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somehow....(01)

 十数年前、政府の政策により、都内に経済特別区域が発足した。既存していた複数の地域の一部を合併して作られたこともあり、それぞれの地名や特徴を何らかの形で取り入れ、冬ヶ(ふゆがみさき)と命名された。主な政策内容は、カジノの合法化、税の免除あるいは低率化、社会権の一部制限、中小企業への優遇措置などである。低迷していた景気の回復を目的としたこの政策は見事に功を奏し、一時は低下していた経済成長率も上昇し、今でも成長を続けている。

 そんな冬ヶ岬の一角に俺のマンションはある。冬ヶ岬は大きく三つの区域に分類され、事務所で企画や会議などを行う企業区域、店舗を構えて直接的に営業を行う中心街、そして住民が生活の基盤とする居住区だ。これらの区分は厳格に行われており、この街の俯瞰映像を見れば歴然としている。例えば、中心街以外では特定の営利活動をしてはいけない、などの制限さえ存在する。無論、違反すれば罰則も与えられる。それが経済特区の成功の要因だそうだが、冬ヶ岬発足に対して反対していた国民の反感をより強めている。メディアを通して意義を申し立てる議員も健在だ。しかし政策に限らず、どんな物事にも反対意見は付きまとうものだ。住んでいる人間にそれほど強い影響はないのが、民主主義の冷酷な一面であるが。

 ともあれ、場所は中心街の外れ。程よく古びた小さな飲食店である。冬ヶ岬発足以前から営業を続けている数少ない店だ。

 店内は落ち着いた間接照明が取り付けられ、嫌味のない骨董品が上品に飾られている。店主は気立ての良い老婆で、それなりに料理の腕も立つ。知る人ぞ知る名店というやつだ。今は、俺と篠以外の客はいない。

「どうぞ、スモーブローです」

 カウンター越しに、店主は俺と(ささ)の前に皿を置いた。そして慣れた手付きでナプキンの上にナイフとフォークを並べ、俺と篠にそれぞれ微笑みながら目配せした。

「ありがとう」

 俺は店主に微笑み返し、ナイフとフォークを手に取った。

 篠も会釈だけを返す。

 店主は再度微笑み、壁際の椅子に腰かけた。それから備え付けのラジオの周波数を調節し、分厚い本を広げた。

 この店のメニューは日替わりで、今日はスモーブローらしい。スモーブローとはライ麦パンの上に様々な具が乗った調理パンで、デンマークの料理だ。この店ではその具さえも一定しておらず、今回は野菜と魚介類が乗っている。それが却って客を飽きさせず、少ないながらも固定客を維持している。冬ヶ岬の外からやって来る人もいるくらいだ。

 俺は料理を口に運びながら、ラジオから流れるクラシック音楽に耳を傾けた。今でもこんな番組があるのか、そんな事を考えている内に、この曲がバッハであることに気付いた。すると優雅な対旋律の曲調に惹かれると共に、ほんの僅かなフレーズを聞いただけで彼の曲だと判断できることに些かな恐怖を覚えた。

 この世界で、何百年と時が経っても、これほど愛される理由は何なのだろうか。失礼な言い方になるが、例えば、当時の科学技術は現代のそれと比べれば稚拙なものだっただろう。音楽にしても多彩なジャンルが生み出され、無数の名曲が誕生している。そんな中でもバッハの曲には、他のものとは違う、まるで魔法のような何か特別なものを感じずに入られない。

 無論、これは俺個人の解釈であり、また彼が特別だと言ってしまえばそれまでだ。それに当時の科学技術が現在のそれの基盤となっているとも言えるだろう。極論を述べたのだから当然だ。しかし、人はそれほどに影響力を与える可能性を秘めている、ということだ。そして、その矛先を自由に決定することが出来たとしたら、あるいはそれが悪意の元に下された指針なら、どれだけ恐ろしい結果となるだろうか。

 どこか遠い世界の出来事のように思えてしまうが、そういった可能性は常に付きまとっている。それでも世界が根底から腐敗していない現状を顧みると、人間が愚かであることを喜ぶべきか嘆くべきか、判断に迷うところだ。

伽由(かゆ)さん?」

 不意に、篠の声で我に返った。

 彼女は食事を終え、自分のと俺のコップに冷水を注ぎ、首を傾げていた。

 見ると、俺の皿の上にはまだ料理が残っている。

 普段なら彼女よりも俺の方が食事のペースは早い。しかし考え事をしていたせいで、俺の手は完全に止まっていたのだ。

「食欲、ないんですか?」

「ん、いや、そんなことはない」

 俺は篠からコップを受け取り、一口だけ水を飲んでから、食事を再開した。最近、下らないことを考え込んでしまう節がある。意識して気を付けた方がいいかもしれない。

 ラジオから流れていた音楽は途切れ、都市部の交通情報を告げていた。

 やがて食事を終え、俺と篠が時間潰しに他愛もない会話をしていると、新たな客が顔を出した。

「よう、お二人さん」

 彼は俺たちを見つけると、片手を上げながら気さくに笑った。

「おはよう、陀多(だた)

「おはようございます」

 俺も片手を上げ、篠は会釈を返した。

 灰色のスーツを着込んだ、二十代前半に見える男。癖の強い長髪と日に焼けためりはりの強い顔立ちが特徴的だ。俺よりも身長が高く、体格も良い。その反面、穏やかな性格をしており、比較的害の少ない人物だ。瞳の色が微かに茶色がかっているのは生まれつきらしく、異郷の血が混じっている訳ではないそうだ。

「今日は何だ?」

 陀多は俺の隣の席に腰掛けた。

「スモーブロー」

 俺はそう短く応え、

周防(すおう)は一緒じゃないのか?」

「途中で寄って来たんだが、呼び鈴を押したら、返事の代わりに罵声が飛んできた。それでも中に入ったんだが、何回か言葉を交わしただけで追い出された」

 陀多は鼻先に皺を寄せ、苦い顔をした。

「またか……」

「またですね」

 俺と篠は溜め息を吐いた。

「まあ、酒は周防の楽しみだから」

 隣で苦笑いする陀多は、思い出したようにカウンターに身を乗り出した。

「お婆さん。スモーブローを二つ、テイクアウトしたいんだけど、大丈夫かな?」

「かしこまりました」

 店主は頷き、緩慢に腰を上げると、カウンターで調理を始めた。

「周防に持っていくのか?」

 俺は呆れながら隣に目だけを向けた。

「まあね。ほら、あいつは空腹になっても機嫌が悪くなるから」

「よくやるよ、まったく」

 陀多はただ苦笑するだけだった。

 俺は空のコップを弄びながら、底に残った氷を回転させた。

 それを見た篠がポットを取り、

「伽由さん、お注ぎしますか?」

「ん、ありがとう」

 俺は篠にコップを渡し、再びクラシック音楽が流れるラジオに耳を傾けた。

 今流れている曲名は分からなかった。

 しばらくするとスモーブローが二つ出来上がり、俺と篠、そして陀多は店を後にした。

 中心街の少し外れた場所、例えば先程食事していた飲食店の近辺は、いくら冬ヶ岬が経済特別区域であるとは言え、人工密集度はそれほど高くない。都心部と郊外、あるいは開発区域のようなもので、店舗募集の張り紙や土地の値段が記された看板もよく目にする。

 しかし、通りを一つ挟めば、景色は一変する。路地をいくつも折れ曲がり、メインストリートとも呼べる大通りの一つに差し掛かると、平日の昼前だというのに、雑多な人混みが右往左往している。どこともなく軽快な音楽が流れ、露店やショーウィンドウが華やかに彩られている。

「相変わらず賑やかだな、この辺は」

 俺の右隣を歩く陀多は、スモーブローが入った小さな紙袋を抱え、辺りを物珍しそうに見回した。

「夢の中では誰でも騒ぎたくなるものだ」

 俺は片目を細めた。

 そして、左隣を歩く篠が言葉を引き継ぐ。

「それが夢だと気付けば、騒ぐ気もなくなるでしょうね」

 その声色は、まるで侮蔑するような、酷く冷たい響きを含んでいた。

 俺は前を向いたまま、篠を引き寄せた。

「危ないから、もう少し寄りなさい」

「はい」

 彼女は緩く俺の背広の袖を掴んだ。

 ダークスーツを着た二人が寄り添っているのは何とも奇妙な光景だろうが、周囲の連中は、所詮は夢の中の住人だ。特に気にする必要もない。

 それを見て、陀多は冷やかすように片方の眉毛を吊り上げて、

「相変わらず過保護だな」

 今度は俺が呆れられてしまった。

 しかし、人間に感情というシステムが内在している以上、仕方がないことではある。俺も篠も陀多も、そして何も知らずに冬ヶ岬を闊歩する夢見心地の連中にしてもそうだ。誰もがその時その時を、ほどほどに手を抜きながら、精一杯に生きているのだ。それぞれの生き方を理不尽に否定されようと、人生という物語において、自分は自分だけの主人公なのだから。

 やがてメインストリートを通り過ぎ、再び人通りの少ない路地裏に入る。そのまま物静かな中心街の外れへと進み、十五分ほどで企業区域に到着した。

 中心街とは違い、競うように上へと伸びる高層ビルが立ち並ぶ景色が広がる。押し潰されそうな圧迫感に加え、息が詰まりそうな閉塞感が立ち込めている。しかし、やはり中心街のように少し外れれば寂れた空間が広がり、閑散とした雰囲気になる。

 すると、周囲の人の気配を警戒しながら、突然陀多が口を開いた。

「昨日、麻薬密売組織が公安に摘発されたらしい」

 念のために俺も周囲を警戒し、

「それがどうかしたのか?そんなこと、この街ならそう珍しくないだろう」

 冬ヶ岬は経済特別区域ということもあり、賭博や脱税、他にも様々な脱法などを目的とした柄の悪い輩が集まりがちだ。そんなことも手伝って、この街で薬物は面白いように売れる。

 しかし、冬ヶ岬発足に際する副産物とも言える、そういったイレギュラーを想定し、様々な対策が設けられている。その一つが、国家公安委員会の配備だ。通常なら警視庁の管轄となるのだが、経済特別区域のリスクを最小限に抑えるため、国家公安委員会が警視庁を指揮する体制をとっている。

 つまり、一つ一つの事件に膨大な税金が投入されるということだが、それに比例して事件解決率はかなりの数字を残している。要するに、この街で薬物密売組織は長続きしない。それでも組織の摘発が後を絶たないのは、人間には下らないことを考える阿呆が多いからだろう。

「それが、さっき言った麻薬密売組織の人間を一人取り逃がしたらしい」

「鼠の一匹や二匹、上手く逃げることもある」

「それだけの事件なら、わざわざお前に話したりしないさ」

「回りくどい。端的に言え」

 俺は流し目で陀多を睨んだ。

 一方の彼は進行方向に顔を向けたまま、

「連中は麻薬で稼いだ金で蜜を買っていたらしい」

 その言葉に、俺は眉を寄せた。

 隣で篠も反応したのが分かる。

「……本当か?」

 周囲への警戒を強めながら、俺は言った。

 そこでようやく陀多は俺の顔を見て、

「仕事の要請が来た」

「……そうか」

 会話はそこで終わった。

 何事もなかったように歩きながら、俺は呼吸のテンポを落とした。

 蜜とは、冬ヶ岬に密かに出回る薬物の隠語である。値は張るが上質で、麻薬など足元にも及ばないほどの快楽を得られるとの噂が、一部の間で流行っている。最も、蜜はその存在自体は確かだが、とても稀少であり、ある種の都市伝説のように扱われている。

「薬物を売って薬物を買うとは、ご苦労なことだな」

 そう呟いたものの、言葉は皮肉になりきれず、微妙な響きのまま薄れて消えた。

 人間の欲望は時として暴走する。肥大した欲望はただならない執着を生み、終には目的のためなら手段を選ばなくなる。あまりに短慮だが、そもそも法が人間の欲望を抑制するために存在するということを考えると、極論だが必然とも言える。人間は自らを規制しないと、まともに社会も形成できない愚かな生き物なのだから。

 それから俺たちは無言で歩いていたが、すぐに目的地に到着した。

 大きな地震が発生すれば真っ先に倒壊しそうな二階建ての建造物だ。色褪せた外壁に塗装が剥離した金属製の階段。そして、近付かないと文字が読み取れないほど錆びた看板からは、正確な企業名は読み取れず、「マーケティング」という文字だけが辛うじて判別できる。主に財市場の調査を行い、その結果や独自の視点から判断した需要傾向を情報として販売するマーケティング会社である。あくまで表向きにだが。

 玄関の陳腐なドアの前で、俺と篠は立ち止まった。

「陀多、お前から入れ」

「周防さんに絡まれると面倒ですから」

 俺たちの言葉に陀多は顔をしかめ、後頭部を掻いた。いくら陀多でも周防に絡まれるのは遠慮したいらしい。しかし、重々しく息を吐き出すと、ドアに手をかけた。

「……分かってるよ」

 そう呟くと、彼は意を決したように事務所内に入っていった。

 俺と篠は数秒の間を置いてから、ゆっくりと陀多に続く。

 すると、鼻を刺すような激臭に、突然の目眩が襲った。

 案の定、眼前には腐敗した光景が広がっていた。

 それを確認するよりも早く、篠は顔をしかめ、小走りで窓を開けに行った。

 俺も息を止めたまま窓際に移動し、外の空気を吸い込んだ。

 隣では篠が気持ち悪そうに顔色を青く染め、窓から身を乗り出していた。

「大丈夫か?」

「……すみません、臭いに酔いました」

「この異臭なら仕方ない。しばらくそうしてなさい」

 俺は篠の背中を擦った。

 彼女は弱々しく頷くと、うなだれるように顔を伏せた。

 しばらく彼女の背中を擦った後、俺は振り向き、窓枠にもたれ掛かった。それから腕を組み、顎を上げ、目を細める。

 睨んだ先の有り様は、いつかのホテルとは大違いだった。変色した天井と壁、毛羽立った上に染みだらけのカーペット、埃が積もった造花、空缶やビニールゴミで溢れるガラステーブル、そしてひび割れた革製のソファ。加えて、この臭い。ただでさえ埃と黴の臭いが酷いというのに、そこにアルコールと煙草の臭いが混じり、何とも形容しがたい激臭となっていた。

 そのソファの上では、横たわった周防が苦しそうに唸っていた。朝まで酒を飲んでいて二日酔いになったのだろう。

 陀多は、部屋の隅にある小型の冷蔵庫から水が入ったペットボトル容器を取り出し、周防の傍らにしゃがみ込んだ。

 俺は盛大な溜め息を吐き、前髪を掻き上げた。

「ここはお前の家じゃないだろう。事務所で寝泊まりするなとは言わないが、せめて掃除しろ」

 しかし、周防は鬱陶しそうに寝返りを打って俺に背を向けると、片手をひらひらと振った。静かにしろ、ということらしい。

「放っておきましょう、伽由さん」

 気分がよくなったのか、篠が言った。

「そうだな」

 俺は頷き、天井を見上げ、それから床に視線を落とした。腕を組んで窓枠によりかかったまま。部屋の異臭が落ち着くまで、しばらくここから動かない方がいいだろう。

 篠も動く気はないようだ。

「それより陀多、資料はどこだ。仕事なんだろう?」

 周防に水と薬を渡した陀多は振り向き、眉を寄せながら、恐る恐るデスクを指差した。

 それもそのはずで、窓際のデスクは酷い有り様だった。中央にパソコンが置かれ、その周囲に書類が乱雑に積まれている。更に、隅にある電気スタンドの周りには、厳選されたのであろう、高級な蒸留酒の瓶が並んでいた。唯一デスクの色が見える空間も、テーブルの上で吸い殻に埋もれている灰皿があった場所に違いない。普段から周防が使用しているので当然のことなのだけれど、現実逃避や諦めという言葉が存在する理由が分かる気がした。

「あっ、私がやります」

 俺がうんざりしながら資料を探し出そうとすると、篠がデスクを整理し始めた。

「悪いな」

「いえ」

 篠は書類を手早く整理し、見付けた資料を俺に差し出した。

「どうぞ」

「ありがとう、助かるよ」

 俺は篠に微笑み、そして周防を睨んだ。

 しかし、周防は背中を向けたままだった。更に、腹立たしいことに足の指が定期的に動いている。

 甲虫類の幼虫のようなそれを蹴り飛ばしてやりたくなったが、軽い溜め息と共に衝動を押し留める。そして篠にも見えるように手の位置を下げ、受け取った資料を捲り始めた。

 そこには、余計に気分を陰鬱とさせる内容が長々と書かれていた。

「……最重要捕獲命令、ね」

 電気も点けていないのに室内は明るく、その原因である快晴の青空が妙に苛立たしく思えた。

 しかし、気分が優れない時は大抵そうだ。のうのうとしているもの全てが鬱陶しく思えてしまう。

 それでも、篠の肩が触れる部分だけが普段の冷静な自分でいられるような気がして、俺は篠の髪を一度だけ撫でた。

 篠が俺を見上げて首を傾げるが、曖昧に微笑んで内心を隠した。

 ともかく、今回の仕事は少しだけ面倒になりそうだ。

 まず、酔い潰れた阿呆をどうにかしなければ。

 今日の空はやけに高く、どうも蹴りは届きそうにない。


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