pray nonsense(01)
「人間の純粋な知的好奇心によって人間の文明は進歩し、世界は確かに繁栄の一途を辿っている。だが、そのせいで日常が酷く味気ないものになっていることも確かだ。人というものは往々にして二律背反な生き物だと、そう思わないか?」
幼かった頃、俺は光の色を純白だと思っていた。目を閉じたまま太陽を見た時、視界が瞬時に色を失い、その強烈な白色が光の色だと思ったのだ。普段は透明でも、瞼を閉じれば目に写り込む。その神秘に少なからず好奇心や、あるいは心が弾むような嬉々とした何かを抱いていた。しかし光と色のメカニズムを知り、幻滅したことを覚えている。
「どうした、酔ったのか?」
隣で安っぽい蒸留酒を飲んでいる陀多が冗談混じりに笑った。
時刻は零時過ぎ。
歓楽街のとある小汚いバーである。僅かなカウンター席とニ台のテーブルがあるだけの小さい店だ。掃除した形跡は皆無で、髪の毛や埃の塊があちこちに転がっている。簡潔に言うと、不愉快な空間だ。
「違う、他に話すことがないだろう」
俺は溜め息を吐き、グラスを傾けた。
グラスの中にはスピリタスに柚子を漬け込んだリキュールが入っている。単純に、鼻に抜ける爽やかな風味と喉を焼くような刺激が特徴だ。率直な感想としては、美味くも不味くもない、というのが妥当だろう。
「お前の言う、この辺の事情に詳しい女が一向に姿を見せないのが根源だと思うんだが?」
「娼婦なんだ、仕方ないだろう。営業時間や営業場所が決まっている訳じゃないんだ」
「知らん」
俺はリキュールを飲み干し、奥歯で氷を噛み砕いた。それからグラスを放るように突き出し、バーテンダーに同じものを要求した。
若いバーテンダーは俺のふてぶてしい態度にも顔色一つ変えず、機械のように新しいグラスを差し出した。
それが余計に癪に障り、俺は溜め息を噛み殺し、
「酒を飲みながら娼婦を待つという屈辱……何処かで憂さ晴らししない限り気が収まらない」
すると陀多は顔をしかめ、
「怖いことを言うな」
「怖い?」
「俺に八つ当たりするなってことだよ」
「する訳ないだろう、阿呆」
俺は唇の端を歪め、
「だったら、もう少し強くなってくれ。そうすれば、手軽に気晴らしが出来る」
「笑えない冗談は止めてくれ」
陀多はグラスを口許に寄せると、上唇を湿らせる程度にそれを傾けた。ちなみに、彼が余りアルコールに強くこともあり、彼のグラスは未だに一杯目すら空けていない。
「伽由、やっぱり酔ってるだろう」
陀多が迷惑そうにこちらを見る。
「そんな訳あるか、人を虎扱いするな」
俺はリキュールを飲み干し、バーテンダーに別の酒を要求した。
その時、ドアの鈴がなった。
三人の女が入ってくるなり、バーテンダーの彼に麦酒を注文する。
どれも似たような風貌で、艶やかに着飾った色白の女たちだ。ドレスから覗く腕や足が異様に細く、まるで骨の上にそのまま皮膚が張り付いているようだ。蒼白の顔色や濁った眼球、そして言葉のイントネーションや挙動から、違法薬物を常用していることが一目で分かる。
隣の陀多を見ると、小さく頷いた。
バーテンダーが俺の前に、桜桃が沈んだ色鮮やかな混酒を置き、女たちが座るテーブルに麦酒を運んだ。そのまま軽く頭を下げ、やはり機械のような動作でカウンターの裏に戻った。
俺はグラスを手に取り、立ち上がった。椅子の脇に立て掛けていた円筒ケースを陀多に預け、女たちに近づく。
陀多も立ち上がり、ゆっくり俺の後に続いてくる。
やがて娼婦と思しき彼女たちは俺たちに気付き、会話を止めた。
「バネッサというのは、どの子?」
俺はグラスをテーブルに置き、右端の女の隣に腰かけた。強い香水の臭いに吐き気がするのを堪える。
「私は高いわよ」
中央の女が妖艶に微笑み、値踏みするような視線を俺、陀多、そしてまた俺へと投げつけた。
「悪いが、代わってくれるか?」
隣の女は両眉を上げると、麦酒が注がれたグラスを持ち、テーブルを迂回し、奥の女の隣に座った。
娼婦二人の会話が始まる。
「やあ、バネッサ」
俺は足を組み、バネッサを斜めに見やる。
「今晩は」
彼女は俺の視界の正面に入るように、身を乗り出した。胸元を晒す仕草と言い、瞼を微かに伏せた表情と言い、薄汚れた街に相応しい、安い誘惑だ。
「貴方、初めてね。手だけなら五千円、口なら一万円、胸と素……」
「ああ、違うんだ。今日は別件でね」
俺は意味のない笑顔を浮かべ、彼女の言葉を遮った。
「……別件?」
バネッサが怪訝そうに俺を見る。
俺は足を組み直し、
「眞山を探してるんだが、君、彼と知り合いらしいね。彼の居場所、知らないかな?」
途端、バネッサの表情が豹変した。
「何、アンタ……警察?」
彼女はまるで汚いものでも見るような、侮蔑した視線を俺に向ける。その口振りから、どうやら事件のことは知っているらしい。
俺は小さく吹き出し、首を左右に振る。
「いや、同業者だ」
「ふうん」
バネッサは胡散臭そうに俺を見ると、麦酒を飲んだ。
この手の連中はやけに仲間意識が強い。何を普遍とするかの議論を省くが、俗世間や一般的な倫理観念に背いた境遇に共感してか、妙に群れる傾向がある。互いを庇うことで自らが救われる訳でもないというのに、一体何を期待しているのだろうか。昨今の世の中は近隣住民でさえ、余所余所しさを宗教よりも信条としているというのに。また、逆も然りだ。こういった世界は、馴れ合いの世界であると同時に、嫉妬や嫌悪の世界でもある。他人を蹴落として成り上がる、そういった歪曲した常識が成立している。要するに、ねじ曲がった感情の巣窟ということだ。極端な対人関係、とでも言えば良いのだろうか。
「なら、判り易くいこう」
声の調を少し沈めてそう言い、俺はポケットから包みを取り出した。緩慢な動作で、それを彼女の顔の前に示す。人差し指と中指で挟み、中の白い粉末が透けて見えるように、角度を何度か変える。
女の目が僅かに見開かれる。
俺は陀多を一瞥。
その意図を悟り、陀多は他の二人に話し掛け、彼女たちの注意を逸らす。
そして俺は無機質な笑みを顔面に張り付けたまま、彼女の耳元に口を寄せ、
「これはサービス」
そう囁き、包みを彼女の太股の谷間に落とした。
バネッサは慌てて包みを両手で掴み、鞄にしまった。動揺を隠すように鞄から煙草とライターを取り出す。そして、べっとりと口紅が乗った唇に煙草をくわえ、まるで自分を落ち着かせるかのようにライターの火をかざした。
「……眞山さんの仲間、皆捕まっちゃったんでしょう?」
「そうらしいね」
俺はグラスの混酒を飲み干し、
「眞山は優秀な売人でね、俺たちも随分と稼がせてもらった。それで、しばらくこっちで面倒見てあげよう、という魂胆」
バネッサは俺の言葉が耳に入っているのかいないのか、落ち着きなく紫煙をくゆらせている。たまにこちらに向ける視線には、疑いの色が含有している。
面倒になった俺は彼女がくわえた煙草を摘まみ、灰皿に放った。咄嗟に俺を睨む彼女の目を真っ直ぐに見つめ、そのまま鼻先がぶつかりそうなほど顔を近づける。
「警察よりも先に見付ける必要があることは、分かってるよね?」
娼婦が息を飲む。
逸らそうとする視線を追い詰める。しかし、ここで焦っては、却って疑いを強めてしまう。あくまで冷静な声色で、呟く。
「さっきのあれ、使う時は一人で、それと明かりを消してね」
彼女の体が強ばり、緊張しているのが分かる。自分の領域を侵され、一時的な混乱に陥っているのだ。
「君に教えてもらえなかったら、俺たちは夜が明ける前に海の底なんだ」
女が顔を逸らし、煙草に手を伸ばそうとし、躊躇う。
俺は尚も声色を偽り、
「悪いが、急いでるんだ」
「でも、警察じゃない証拠なんてないし……」
「証拠、ね。一袋あげたのに、君は疑り深いな」
俺は苦笑して見せ、何本もの短刀を忍ばせたジャケットの懐を少しだけ開いた。
そこにバネッサの視線が注がれ、顔が跳ね上がる。
「こんなもの、連中は持っていないだろう?」
そう不適に微笑んで見せた。
短刀程度が何の確証になるのかは疑問だが、薬物に浸かった脳には有効だろう。腐敗に沈殿した判断力など、高が知れている。加えて、彼女に対する身の危険性も暗示することが出来る。
そして俺は再び彼女の耳元で、
「そろそろ、いいかな?」
案の定、娼婦は多少の猜疑を表情に残しつつも、静かに頷いた。
俺は娼婦との距離を更に縮め、彼女の口元に耳を寄せた。
彼女は陀多と盛り上がる他の娼婦を気にしながら、
「た、多分、樫扇だと思う」
「樫扇?」
「うん。樫扇の棚崎金融に転がり込んだって聞いた」
「棚崎ね……」
棚崎金融とは冬ヶ岬北部、特に樫扇から赤布にかけて幅を利かせる闇金融だ。その名は裏社会のみならず一般社会にも知れ渡っており、闇金融の中でもかなり質が悪いと有名だ。最近では蓮口方面にも勢力を拡大しているという話もある。しかし、裏には財務省の官僚が絡んでおり、公安の連中も無闇に手出しできないというのが現状である。つまり、非常に厄介な連中ということだ。
「どこかのマンション?」
俺は囁く。
「ごめん、これ以上は分からない」
女はばつが悪そうに視線を落とした。本当にそれ以上は知らないのだろう。
「いや、充分だよ」
俺は目を細め、グラスに沈んだ桜桃を摘まんだ。それを娼婦の唇に当てがい、人差し指で柔く押し込んだ。
彼女は抗う術もなく、桜桃を口に含む。
陀多が俺とバネッサの会話が終わったことに気付き、他の娼婦二人に別れを告げた。
それから俺たちは、彼女たちの犬や猫の甘噛みのような戯れ付きを軽くあしらいつつ、店を後にした。
路地に出ると、肌に張り付くような湿った空気が立ち込めていた。路面が濡れているので、きっと店内にいる間に雨が降ったのだろう。
見上げた夜空は曇り、月は無かった。それどころか、水が入った風船でもぶら下げているかのような圧迫感がある。
俺は陀多から円筒ケースを受け取り、襟裏に仕込んだ無線機に呼び掛ける。
「周防、聞いていたか?」
「中心街の第六地区だろう?」
耳に装着したイヤホンから彼女の声が響いた。
「棚崎金融まで誘導してくれ」
「そう言われても、支店を合わせると六ヶ所もある。赤布も含めると八ヶ所だ。まさか、端から潰していくの?」
「時間が惜しい。手っ取り早く本店に乗り込む。この時間でも幹部は残ってるだろう」
「本気?」
それは顔をしかめる周防が容易に想像できる声色だった。
「お前まで俺を虎扱いするのか?」
周防が言葉に詰まる。
俺は片目を閉じ、
「騒ぎは起こさない。起こさせないさ」
「まあ、伽由に任せるけどさ……」
「なら、話は早い。宜しく頼む」
俺は陀多に顎をしゃくった。
陀多が無線で周防と会話を始める。
路肩に停められた黒のセダン。
陀多が鍵のボタンを押し、車の施錠が解除された音と同時に、その前照灯が一度だけ点滅する。
それを確認し、俺は助手席に乗り込んだ。生温い空気が気持ち悪い。
「篠」
「はい」
俺の呼び掛けに、篠の返事が鼓膜を叩く。
「棚崎金融本店のシステムをダウンさせて、外部との繋がりを遮断してくれ。それから半径百メートル以内にジャミングをかけて欲しいんだが、出来るか?」
「いえ、近くに電波塔がないので……すみません、恐らく無理です」
落ち込んだような篠の声。
俺は柔らかい口調で、
「いや、構わない。じゃあ、合図を出したら頼む」
「はい」
通信を終えると、陀多が運転席に乗り込んできた。
「アルコールはもう分解できたか?」
「元からそんなに飲んでない」
「そうだったか」
陀多がキーを回し、エンジンが唸りを上げる。
道端に出来た水溜まりがネオンやら街灯やら街の明かりを反射する。きっと日の下で見ると濁っているであろうそれは、それなり輝きを放っていた。
もしかしたら、俺もそういった類いの人間かもしれない。太陽に晒されては、濁った部分まで透かされてしまう。
表面だけで輝けたら、どれだけ楽なことだろう。
そんな俺の思考を掻き消すように、車は緩やかに走り出した。




