have-not(06)
屈辱だ。
「も、申し訳、あり、ありま、せん、でし、た……」
俺は床に跪き、膝の上で両の拳を握り締め、面々に謝意を述べている。歯を食い縛り、鼻の頭に皺を寄せ、肩はわなわなと震えている
いつもの事務所の扉の前。ソファとテーブルを挟み、開け放たれた窓に広がる空が随分と遠い。
「じゃあ、練習はこのぐらいにして、そろそろ本番にしようか」
にやり、とソファに座る周防が笑う。腕と足を組み、ふんぞり返るように俺を見下ろしている。
「き、貴様……」
俺は周防を睨んだ。
すると彼女は邪悪な笑みを浮かべ、
「何かな、その反抗的な態度は。君はここに何しに来たんだ?」
「くっ……」
言葉に詰まる俺。
それでも周防の邪悪さは緩まない。
「ほら、言ってみなさいよ」
「あ、謝りに……」
歯を食い縛ったまま、唇の端で喋る。今の俺の表情はさぞ滑稽だろう。
「ええ、何だって?」
わざとらしく耳に手を添えて身を乗り出す周防。
俺の我慢は臨界点を越えた。
「もう限界だ!」
そう吐き捨てて立ち上がり、踵を返す。
しかし俺が扉の取っ手を掴みかけた時、
「あれ、いいのかな? これを牛耳に投げつけても」
そんな周防の声に振り向く。
彼女の手には小さな紙袋が握られていた。気のせいか、先ほどよりも笑みが陰湿なものになっている。
「じ、自分ですか?」
周防の隣で怯えるように固まっていた牛耳が顔を上げる。寝耳に水、といった反応だ。
「……何だそれは。勝手にすればいいだろう」
疑問に思いながらも、俺は周防を睨んだ。
直後、彼女の口角が徐々に吊り上がっていく。そして頂点まで達したところで、石膏のような唇が言葉を吐き出す。
「この中に篠の下着が入っているとしても?」
「なっ……」
反射的に身構える俺。
周防は尚も挑発するように紙袋を掲げた。
聴覚で中身を探るが、分からない。
やがて俺の苛立ちが破裂する。
「この変態が!」
「黙れ殺人鬼!」
俺の発言に周防が逆上する。
「何だと? もう一度言ってみろ、阿呆が」
「何度でも言ってやるよ、殺人鬼が」
俺と周防は紙袋越しに睨み合う。
あの中に下着が入っていると考えると何とも奇妙な光景だが、篠の私物が誰かに触れると考えただけで腹が立つ。ましてや、それが篠の肌に直接まとうものだと考えると、怒りを通り越して殺意が生まれてくる。その反面、俺の中にも嫉妬という感情が存在することに、冷静に驚いていた。
無言の攻防が続く。
そして、沈黙を破ったのは牛耳だった。
「あ、あの、周防さん。さ、篠さんの下着、も、貰えるんですか?」
しかしすぐに彼は苦い顔をし、俺の表情を窺う。どうやら俺と篠の関係は知っているようだ。
その言動が俺の感情を逆撫でする。
「ほう?」
俺はあえて周防から目を離し、ソファに座る牛耳へと近付いた。そして彼の胸倉を掴み、手首を内側に捻り、頚部の左右の静脈を絞める。そして今更ながら、牛耳という男の顔をまじまじと観察する。
「か、伽由さっ、く、苦しっ……」
悶えながら俺の腕を掴む、十代後半に見える童顔の男。不自然なまでに真っ直ぐな長髪を茶色に染め、鶏冠のように整髪料で固めている。服装は安っぽい背広。街でよく見かける若者のような、身嗜みや洒落という言葉を履き違えた典型だ。
「貴様、牛耳と言ったか? 俺の女に興味を持つとはいい度胸だな。当然、覚悟は出来ているんだろうな?」
牛耳の首を更に絞り、強引に目を俺に向かせる。
「い、いえっ、すみませんっ……」
彼は真っ赤な顔で必死に否定する。唇が蒼紫色に変色し始めている。
その時、扉が開いた。
「只今戻りました」
篠だった。手にはビニール袋を提げている。
その彼女の足元には子犬の縷々(るる)が寄り添っていた。
先日、あれだけ仲の悪かった彼女ら。それこそ、俺の入浴中に競うように浴室へ侵入してきたり、寝台で俺の隣を取り合うなどしていたが、僅か一晩で距離を縮めたようだ。
そんな篠と縷々には俺のけじめのために、周防や牛耳に謝意を伝えるにあたり席を外してもらっていたのだ。
「何をしているんですか?」
篠は室内の光景に苦笑した。謝る筈の俺が周防を睨み、牛耳の胸倉を掴んでいるからだろう。
「い、いや……」
言葉を濁す俺。
当然ながら、言えない。篠の下着を巡って言い争っているなど、口が裂けても言える筈がない。
俺はとりあえず、突き飛ばすように牛耳の胸倉から手を離した。
彼は咳き込み、苦しそうに呼吸を繰り返す。
一連を訝しそうに見ていた篠の視線が周防に向き、
「周防さんも、古い弾倉なんて持ったりしてどうしたんですか?」
「は、弾倉?」
真っ先に俺が反応した。
彼女は機敏に俺から目を逸らす。
「ええ、古い弾倉を捨てるのに、そこに置いておいたんです」
周防が何も答えないので、代わりに篠が入り口脇の棚を指差して答えた。
途端に周防の表情が引きつっていく。
俺は彼女を睨み、
「周防、まさかとは思うが、俺で遊んだのか?」
「な、何のことだかさっぱり……」
周防は俺の目を見ないまま、紙袋を持った手を引っ込める。
その際、かちゃり、と紙袋の中で硬い物が音を立てた。下着じゃないことは明白だった。
「おい周防、何か言ったら……」
「さて、仕事するか」
周防は俺の言葉を無視し、地下に続く扉へと歩き出す。
「待て!」
俺が叫ぶと、周防は紙袋を俺に投げつけ、脱兎の如く逃走した。
ばたんっ、と激しく扉が閉まる音が響く。
そして俺の手には弾倉が入った紙袋だけが残った。
「あの、どうかしたんですか?」
篠はビニール袋をステンレスシンク脇の台に乗せ、縷々を抱き上げた。
「何でもないよ、謝罪は済んだから問題はない」
「そう、ですか」
綺麗な眉間に皺を寄せ、首を傾げる篠。
俺は黙って微笑み、縷々の頭を撫でた。
しかし、またも牛耳が空気をぶち壊す。
「そ、そんな、篠さんの下着が……」
彼はそう言うと、落胆したようにがっくりと項垂れた。
「し、下着っ……?」
驚いた篠は危うく縷々を落としかけたが、慌てて抱え直すと、後ずさった。そして牛耳に軽蔑の視線を向ける。
そして、本日何度目になるだろう、俺の憤怒が爆発する。
「貴様!」
俺はテーブルの上の刀、獅子姫を掴み、抜刀。その切っ先を牛耳の眼球に突きつけた。
「か、伽由さん……」
牛耳が身動き一つ出来ず、漸くそれだけを呟いた。
「黙れ。それから瞬きはしないことだな」
眼球との距離は紙一枚も無い。瞬き一つでも瞼が引き裂かれる。
俺は手元が狂わないように、刀を握る右手に左手を添える。
「あの、伽由さん、和解したんですよね……?」
篠が言う。
「ああ、勿論だ」
俺は牛耳を見据えたまま笑った。
その眼前には牛耳の青ざめた顔がある。
「篠に色目を使ってみろ、殺すぞ」
限界まで低めた俺の声が、凶器と殺気をまとう。
「は、はい……」
牛耳は震える声で言った。
だが、気持ちは分からないでもない。
篠は贔屓目を除いて見ても美しい女性だ。性格も慎ましく、所作振舞の一つ一つに至るまで洗練されている。つまり、異性を惹きつける要素は充分に揃っているのだ。
数十秒の間を取り、俺は剣先を引いた。
息を吐きながらソファに埋もれる牛耳。何度も深呼吸を繰り返し、額には玉のような汗が浮かべている。
しかし俺にも、篠を手放したくない、という人並みの感情はある。だから、更に追い討ちをかける。
「それだけでは足りんな。触れたら殺す、近付いても殺す、いっそ見たら殺す」
「み、見ないなんて、不可能じゃ……」
牛耳が未だ青ざめた顔で俺を見上げる。
俺は目だけを除いて満面の笑みを浮かべ、
「ずっと瞑っていればいいだろう、目をさ」
「そんなご無体な」
泣きっ面でソファに崩れる牛耳。
ふん、と鼻で笑い、俺は刀を鞘に収めた。
篠が俺の隣に並び、牛耳を睥睨する。
「よく分かりませんが、あの程度の人間に私が惹かれる訳ないじゃないですか。と言うか、伽由さん意外には興味ありませんから。ね、縷々ちゃん」
にこやかに微笑む篠。そんな笑顔で毒舌をさらっと披露してしまうのだが、決して他意はないのだろう。
しかし言われた方は正直堪える筈だ。
牛耳は惨めな表情で、
「あ、あの程度って……」
俺と篠は気にせず、並んでソファに座った。
「ああ、咽喉が渇いたな。あの青いパッケージの天然水が飲みたい」
俺は足を組み、わざと声を張った。
「買ってきましたよ」
すかさず篠が縷々を床に下ろし、ビニール袋からペットボトルを取り出す。
しかし牛耳が瞬時に起立し、
「今すぐ買ってきます!」
「街中からあるだけ掻き集めて来い」
俺は再び声色を低くした。
「は、はい!」
そう返事をすると、牛耳は尋常じゃない形相で事務所を出ていった。
「ですから、買ってありますよ……」
篠は落ち込んだように、ペットボトルを両手で抱えた。
「あいつにはちょっと調教が必要なんだ。ありがとう、水を貰おうか」
俺は平静を装いつつも刀をソファに立て掛け、手を差し出した。奴がいては、篠に下着の件を知られかねない。それだけは避けなければならなかったのだ。
篠は首を捻ったが、幸い深く追求しなかった。
「あ、冷えてないですけど、いいですか?」
「構わないよ」
俺はペットボトルを受け取り、水を飲む。確かに温いが、却って咽喉を通る柔らかさが増しているように感じる。
篠は縷々を抱き上げ、彼女の黒い毛並みを撫でながら、
「それより、下着って何のことですか?」
「……っ!」
ごほっ、ごほっ、と俺は咳き込んだ。驚いて水が器官に入ったのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「いや、何でもないんだ、本当に」
篠に背中をさすられながらも、俺は苦笑交じりに話題を変える。
「それより、昨夜のお前たちの喧嘩はなんだったんだ?」
「あれですか? 実は只の誤解だったんですよ」
「誤解?」
「はい」
恥ずかしそうに頷く篠。
「縷々ちゃんにとって伽由さんはお父さんなんです」
「はあ?」
思いもしない展開に、俺は素っ頓狂な声を出してしまった。苦し紛れの話題転換の後味さえ忘れてしまうほどだ。
「どういう経緯で伽由さんと縷々ちゃんが知り合ったのかは知りませんが、縷々ちゃんはそう思ってるみたいですよ」
「そうなのか?」
篠の腕の中の縷々を見ると、深緑色の瞳が俺を捉えた。
「縷々ちゃんは娘の立場を守りたくて、私は恋人の立場を守りたかった。それをお互いが勘違いして、あんなお恥ずかしい真似を」
「まさか、本気で犬相手に嫉妬していたのか?」
「そ、それは……」
篠が耳まで赤く染める。
それを見て、次第に可笑しさが溢れ、
「あははっ」
俺は腹を抱えて笑った。何が特に可笑しかったという訳ではない。兎に角、笑いたい気分だったのだ。それはもしかしたら、篠や縷々の気持ちが嬉しかったからかもしれない。
「伽由さん、笑い過ぎです……」
篠が萎れた百合のように俯いてしまった。
「くくくっ、いや、すまない」
俺は水を飲んで一息ついた。それから篠の腕の中の縷々を受け取る。
「篠が恋人で縷々が娘、か。いいじゃないか。俺も、子供がいてもおかしくない年齢だしな。些かみょうちきりんな家族だが」
すると、篠が俺の太股に手を乗せる。
「うん?」
「こ、子供なら、私が……」
頬を上気させた篠が唇を求めるように身を乗り出す。
「公私は分けなさい」
俺は小さな苦笑を一つこぼし、宥めるように言った。満更ではないが、やはり公私混同は不味い。
「……はい、ごめんなさい」
しゅんとする篠。俺がその耳をそっと撫で、苦笑にやや和らげた笑みを混ぜると、篠も苦笑を返した。元々聞き分けのいい子だ、俺の気持ちを解ってくれたのだろう。
が、俺の本能が不穏な空気を察知する。
どうやら根源は俺の腕の中らしい。
恐る恐る覗き込むと、縷々がぎらぎらと輝く瞳を篠に向けていた。
「篠、さっき娘の立場がどうとか言ってなかったか?」
「伽由さん、いつか聞こうと思っていたんですが、この子って人間の言葉が解るんですか?」
篠の引きつった笑みがこちらに向く。
その瞳に移った俺の顔も、同じ表情をしていた。
そして、また篠と縷々の喧嘩が始まる。と言っても、今回は縷々が一方的に怒っているだけのようだ。
俺は溜め息を吐き、
「周防、もういいから出て来い。さっきのはお前なりの歩み寄りだと受け取ることにする。いや、きっとそうなんだろう」
背後の扉へと声をかけた。
きい、と扉が開く。
続いて、周防の声が届く。
「ま、まず刀をどけて欲しいんだけど……」
「分かったよ」
俺はソファに立てかけた獅子姫をテーブルに置いた。
やがて周防は出てくると、ゆっくりと俺の隣に座った。そして篠と縷々の争いに気付く。
「何やってるの、あの子たち」
「俺にも分からん」
「ふうん。で、牛耳は?」
「さあ」
俺は肩をすくめた。
「あいつ、新入りの癖に職務放棄とはいい度胸だな」
「お前が言うな」
「そういう伽由だって、つい昨日までは職務放棄していたじゃないか」
「ぬっ……」
俺は言い返す言葉が見付からず、額に手を当てた。
「あれ、意外と気にしてるのか?」
周防は笑いながら俺の肩を軽く叩いた。怯えて逃げたり懐いたり、忙しい奴だ。
「煩い」
俺は彼女の手を払おうとしたが、周防に手首を掴まれた。
「まあ、そう気に病むなよ」
周防は意地悪な笑みを見せたが、しばらくすると優しい目つきで喧嘩を続ける篠と縷々を眺めた。
「始めて見たよ、あんな風に笑ってるあんた」
さっきの俺と篠のやり取りのことを言っているのだろう。
「どうかしてるんだよ、今日の俺は」
俺は周防の手を振り払い、背凭れに体を預けた。
しかし、彼女は首を左右に振る。
「そうじゃない。悪くないってことだよ」
「ん?」
俺は隣の周防を見やる。
けれど周防は篠と縷々を見たまま、穏やかに微笑んでいた。彼女にしては珍しい表情だ。ふざけて笑うことはあっても、こんな笑みはなかなか見せない。
「冷静になって考えてみれば、陀多が死んだ悲しみをお前にぶつけていただけだ。私は、小さいな。お前に責任を全部背負わせて、自分は一人で傍観者気取り。これじゃ、見る前から映画を否定する俗物のようなものだ」
「周防……」
「また楽しくやろう。これからも葛藤は続くだろうが、それは私たちが人間であるという証でもある」
「そうだな。俺も、そんなことを考えていた」
俺は目を閉じ、小さく笑った。しかし、目を開けると目の前に周防の顔があった。嫌な笑みだ。
「一応言っておくが、私は陀多に恋愛感情は抱いていなかったよ。強いて言うなら、出来のいい弟のように思っていたかな」
「その話、どこで……」
俺の脳裏に一人の男の顔が浮かぶ。
「柳里さんから電話があった」
「やっぱりあいつか……」
あの世話好きめ。いつも余計なことばかりしてくれる。
そんな俺の心境とは裏腹に、周防は遠くを眺めるように天井を見上げた。
「いいな、お前は。一人で生きていけるくらい強い癖に、周りには支えてくれる人が大勢いる。この際だから言うが、正直羨ましいよ」
意外な言葉だった。彼女がそんな事を言うような人間だとは思わなかったからだ。酒と煙草を嗜好し、任務時以外は怠惰な女性。偏見だが、その時が楽しければいい、そんな類の人間だと勝手に思い込んでいたのだ。
しかし、不思議と抵抗はなかった。
「なら、作ればいい」
俺は組んだ足の上に肘をつき、その手の上に顎を乗せる。
「俺も、陀多やお前には少なからず愛着を持っているんだ。可能な限り力を貸すつもりだ」
周防は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにそっぽを向いた。
「誰がお前なんかに」
「そうかい」
憎まれ口に相槌を返す。
人間関係などその程度で充分だろう。もう互いに分別のある大人だ。些細な衝突があったとしても、譲歩と理解の気持ちさえあれば幾らでも関係を修復できる。
俺と周防は小さく笑い、先日の確執を清算した。
「……うん?」
ふと、喧嘩の物音が途切れていることに気付いた。
顔を上げると、篠と縷々がこちらを見ていた。いや、睨んでいた。
「それは違うんじゃないか?」
そんな俺の言葉も彼女たちには届いていない。
「何、何?」
周防は、彼女たちの無言の圧力に怖気づいたように、俺の腕を掴んだ。
「それは良くない判断だと思う」
「え?」
そう言うや否や、篠と縷々は周防に徐々に詰め寄っていく。
「目が怖いよ、お二人さん」
何とか笑う周防。
が、篠と縷々は止まらない。
「だから、何なのさ!」
周防はソファの背凭れを飛び越え、また地下室に逃げた。
鍵を閉める時間は無かったのか、扉が開き、篠と縷々も地下室に流れ込んでいく。
「もう、勝手にやってくれ」
俺は足を組み直し、首を後ろに倒した。天井には周防の紫煙だろうか、薄っすらと染みができている。そこから首を横に倒すと、窓の向こうに青々とした空が目に飛び込んできた。
太陽はまだ昇ったばかり。
本日の仕事は特に無いようだが、一日はまだまだ長い。これから突然の任務が飛び込んでくるかもしれない。
それでも、今だけなら緩慢な時間を楽しんでも罰は当たらないだろう。
眩しくもないくせに、遥か上空は手をかざさずにいられない清々しさだ。
そんな空が、少しだけこちらに近付いた気がした。
それでも、やはり手は届きそうにない。
ペットボトルは天井に光を乱反射させた。




