somehow....(02)
正午を過ぎると、空は次第に天気を崩し、どんよりとした鈍色の景色が遥か頭上に広がり始めていた。この調子では、夕方から夜にかけて雨が降り出すかもしれない。けれど、開け放たれた窓からは爽やかな風が流れ込んでいた。
「……どうでもいいが、周防はどこに行った?」
異臭が収まった事務所で、俺はソファに腰掛けていた。
事務所を片付け終えると、周防の姿はなかったのだ。
主にその片付けをした篠は、備え付けの小型のステンレスシンクで手を洗っている。
そして、テーブルを挟んだ俺の向かい側には、先程俺が目を通した資料を読む陀多が座っている。
「地下室で着替えてる。ついでにシャワーも浴びてくるそうだ」
陀多は顔を上げないまま言った。
「着替えって、つい三日前に私物は持って帰らせただろうが」
「良いじゃないか、そのぐらい。そもそも地下は倉庫なんだし」
「良い訳あるか、阿呆」
俺は足を組み、その膝の上に肘を乗せた。
地下には更衣室兼シャワー室と倉庫、そして統制管理室の三部屋がある。更衣室に少量の私物を置くのは構わないのだが、周防の場合は多量に持ってくるために倉庫まで使うのだ。倉庫には多くの重要物資が保管してあるため、私有化されては様々な危険の可能性が出てきてしまう。それは避けなければならない。
「……まったく、どうして俺がこんな役回りをしなきゃならないんだ」
俺は額に手を当て、天井を仰いだ。変色した天井は煙草の煙のせいだけではないだろうが、苛立ちにも似た言葉にならない感情が、喉の置くから胸元にかけて引っ掛かる。
「いっそのこと、まとめて処分してしまいましょうか?」
そう言いながら、冷蔵庫から缶珈琲を三つ取り出した篠はそれをテーブルに置き、俺の隣に腰を下ろした。
「流石にそれは不味いんじゃないか?」
顔を上げて苦笑する陀多。
しかし篠は全く気に留めず、
「あるいは燃やした方が、諦めさせる、という点では効果的かもしれません」
「小娘がよく言う」
突然、凛とした声が響いたかと思うと、奥のドアが開いた。
「伽由がいないと何も出来ないお嬢さんが、随分と偉そうなことを言うじゃないか」
そう言いながら出てきた周防は、上着を担いだ格好で唇の端を歪め、篠に対して挑発的に笑った。
「貴女はっ……」
「はい、ストップ」
俺は、身を乗り出しかけた篠を片手で制しながら、
「お前もだ、周防」
「はいはい、悪うございました」
周防は軽い返事と共に、テーブルに乗った缶コーヒーを掴むと、陀多の隣に座った。
二十代前半に見える女性。肩口で切り揃えられた髪や石膏像のような顔立ちが、どことなく中性的な印象を与える。白いブラウスと黒のスラックスがよく似合い、組まれた細く長い足も、その乱暴な所作振る舞いも、そういった印象を強める要因になっている。
彼女はシャワーを浴びた直後で暑いのか、ブラウスの胸元に指を引っ掻け、缶珈琲を飲んでいる。
篠は俺に何かを言いかけたが、落ち込むように眉尻を下げると、言葉を飲み込んだ。
苦笑混じりに終始傍観していた陀多も、俺に睨まれると、両手を上げた。
「阿呆が来たからそろそろ始めるぞ」
俺は陀多の手から資料を奪い取った。
「伽由、その阿呆っていうのやめてくれない?その辛辣な口調で言われると、結構傷付くんだよ」
「そうか、それは残念だったな」
そう短く返し、俺は資料を広げた。
それを見て、篠は小さく鼻で笑った。
すかさず周防が喰ってかかろうとするが、俺の視線に気付き、不承不承に座り直した。
「今度こそ始めるぞ。意義や反論があるなら来世で聞いてやる」
俺は各々に目配せし、テーブルに資料を置いた。
開かれたページには、件の逃亡した薬物の売人の情報が記されている。
氏名、眞山優輔。性別、男。年齢、二十四歳。身長、百八十センチメートル弱。体格、痩せ型。最終学歴、高等学校中退。窃盗、傷害、公務執行妨害等、多数の前科あり。写真の風貌は、だらしのない服装に、顔面や腕などの体の至るところに装飾品を付けた、坊主頭の青年だ。外見と言い、経歴と言い、どこにでもいそうな典型的な阿呆だ。
「現在、眞山は行方不明だ。潜伏場所の候補すら挙がっていないということは、公安の連中も街中をうろついているだろう」
この街で生きていくには、信頼関係というものが不可欠となる。様々な反社会的あるいは反倫理的組織が幅を利かせる中で、いかに自分という存在の重要性を植え付けることができるか、そこが分岐点となる。
この街で犯罪行為は日常茶飯事だ。それこそ、組織的かつ常習的に罪を犯している悪漢が大多数を占めている。そこで、信頼関係が浅い人間から切り捨てられ、組織やその幹部の存続が優先されるのだ。巷の企業でも行われることだが、ここではその傾向が顕著に表れる。
そういった意味では、眞山という男は信頼されていたと見える。所構わず誰にでも媚びへつらって、さぞ醜い生き方だったのだろうが。
それにしても、公安は内定捜査中に潜伏場所の候補を探らなかったのだろうか。もしそうだとしたら、明らかに公安側の不手際だ。指揮されている警視庁の連中も同じようなことを考えているかもしれない。
「何にせよ、今回も基本的には通常通りの作戦でいく。俺が先行、陀多が援護、篠が情報操作、周防が監視。不都合はあるか?」
陀多、周防、篠の順に、全員の目をそれぞれ見やる。反論の意思がないことを確認し、ソファの背もたれに体重を傾けた。
「任務開始は今夜零時ジャスト。各自、準備を怠るな。それから周防、今回は米軍の人工衛星は使うな」
「何で?」
首を傾げる周防。
俺は資料を指差し、
「米軍が数日中に人工衛星の打ち上げ実験を行う予定だ。無論、極秘にだ。セキュリティのレベルが段違いに上がる筈だ」
周防は資料を手に取り、詳細が書かれた頁に目を通す。
「それなら、ロシアのを使う?」
「いや、日本がこの情報を掴んでいる以上、ロシアも知っていると考えていいだろう。人工衛星を使った何らかの動きがあるかもしれない。精度は落ちるが、イギリスかイスラエル……使うならそのどちらかだな」
「分かった」
「勘付かれるなよ?」
「ふん、誰に言ってるんだ?」
周防は唇の端をつり上げた。
「さて、楽しいお話はここまでだ」
俺は缶珈琲を一つ掴み、蓋を開けると一気に飲み干した。それから立ち上がり、部屋の奥の扉に手を掛けた。
他の三人もソファから立ち上がる。
事務所の隅にある、入り口とは別の扉。そこには成人一人がやっと通れる程の狭苦しい廊下が伸び、途中に化粧室と給湯室の扉があり、そして奥に地下へと続く階段がある。
俺と陀多は階段を下りると、三つある部屋の中央、倉庫に入った。
倉庫は事務所の半分ほどの広さだ。扉以外の全ての壁に棚が設置され、刃物や火器などの武器類、防弾衣や安全靴などの防具類、他にも様々な物資がジャンル別に並んでいる。金属や火薬の臭いがする以外、常に空気清浄器が稼働しているので、黴臭くも埃臭くもない。
隣の統制管理室から聞こえてくる篠と周防の話し声を他所に、俺は足元の鞄を蹴った。
「……周防の奴、これは俺に対する挑戦か?」
周防の荷物だった。大きな鞄が、一つや二つではなく、十個前後が転がっている。確実かつ厳正に、邪魔だ。
「まあ、それは後にしよう。今は仕事が優先だ」
「お前のその下手糞な話題転換も、俺に対する揶揄か?」
「まかさ」
陀多は苦笑しながら肩を竦めた。
「兎に角、私物を片付けるよう、周防に言っておけ」
俺は鞄を跨ぎ、奥の棚に並ぶケースに手を掛けた。緩衝材の中から小型の刃物を数本取り出し、背広の内側に忍ばせる。それから別の棚の刀掛台から日本刀一振りを手にし、図面などを入れる円筒ケースに収めた。
一方の陀多は、弾倉に銃弾を詰めていた。銃もまだ組み立てていない。もうしばらく時間が掛かりそうだ。
「上で待ってる」
そう短く言い、俺は倉庫を後にした。
すると、階段の手前に篠がいた。
彼女はコードが伸びる機器を差し、
「無線です」
「ありがとう」
俺は再び倉庫の扉を開け、
「おい」
陀多を振り向かせ、無線機を軽く放った。彼が受け取ったことを確認し、扉を閉める。
「分かっているとは思うが、周波数は百二十秒毎に変更すること」
「はい」
篠は伏せ目がちに頷いた。いつものことだが、どこか浮かない表情をしている。
地下は薄暗い。切れ掛かった蛍光灯が断続的に明滅を繰り返し、コンクリートに覆われた空間が異質な雰囲気を演出している。呼吸の一つ一つ、その微細な音さえも反響し、孤独と安堵を共存させる。
俺は階段に腰を下ろした。
篠の身長が俺より少しだけ高くなる。
「今回も、刃物だけですか?」
彼女の瞳は、俺の斜め下を見ている。
「覚醒者同士の戦闘において、銃の殺傷能力は低い。後衛には向いているが、前衛には不向きだ」
この会話も、何度繰り返したことだろう。
「個々の能力差が物を言う、でしたよね」
「そう。どんな戦闘でもそうだが、近接戦闘、特に白兵戦においてはそれが如実に表れる」
「伽由さんは強いですからね」
「どうかな」
俺は緩く笑った。
そこで篠は顔を上げ、
「心配いらないとは思いますが、必ず帰ってきてくださいね」
彼女の目は俺を真っ直ぐに捉えていた。
吸い込まれてしまいそうな、深い瞳。その美しい黒色は、言葉や表情や仕草よりも、彼女の心を素直に写し出していた。例えるなら、そう、まるで駄々をこねる子供のよう。
人は成長していくにつれて、感情を隠すことを覚える。ある哲学者はその観点から、人の成長を退化と呼んだ。訳もなく溢れる感情を晒し続けることは、時間の経過に比例して知識を吸収する人にとって、膨大な労力を消費するからだ。あるいは、その労力を純粋な勇気と呼べなくなった時、人は子供を羨むようになるのかもしれない。
けれど感情を隠したとしても、それを完全に隠しきることはできない。篠の瞳の奥のように、何処かから微かに漏れ出してしまう。
なら、それに気付いてあげられれば良い。人は大人になるにつれて、勇気をなくす代わりに優しさを手にするからだ。
「ああ、きっと」
俺は腰を上げ、前に屈むようにして、彼女の額に口付けを落とした。
篠が照れたようにはにかむ。
「さあ、戻って。頼りにしてるから」
「はい」
篠は丁寧なお辞儀をし、統制管理室に入っていった。
その姿を目で追った後、俺はぼんやりと蛍光灯を眺めた。
人は守るべきものがあると強くなれる、そんなものは嘘だ。個々の能力はおおよそ一定であり、モチベーション程度で大きく変化することはない。ましてや、それが人の命運を変えるほどの影響を与えることなどあり得ない。瞬間的に強くなれたとしても、それはそもそもの潜在能力でしかない。心理的要因が影響するのは、それらの潜在能力を発揮できるかどうか、ということに関してのみだ。しかし、その潜在能力というものが酷く曖昧で不安定なものなのだ。
物理学的な力の大小ではなく、総合的あるいは広義的な強さというものに数値は存在しない。それはつまり、個体単位の戦闘から大規模な戦争に至るまで、最強や確実という言葉が存在しないことを意味する。もしもそんなものが存在するのなら、歴史はこんなにも塗り替えられてはいないのだから。
けれど、明日に生きる意味がある限り、人は強くなることを渇望する。その祈りにも似た願いが、どうしようもなく大切なものに思えてしまうのだ。
だから俺たちは必死に今を生きる。
例え、明日に手が届かないとしても。
それが何かの意味を成すと信じて。
俺は立ち上がり、階段を上った。
足音は、次第に硬さを増していく。




