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have-not(02)

「何、それ?」

 夕刻前、事務所に立ち寄ると、飛んできた第一声がそれだった。

 大柄(おおへい)にソファに座った周防(すおう)は仰々しく紫煙を吐き出すと、指に挟んだ煙草で俺の足元を指してそう言ったのだ。

 そこでは黒い子犬の縷々(るる)が物珍しそうに辺りを見回している。それにしても、窓が開け放たれているとは言え、室内に充満した紫煙の臭いは気にならないのだろうか。犬の嗅覚は人間のそれとは比べ物にならないほど優れているはずだ。

 ともあれ、事務所は相変わらず無機質だった。物の配置も、その荒れ具合も、照明の明度も、(わずら)わしい空気も、いっそ陰湿と無聊(ぶりょう)渾然(こんぜん)とし、まるで仕方なく時間を重ねているようだ。変わる事を拒むでもなく、ただ忽然(こつぜん)とそこに存在している。

 俺は吐き気を覚え、ポケットに両手を突っ込んだまま、

「本人に聞いたらどうだ?」

 ソファの後ろを素通りし、窓枠に腰掛けた。

 周防が舌を打つ。

 縷々はというと、静かに俺の足元に伏せている。

 窓の外には薄汚れた街が広がっていた。薄っすらと橙色に変わり始める夕日さえ、痩せこけた鬼灯(ほおずき)のように白けている。出来損ないの焼き菓子のみたいに、ぼろぼろと今にも崩壊していきそうな景色だ。

「あ、あの、伽由(かゆ)さん……」

 突然の声に俺は振り返る。

 周防の隣に座っていた(ささ)が立ち上がり、笑みを浮かべていた。その微笑みは酷くぎこちなく、目が真っ直ぐに俺を捉えきれていない。視線は俺に向いたと思えば床に落ち、天井や壁、窓の外を経由し、やっと俺の右肘に落ち着く。

「あの、久しぶりに、髪、結ってみたんです」

 篠は震える唇で無理に笑い、首を斜めに傾げた。その後ろ髪は、(かんざし)でまとめられていた。

 薄い水色の硝子球が光る簪。真鍮の鎖が垂れ、蝶を象った金の彫刻が揺れている。以前、俺が彼女にあげたものだ。

 俺は窓の外に視線を放り、

「そう、似合ってる」

「ありがとう、ございます……」

 落胆したような声に、ソファに座る音が続く。

 そして落ち着く間もなく、慌しい足音が近付いて来た。

「か、伽由さんですよねっ?」

 俺は溜め息を吐き、デスクに腰掛けた。声の主の顔を見ないように、足元を見る。

 床に伏せている縷々は、状況が分かっているのか、呆れたような目で声の主を見ていた。しかし直ぐに興味をなくしたのか、自身の腕に顎を乗せ、目を閉じた。

「馬鹿者、自己紹介が先だろう」

 心底嫌そうに助け舟を出す周防。

「あ、すみません。牛耳(ぎゅうじ)です」

 俺は彼、牛耳を一瞬だけ見た。目を細め、出来るだけ特徴を捉えないように、文字通り挨拶程度の一瞥である。

 誰かが死ねば、直ぐに代わりが用意される。そんな連中を一々覚えていては、脳の記憶容量がいくらあっても足りない。

「お会い出来て光栄です」

 彼が言う。

 俺はしばらく間を取ってから、

「何故?」

「えっ……だ、だって、国使防衛局(こくしぼうえいきょく)で伽由さんの名前を知らない人間はいません」

「答えになっていない」

「え、いや、えっと……」

 口篭る牛耳。

 緊迫した空気が張り詰める。

 最初に沈黙を破ったのは周防だった。

「久々に顔を出したと思ったら、やけに不機嫌だな。お前、何様のつもりだ? 気分が悪い、帰れ」

「ほう?」

 俺は遮光眼鏡越しに周防を睨む。

 しかし、篠が俺を庇うような口ぶりで割り込む。

「す、周防さんっ! あんなことがあったんです、無理もないじゃないですか」

「はっ、無理もない、だって? 餓鬼は黙っていろ」

「っ……」

 周防の尋常ではない威圧に篠が言葉に詰まる。

「同僚が死んだくらいで気を落として、その挙句一週間も職場に顔を出さないなんて、自覚も覚悟も何もかもが足りないんだよ」

「そんな言い方は……」

 周防の乱暴な物言いに篠が言葉を返そうとするが、周防に睨まれ、口を閉ざして俯いた。それは、少なからず篠も周防の意見に同調しているということだ。建前上、俺を庇っているだけで。

 まったく、鬱陶しい。

「同僚が死んだ程度で気を落とした、だと?」

 俺は遮光眼鏡をずらし、裸眼で周防を睨んだ。

「違うって言うのか?」

 周防が負けじと俺を睨み返す。

 俺はデスクの上に転がったペーパーナイフを手に取り、回転させた。

 銀色の刃に、俺の顔が映る。

「ここで貴様を殺して、脳髄の隅々まで答えを教えてやろうか?」

 俺は目で周防を睨んだまま、唇だけをゆっくりと吊り上げていく。目は細め、まるで見えない何かを見ようとするように、冷ややかさを増していく。

 やがて周防は悔しそうに俺から目を逸らし、

「この苛虐趣味が……」

「よく分かってるじゃないか、阿呆の癖に。血に餓えたからここに来た、それだけだ」

 俺は眼鏡の位置を直し、背凭れに寄りかかった。

「お前が望むような仕事はない」

 周防は苛立った様子で煙草を灰皿に押し付け、憎々しげにそう言った。

「そのようだな」

 俺はデスク上に散ばった資料を睥睨し、立ち上がった。そして立ち尽くしている牛耳の脇を通り過ぎる。

「か、伽由さん、あの、私……」

 そう立ち上がる篠。

 俺は彼女の顔を見ないように、ドアへと進む。

 そして、取っ手に手をかけた時だった。

「やっぱり、お前は何も変わってないな」

 周防の声だった。

「お前は極限の戦闘を楽しみたいがために、白露をわざと逃がした。それが事実だ、違うか? 捕らえようと思えばいくらでも出来たはずだ! 所詮、お前はあの頃から何一つ変わっていないんだよ!」

「周防さん!」

「黙っていろ!」

 篠の悲鳴のような叫びも、周防に呆気なく制圧される。

「こいつは、他人の命を奪うことにしか自分の価値を見出せないんだよ! 自分の命を危険に晒さないと喜びを感じられない、気違い以外の何でもない!」

 嘆くような周防の怒声。それは慟哭(どうこく)にも似た響きを持っていた。仲間の死を悲しみ、悩み、その果てに辿り着いた答えを訴えているのだ。

 俺は振り返り、無言で彼女を見据える。

「何か言ったらどうだ? ある意味、白露(はくろ)よりもお前の方が性質(たち)が悪いな」

 周防は立ち上がり、口元だけで笑った。しかし目は鋭く俺を睨みつけ、ありったけの侮蔑と嫌悪を込めていた。

 しかし俺は冷笑し、

「だから?」

 顎を上げ、周防を見下すように正面から睨み返す。

「生物の根源は所詮、生きるか死ぬかの二次言論だ。そこに存在意義を見出して何が悪い? 俺の命を脅かす技量もない低能が、偉そうに説教とは笑わせる。それとも、綺麗事に逃げ道を探しているのか? それこそ、ますます滑稽だな。狭い視野で自分を正当化するのは、自身の意思に固執した学者だけで充分だ。それとも、人間の本質に理論的構成分子があるとでも言うのか?」

 表情を変えずに嘲る俺。

 凄まじい形相で俺を睨む周防。

 拮抗の沈黙。

 やがて周防はソファに座り、

「もう、いい……消えろ。でなければ、私が出て行く」

「明日、同じ時間にまた来る。直ぐに出て行くつもりだが、俺が怖いなら地下室にでも潜っているんだな」

 俺はドアを押し開け、外に出た。

 すぐに取っ手を放してしまったが、縷々は上手くドアが閉まる前に俺の後に続いた。

 夕日は、先ほどよりは橙色を帯びていた。そのまま地平線に飲み込まれて、さっさと夜が目を覚ませばいい。今日という日は、早く眠れ。そして、希望も何もない明日に()()えるといい。そうやって意味のない毎日を、甲斐甲斐しく紡ぎ続けるがいい。

 路地を曲がる直前、後ろから乾いた足音が追いかけてきた。聞き覚えのある、小さくて弱々しい足音だ。

「伽由さん、待ってください!」

 予想していた通り、か細い篠の声が俺の名を呼ぶ。

 少し手前で、足音が止まる。

 足元の縷々は俺を見上げ、振り向いた。

 けれど俺は、立ち止まったが、振り向きはしなかった。何故かは分からない。彼女がどんな表情をしているのか、それを知るのが怖かったからかもしれない。そして、これから彼女がどんな表情をするのか、見たくなかったからかもしれない。

「俺を笑うか?」

 そんな言葉が、俺の口からこぼれた。

「え?」

 意味が分からない、といった感じの篠の声。

 それでも、俺は続ける。

「笑うか?」

「いえ、そんなこと……」

「笑え」

「か、伽由さん?」

 篠の声は震えていた。

 そして俺の脳は、望んでもいないのに、勝手に篠の顔を想像する。

 今にも泣きそうな、けれど無理に笑おうとする儚い表情。凛とした顔立ちが、俺のせいで歪んでしまう悲劇の一斑。それは白百合の花弁に、深紅の雫が滴るような、冒涜の表れだった。道徳や倫理という体系そのものが、俺を否定してしまうような結末だった。

「笑えよ……」

 俺はそう吐き捨て、路地を曲がった。そのまま縷々の歩調も考えず、道を進んでいく。路地を幾度となく曲がり、通りを何本も横断し、人混みを掻き分けて。そして辿り着いた高架下で、やっと立ち止まった。

 どうやらついてこれたらしい縷々は、黙って俺を見上げていた。息づいた様子もなく、平然と。その瞳が、尋ねるような確認するような、そんな何かを告げていた。

「……仕方ないだろう」

 そう呟いた直後、頭上をけたたましい音と共に列車が通過した。

 やがて音が止むと、俺は汚れた壁に寄りかかった。そして、右手にペーパーナイフを持ったままだということに気付いた。

 刃に映る自分と目が合う。

 眠くもない癖に伏せがちな瞼に腹が立つ。

 飄々とした自分を演じ、本当の自分から目を背けて。

 分かっている。

 分かっている。

 分かっている。

 何が悪いのかは、とっくに分かっている。

 くうん、と鳴いた縷々は俺を見ていた。

「……(うるさ)いよ」

 俺はそう呟き、ペーパーナイフで手首に押し当てる

 刃は何の抵抗もなく、脆弱な皮膚を突き破る。

 そのまま肌色の丘陵に食い込んだ。

 山頂部から湧き出る赤い液体は、表面張力を伴ったままドーム上に膨れ上がる。

 やがて一筋の水滴となり、惨劇の破片を唄う。

 胡散(うさん)臭く、押し付けがましく。

 そして俺はナイフを握る手に力を込め、手首を全力で引き裂いた。

 深紅の飛沫は、汚れた地上に艶かしい花を咲かせた。


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