に流された。
手には、冷たいシリコンのような感触が残っている。




