pray nonsense(02)
この国には花見という文化がある。春先になると人々が、桜色の寒空の下で談笑と杯を交わすのだ。
残念ながら、俺はその行事に興じたことはない。花見そのものに興味がないということもあるが、満開に花弁を晒した景色を、どうも美しいと思えないのだ。
花が咲くという事象は、花が枯れるという事象に直結している。つまり、満開の桜には死を連想させる何かが含まれているのだ。
しかし、散り損なった花弁と新芽とが共存する姿容には目を見張るものがある。桜色と淡緑色とが不格好に重なり合い、一見すると只の不完全な産物、言わば満開の桜の副産物としか思われないかもしれない。
けれど、俺はその不完全なものにこそ魅力を感じる。それは、枯れかけの花弁と新芽が織り成す光景が、生と死とを同時に体系化しているように感じるからだ。その儚さや脆さをが集約された光景こそが、本当に美しいものだと思えて止まない。
そしてこの街、冬ヶ岬にもそれを思わせるものがある。花弁と新芽の色合いのように具体的な何かがある訳ではないが、ある種の強迫観念染みたものがある。
「……だとしたら、桜は季節で言うところの秋か」
「桜は春だろ」
俺の呟きに、隣で車のハンドルを握る陀多は笑い混じりに言った。
バックミラー越しに俺と陀多の視線が一瞬だけ交差する。
「気にするな、つまらない独り言だ」
俺は視線を窓の外に移した。
景色は高速で後方に流れていく。しかし、それはあくまで徒歩と比べたものであり、自動車から見る景色としての対比では遅い部類に入るだろう。
ふと、不愉快な臭気が鼻腔を刺す。
「ちっ、香水の臭いが服に付いた……。娼婦というのは皆、あんな腐った石榴のような臭いがするのか?周防と言い、娼婦と言い、最近はやけに臭いに当てられるな……」
窓を開ける俺に、陀多は微苦笑した。
車は歓楽街を抜け、冬ヶ岬北部に位置する樫扇を目指す。
歩道沿いに点々と続く街灯がわざとらしい遠近法のようにせばまる向こう、高い塔がそびえている。赤い電飾が忙しく明滅し、闇夜の中でもその輪郭を浮き立たせている。冬ヶ岬の発足に際し、街の象徴として建設された電波塔だ。首都の名前に由来したかつての日本最大の電波が続け様に二回も最大記録を更新されたことは、五年前だったか十年前だったか、もう随分昔の話だ。
風が流れ込む窓枠に肘を掛け、俺はぼんやりと近付いてくる電波塔を眺めた。窓の外を流れる景色がじれったいが、運転をしないどころか運転免許を持っていない身としては、文句を言える立場ではない。
差し掛かった交差点。まだ歓楽街に近いということもあり、深夜のこんな時間でもそれなりに通行人はいる。けれど、派手な服装をした若者と、くたびれた背広を来た中年とが行き交う光景は、何とも異様だ。
その上方でひたすら赤色を点滅させる信号機。
車は交差点で一時停止し、再び走り出す。
「ところで、いいのか?」
突然、陀多が口を開いた。
「ん?」
「仕事とは言え、恋人がいるのに娼婦を誘惑したりして」
「誘惑?ふん、まさか」
俺は鼻で笑った。何かと思えば、先程のことらしい。
「あれは眼球を使った一種の催眠だ」
「催眠?」
俺は窓の外を眺めたまま、
「脳の働きが眼球に表れるというのは知っているだろう?」
「嘘を吐く時に右上を見る、とかのことか?」
「そう。さっき使ったのは、それを応用したものだ。顔や視線の角度により相手の眼球を誘導し、無意識に脳に先入観を抱かせる」
俺は人差し指を立てた右手を突き出し、それを軽く左右に振る。
「そうでもなければ、あんな女に顔を近付けるはずがないだろう」
「はい、分かってますよ」
不意に無線で篠が返事をする。
「ありがとう」
彼女にそう返し、俺はバックミラーに映る陀多を見て、
「篠も理解してくれているようだ」
「そうか」
陀多は不思議な顔で笑った。
無線の周波数は、傍受などのリスクを回避するために、繋いだ回路により異なる。その全てが篠の統制により管理されており、今は俺と篠を繋ぐ回路と、そして陀多と周防を繋ぐ回路の二つがある状態だ。つまり、例えば警察車両のようにそれぞれの会話が聞こえることはなく、混線することもない。かなり高度な技術が必要となるが、篠に任せていれば心配は不要だ。
「でも、目だけで催眠なんて、凄いな」
陀多の表情は、称賛というよりも呆れの方が強かった。
俺はいつの間にか塔が見えなくなった夜景に視線を放り投げ、
「……言う程のものじゃない」
実際、やっていて余り気持ちの良いものではない。
様々な力を得た途端、人は優越感に浸る傾向がある。しかし、それを通り越せば虚無感や罪悪感にさいなまれる。他人を虐げたり、他人に価値観を押し付けるといった行為は、いつも苦い後味が残るものだ。それは、我々に感情というシステムが内在している限り常に付きまとう情緒纏綿だ。しかし、また時がたつと優越感に浸る。つくづく嫌になる生き物だが、こればかりはどうしようもない。
「それと、さっき渡したのは蜜か?」
陀多が言った。俺が娼婦に渡した包みのことだろう。
「いや、随分前に押収したオピオイドだ」
俺は目を閉じ、左手の指で目頭を軽く揉んだ。
「オピオイド……麻薬か?」
「鎮痛剤の一部の総称だ。随分前に押収したものだから詳しい薬品名は不明だが、向精神作用も多少なりともあるはずだ。あの女が常用していたのは、恐らく安物の合成麻薬だろうからな。体内に複数の薬物の耐性が形成され過ぎると、強い拒絶反応は望めない」
「蜜に適合する可能性は低いという訳か」
「そういうことだ」
俺は目を薄く開けると、ビルに挟まれた窮屈な夜空を眺めた。ありもしない星を探してみるが、月光の余波すら見えない。何故か気分が陰鬱としていて、それに拍車をかけるように、湿度がしつこく髪に張り付いた。
やがて景色は殺伐としたものに一変した。
企業区域付近の中心街は歓楽街と違い、薄気味悪い雰囲気さえ漂っている。明かりが落ちた潰れかけの飲食店、色褪せた蛍光看板を掲げる酒場、地下階段が口を広げる賭場。深夜二時過ぎという時間帯のせいもあるが、そこには独特の空間が広がっている。通行人の人相にも何処か棘があり、その身なりを含め、柄の悪い連中ばかりだ。すぐ脇の凹んだ自動販売機には、顔面を腫らした男性が寄り掛かり、気絶しているのか眠っているのか、ぼろぼろの背広にくるまったまま動かない。
ここが冬ヶ岬中心街第六地区、樫扇だ。中心街の中でもテーマパークやショッピングモールを中心に賑わう第一、ニ、三、四地区とは一線を画したような外観。平穏無事に人生を送りたい一般人は、まず近付かない場所である。
程なく、車は速度を落とす。それから建物の正面ではなく、側面に駐車した。
エンジンが停止し、上がった息を潜めるように断続的に軋みを上げる。
俺は円筒ケースを肩に担ぎ、車から降りると電気が点る建物を見上げた。
眼前に鎮座する三階建てのオフィスビル。棚崎金融だ。
棚崎金融が勢力を拡大し続けるのには、この街ならではの理由がある。まず、カジノを含めた賭博の合法化だ。そして流行の加速に従った、起業創業と廃業の連続だ。多額の負債を被ったり資金不足に陥った連中が、この街には溢れ返っている。つまり、冬ヶ岬の金の流れは速く、だからこそ棚崎金融は儲かっているのだ。また、競争企業がほとんどないことも大きな要因の一つである。
金融業は、本来なら企業区域に区分され、中心街で経営活動を行うことはできない。それにも関わらず、棚崎金融は特例として、賭場などの影響で金の流れが特に速い中心街に軒を構えている。それには財務省を中心とした様々な権力が圧力をかけており、公安や警察の捜査を寄せ付けないといった背景があるからだ。
「さて、何年振りかな」
自然と俺の口から言葉が漏れた。
車から降りた陀多は装備を確認しながら、
「来たことがあるのか?」
「いや、ここは初めてだ」
俺は首を一度だけ回し、凝った首回りの筋肉をほぐした。
「伽由さん」
無線を通して篠が俺に呼び掛ける。
「どうした?」
俺は陀多に片手を突き出し、待つように示す。
「どうやら自家発電設備があるようです。ネットワーク上のシステムをダウンさせたとしても、恐らく一分程度で自家発電に切り替わります」
「一分か……一掃している時間はないな」
まさか闇金融に自家発電の設備があるとは、想定していなかった訳ではないが、僅かな可能性として捨て置いていた。図らずも意表を突かれた形になる。
「どうしますか?」
「構わない。落としてくれ」
「はい。三十秒後、実行します」
「頼む」
俺は陀多に向き直り、
「一気に三階まで突破する。発砲するのは構わないが、面倒だから誰も殺すなよ」
「どの部屋か分かるのか?」
「聴覚で判断する」
俺が歩き出し、陀多が付いてくる。
正面に回ると、硝子ドアの向こうに薄暗いエントランスが見えた。受け付けに人の姿はなく、硝子ドアの正面に立っても、鍵がかかっているのだろう、ドアは開かなかった。
その時、エントランスに男が出てきた。
彼は俺たちに気付くと、不審そうにこちらを睨み、不格好な大股で近付いてくる。
そして、電気が落ちた。
辺りが一瞬にして闇に飲み込まれる。
続いて、男の怒号が聞こえた。
しかし、そんなものに構ってる暇はない。
俺は左手を後ろに回し、陀多にハンドシグナルで指示を出す。
直後、轟音と共に俺の顔の両脇で何かが風を切った。
銃弾だ。
二発の銃弾は硝子を貫き、二つの蜘蛛の巣状のひびを描く。
それと同時に踏み出していた俺は、背中から硝子に飛び込んだ。
そのままドアを突き破り、空中で回転。
床を転げ、衝撃を逃がす。
すぐに体勢を整え、地面を蹴り、慌てふためく男に接近。
右足で踏み込み、左に捻っていた上半身の溜めを解放する。
そして、男の鳩尾へと右肘を突き立てた。
「……ぅ、ぐっ」
男は嗚咽を漏らし、その場に崩れた。
そこでようやく陀多が破れた硝子ドアを潜り、俺に追い付き、
「少し派手過ぎないか?」
「連中を慌てさせないと、居場所が分からないだろ」
俺は目を細め、耳を澄ませた。
今の物音が聞こえたのだろう、上の階から慌ただしい足音や叫び声が聞こえる。
「急ぐぞ」
俺の声を合図に、俺と陀多はエレベーターの脇にある階段を駆け上がる。
辺りは暗闇に包まれているが、俺たちにはそれほど問題ではない。
二階の踊り場を前にした時、俺は背中に回した手で、陀多に停止の合図を送る。
鼓膜が音を捉えたのだ。
踊り場の扉が開き、男が出てきた。
向かい側の壁に、懐中電灯か何かの輪光が浮かぶ。
「今の音は何だ!」
男の叫びが反響する。
そのまま突っ込んでいた俺は、足音もなく階段を駆け上がり、踊り場に出た。
その気配を察知した男が、手に持った明かりを俺に向ける。
しかし、それよりもよりも早く。
「……ぁ、かっ」
嗚咽を吐き出す男。
俺は男の鳩尾を膝で蹴り上げ、浮いた男の顎に斜め下から掌底を叩き込んだ。
みしっ、という軋みと共に男の顔が直角に折れ曲がる。
そして男は力なく後ろ向きに倒れた。
「どうしたっ、何かあったか!」
開け放たれた扉の向こうから別の男が叫んだ。
そこから飛んでくる明かりを避け、俺は陀多にハンドシグナルを送り、階段を駆け上がる。
三階の踊り場に出ると扉の前で一度停止。
聴覚を研ぎ澄まし、足音や話し声を感知する。
扉を押し開けると、暗い廊下が伸びる。窓の磨りガラスから外の明かりがうっすらと差し込んでいる。
その明かりのせいもあり、廊下にいた二人の男は俺と陀多の姿に気付く。
けれど、薄暗いせいで敵か味方なのか判別できていない。
俺は左手で陀多に指示を出し、地面を蹴った。
発砲音が轟き、手前の男の頭上、天井の蛍光灯が砕ける。
男は反射的に体を緊張させ、上方を見上げた。
「前だっ!」
奥の男が叫ぶ。
だが、遅い。
俺は、慌てて前を向く男の頭部を鷲掴み、多少の加減を添えて、その後頭部を床に叩き付けた。
ごっ、という歪な音が響く。
俺は尚も疾駆する。
もう一人の男が身構える。
そして、銃声。
銃弾がすぐ脇の窓ガラスを撃ち抜き、硝子の破片が飛散する。
男の注意が散漫する。
俺は右足で踏み込み、上半身を右に捻る。
溜め込んだ力を一気に解放。
上半身を左に高速旋回。
手首を柔らかくしならせ、弧を描く軌道で男の顎を右掌底で打ち抜く。
突き上げる、揚打。
男は声もなく、頭から後方に吹き飛んだ。
その体が床に着くよりも早く、俺は陀多に指示を出し、走り出す。
この階で唯一、足音と話し声がする部屋。
一番奥の部屋、その扉の手前の壁に背中を付け、停止。
室内の物音を解析する。
陀多が追い付いたことを確認し、ハンドシグナルを送る。
そして扉を開き、部屋に侵入。
俺は一直線に、壁際の男に接近する。
踏み込む右足。
腰を連動させ、右肩を内側に捻り込むように右手を突き出す。
そして壁際にいた男の鼻に右掌底を繰り出す。
一振りの矛と化す、直突き。
そのまま男の頭部を壁に打ち付ける。
男は僅かな呻き声と共に崩れ落ちる。
そこで、明かりが点いた。
軋む虹彩。
視神経が急速に明順応する。
床では気を失っている男が鼻や口から流血し、辺りに折れた前歯が二本転がっていた。
俺は振り向きながら、
「久しぶりだな、棚崎圭史」
そこには、陀多に銃口を突き付けられた男が、デスクの豪奢な椅子に腰かけていた。
「き、貴様、伽由か……?」
男は歪んだ口元から声を出した。
禿げ頭の中年男、棚崎圭史。頬や顎の肉がたるみ、背広を押し上げる肥満体型。無精髭や脂性云々ではなく、本質的に汚らしい風貌だ。以前にも増して、醜い容姿をしている。
しわが深く刻まれた眉間に、今すぐにでも刃を突き立ててしまいたい。
「知り合いなのか?」
視線を棚崎に向けたまま、陀多が言った。
「昔、少しな」
俺は短く応え、棚崎に近付いていく。
俺との距離が縮まるにつれ、棚崎はおののく。額に玉のような汗をかき、頬を痙攣させている。
やがて俺はデスクの前で足を止め、顎を上げ、棚崎を見下すように睨んだ。
「……こ、国支防衛局が何の用だ」
棚崎は震えた声で言った。
数秒の間を取り、俺は緩慢に口を開く。
「眞山を預かってるそうだな」
途端、棚崎の顔が歪んだ。
それはほんの一瞬の動揺だったが、俺は見逃さない。
俺が目を細めると、棚崎は視線を逸らすことなく、
「……何のことだ」
「しらばっくれるな」
俺は懐に右手を滑り込ませ、背広の内側に潜む固い感触に指を絡ませた。
そして手を引き抜くと同時に、それを一直線に放る。
がんっ、という鈍い音と共に、デスクに突き刺さる短刀。
銀色に輝く刃に棚崎は目を見開いた。悲鳴を噛み殺すように開いた口を閉じ、先程よりも表情を恐怖に染める。
その醜い豚に、俺は鋭利で冷たい言葉を放り投げた。
「死なない体にしてやったのは誰だったかな?」




