have-not(01)
朝日がおとない、まだ間もない頃。時刻にして午前六時過ぎだろうか。足元に伸びる分身は壁にぶつかり、直角に折れ曲がった後、ぼんやりと佇立した影を描いている。
俺は溜め息を吐き、頭の後ろを掻きながら、その建物の中に入った。
汚らしい酒場である。テーブルや椅子は転げ、瓶やグラス、ジョッキや皿、そして無数のごみが所狭しと散ばっている。あるいは、そこに横たわる三つの死体がなければ、何処にでもありそうな腐敗した場所だ。
若い男二人と、若い女一人の死体。その周囲では背広を着た外事対策局の局員たちが、どれも陰湿な表情を顔面に貼り付け、死体や周囲の記録を行っている。
「おはようございます!」
活気に満ちた女の声が飛んできた。
俺は倒れた椅子を避け、奥に進んだ。
「あ、あれっ、おはようございます!」
声の主は慌しく俺の前に回り込み、しゃんと背筋を伸ばした。
「何だ、俺に言っていたのか」
俺は顎を引き、遮光眼鏡の隙間から彼女を観察した。
背の低い童顔の女だ。いかにも高級そうなスーツに身を包み、茶色に染めた髪が眉や顔の輪郭を隠している。外事対策局の、確か名前は宮森といったか。
「それと、声が大きい。外には通行人だっていることを忘れるな」
「はい、すみません」
反省しているのかいないのか、宮森は笑った。これで現場指揮官補佐なのだという。悪い冗談だ。
「それはそうと、お久しぶりですね、伽由さん」
「覚えていない」
俺は若い男の死体の前で足を止めた。
今時の若者、と安易な表現をするのは憚られるが、死体はそれだけ単純な風貌をしていた。明色に染めた短髪に奇妙に折れ曲がった細い眉、下唇と眉尻に並んだ幾つかのピアス。服装も肌の露出が多いもので、派手な柄が規則性をこじつけている。生命活動を放棄したそれは、眼球が飛び出そうなほどに瞼を押し上げ、咽喉から臓腑が押し寄せてきそうなほど口腔が開かれていた。まだ腐食が進んでおらず、死臭は発していない。
死体というものは、それを疑うほどに、生きている状態と変わらないものが多い。だからこそ、生と死の定義に齟齬が生じる。脳死だとか心停止だとか、うんざりする。だったら、死体と疑えるものすべて、いっそ斬り刻んでしまえばいい。
しかし、残念ながら今の俺は刃物を携帯していない。知らず知らず、辺りに刃物が落ちていないか目で探してしまうが、それらしき物は洋食器しか見当たらなかった。やがて刃物を見つける事を諦め、目を閉じ、開いた。
「失敗作か」
「ええ」
宮森は頷き、
「政策立案局からの報告では、今回の三人は蜜への適合率が高い、とのことでしたが、全滅です。折角、七十二支構想が第十七支に移行したというのに、遺憾です」
「そう上手くはいかないさ」
俺は死体を跨ぐと、裏口から外に出た。
涼しい風に暖かい斜光。路地裏に人の気配はなく、代わりに木材や青色の塵箱が煩雑と並んでいる。空気は澄んでいるが、腐った生物や酸化した酒の臭いが漂っている。実に居心地の悪い空間だ。遠くから響く足音や話し声も、まるで違う世界の物音のようだ。
「凄いことになってますよ」
後ろからついてきた宮森は、俺の顔を覗き込むなり、顔をしかめた。
「何が?」
俺は右手の中指で遮光眼鏡の位置を直し、上着のポケットに両手を突っ込んだ。
「髪とか髭とか、あと服装も」
そう指摘され、俺は自分の服装を見た。
白い開襟シャツに安物のスラックス、そして薄手のロングコートに遮光眼鏡。どれも普段のものとは違って既製品で、不本意ながら着心地が悪いものばかりだ。
「どうでもいいだろう、そんなこと」
俺は前髪を掻き上げ、顎の無精髭を撫でた。
「それより、どうして俺がここに来る必要がある?」
「白露対策です」
きっぱりと言い放つ宮森。
俺は目を細めた。いつかの夜の記憶が蘇り、胸が一瞬ざわつく。思わずこぼれそうな笑みを、奥歯を噛み締めて堪えた。そんな事をしている自分が忌々しく、ポケットの中で手を握り締めた。
「要するに、番犬扱いか」
「そんなところです」
宮森は冗談交じりに笑った。
俺はわざとらしい嘆息を吐き、
「柳里に会うといつもこうだ、面倒事を押し付けられる」
柳里とは、外事対策局の現場指揮官の一人である。本件の現場処理は緊急の会合のために来られず、よりにもよって俺に現場指揮官補佐の補佐を押し付けたのだ。言わずもがな、緊急の会合とは白露の一件についての対策会議だ。
「そう言えば、どうして監督署にいらしたんですか?」
「宿代わりに二、三日泊まっていただけだ」
「家にはお帰りにならないんですか?」
俺は質問に答えず、ポケットから銀紙に包まれたガムを取り出した。歯で銀紙を捲り、緑色の板状の物体を口に入れる。清涼感のある芳香が鼻腔を突き抜け、眼球の裏を撫でる。
「私にはくれないんですか?」
宮森は、俺の手に握られた銀色の包み紙を見た。
「ほら、そこに落ちているだろう」
俺は、地面にへばりついて黒く変色したガムを、顎で差した。
「伽由さんって、とても愉快な性格をしていますよね」
宮森は恨めしそうな目を俺に向けた。
「素敵な皮肉をありがとう……っと、お客さんだ」
「え?」
俺の視線に、宮森が振り返る。
木材の物陰から、小さな犬が姿を現した。痩せ細り、微かに肋骨が浮き出ている。体を支える脚もどこか頼りない。
俺は緩慢に犬に近寄り、静かにしゃがみ込んだ。
「……大丈夫か?」
くうん、と犬は弱々しく鳴いた。逃げる様子もなく、ただ俺を見上げる。
まだ小さい、雌の子犬だ。黒く短い毛に、長く垂れた尻尾。耳は垂れ、鼻は尖っている。虚ろな瞳は深緑色をしているが、なかなか怜悧そうな顔立ちをしている。首輪をしておらず、首輪の跡もない。
俺は子犬の首の後ろを摘み、痩躯を持ち上げた。手に伝わる重力は、生き物と思えないほど酷く軽かった。
「何ですか、それ」
宮森がおずおずと俺の背後から覗き込む。
「知らないのか? これは犬といって、食肉目イヌ科イヌ属の哺乳類で……」
「そんなことは知っています!」
怒ったように声を荒げる宮森。
俺は持ち上げた子犬を彼女に向け、
「食肉目がネコ目ということも?」
「えっ、じゃあ、犬は猫なんですか?」
驚いたように目を見開く宮森。興味が湧いたのか、心なしか上半身が前のめりになっている。
俺は何も答えず、子犬の目を見詰めた。
深緑色の瞳は確かに虚ろだが、その奥では小さな炎が揺らいでいた。それは生きることを強く望み、自分自身を諦めていない証。逞しく、美しい、灯火。その滾る炎が、俺を惹き付けた。
だらり、と脚を下げた子犬は、俺の鼻先を舐めた。
暖かくて柔らかい、ざらついた温もり。
俺は首を傾げ、
「縷々(るる)でどうだ?」
くうん、と子犬は鳴いた。
肯定と受け取ることにしよう。
「あの、犬が猫っていうのは……」
「お前たち、もう切上げるだろう?」
俺は縷々を腕の中に抱き、立ち上がった。
彼女は大人しく腕の中に納まっている。
「は、はい、まあ、もう終わりですけど」
宮森が訝しそうに眉頭を寄せ、俺と子犬の顔を交互に見る。そして無遠慮にも、汚いものでも見るような目と共に子犬を指差した。
「まさか、それ、持ち帰るんですか?」
「なんだ、お前も欲しいのか?」
「い、いりません……」
俺が縷々を差し出そうとすると、宮森は本当に嫌そうに首を左右に振った。
「そうか、身が締まってて意外と美味いのにな」
俺は路地を歩き出した。
「え、ちょ、伽由さん、それ食べるんですか? というか、犬は猫なんですか? 伽由さんっ、伽由さんってば、もうっ!」
背後で騒ぐ指揮官補佐。
「だから、声が大きいって言ってるだろうが、阿呆」
俺は苦笑をこぼし、路地を曲がった。不思議と気分は穏やかだった。路地を抜けると、大通りの一つ手前の通りに出る。
朝方という事もあり、背広を着た男性が多く行き交っている。その中の大半はくたびれた表情をしており、駅の方面から流動性の悪い汚泥のようにだらだらと流れていく。
ここは中心街に近い企業区域。また、駅が居住区との隔たりとなっている。そのせいか、通行人の流れは多く、ほぼ一方通行となっている。
俺は人々の流れとは反対側に歩く。汚れた子犬を抱えているせいか、不愉快な視線を感じる。しかし特に気にせず、人混みを掻き分けていく。
しばらく進むと、落ち着いた路地の端、小さな動物病院があった。まだ営業時間ではないようだが、薄い蛍光灯が点いている。
俺は子犬を落とさないように、建物の中に入った。何とも表現しがたい獣臭さに思わず顔をしかめる。
内部は、獣臭さに目を瞑れば、閑散とした好ましい雰囲気だった。背凭れのないソファ
が中央にあり、色褪せた本棚には動物が表紙を飾る雑誌が並んでいる。隅には餌や動物用の食器、手綱や首輪などの小型の商品陳列棚が設けられていた。
その時、奥から白衣姿の若い男が出てきた。首から聴診器を提げ、頭髪には寝癖が跳ねている。獣医師のようだ。
「申し訳ありません、まだ準備中なんですよ」
彼は湿った焼き菓子のような笑みと共に頭を下げた。
俺は腕の中で虚弱な呼吸を繰り返す子犬を示し、
「分かっているが、こいつを診て欲しいんだ」
「野良犬、ですか……?」
獣医師の彼は、急に真面目な面持ちになり、縷々に手を伸ばした。両手で頚部や腹部の触診を行う。
「そこで拾った。健康状態を診るだけでいいんだが」
「奥へどうぞ」
「感謝する」
俺は獣医師に促されるまま、奥の診察室に入った。
獣臭さが増し、そこに薬品の臭いが混じる。
「この子のお名前は、ああ、拾ったんでしたね」
獣医師は縷々を持ち上げると、中央の台に乗せた。
縷々はというと、落ち着かない様子で台の下を躊躇いがちに覗きこんでいる。
「いや、縷々と言う」
俺の声に、縷々が一瞬振り返る。名前に反応したのだろう。
「縷々ちゃんですか、可愛らしいお名前ですね」
獣医師は子犬の診察を始めた。まず目を調べ、続いて歯と耳、聴診器で心音を聞き、直腸の体温を測り、便から感染症の検査をし、触診で骨格や筋肉を確かめる。
「最近、この街でも野良犬や野良猫をよく見かけます。そのほとんどが飼い主に見放され、捨てられた動物たちです。人間の気まぐれで飼い始め、人間のエゴで放棄する。僕は、そんな人たちが許せない。動物だって人間と同じように感情を持ち、一生懸命に生きているんです。一概にそうと言えないでしょうが、人間が家族に捨てられればきっと絶望するでしょう。動物だって飼い主に捨てられれば絶望し、嘆き、悲しむんです。でも、僕一人ではどうすることも出来ないのが現実です。一部では安易に野良犬や野良猫を拾う事を否定する方々もいますが、僕はそうは思わない。弱者に手を差し伸べる行為は、例えそれが偽善であったとしても、そこに救える命があるのなら肯定すべきです」
獣医師の雄弁を、俺は黙って聞いていた。
しかし彼は自分の手が止まっていたことに気付き、
「す、すみません、失礼な事をっ……」
「いや、その通りだろう」
職業柄、俺がいつまでも縷々を飼えるという保証はなく、そうなると彼女は再び路頭に迷うことになる。
しかし、俺は彼のような誠実な精神でこの子犬を拾った訳ではない。生憎、麗しい正義感など俺の中には存在しない。はて、そう考えてみると、何故この子犬を拾ったのだろう。
そんな事を考えている間に、獣医師の診察は終わった。
縷々は終始大人しくしていた。
獣医師の彼は聴診器を首に掛け直し、
「うん、健康状態は特に問題ありません。ご希望なら栄養剤の点滴も出来ますが」
「いや、不要だ」
俺はコートのポケットからマネークリップで挟んだ札束を取り出した。
「け、結構です、診察だけですから」
獣医師は急に狼狽したように両手を振った。
「診察だけでも充分だ」
俺は構わず数枚の紙幣を棚の上に置き、
「これで足りるかな?」
「こ、こんなに貰えません」
獣医師による診察の相場が分からないが、どうやら足りたらしい。
俺は縷々を抱き、
「営業前に悪かったな。時間がある時にまたくるよ」
診察室を出てそのまま出口に向かおうとしたが、商品陳列棚の前で足を止めた。そしてドッグフードの缶を幾つかと、試供品のシャンプーを掴んだ。
「これも欲しいんだが、さっきので足りるか?」
「は、はい」
俺はドッグフードとシャンプーをポケットに突っ込んだ。
「お大事に」
「お世話様」
一度だけ振り向くと、獣医師の彼は湿った焼き菓子のような顔に戻っていた。
「見掛けによらず丈夫だな、お前」
俺は腕の中の縷々に言った。
彼女は不思議な顔で俺を見上げた。
「さて……」
俺は目を細め、通りを歩き出した。
人混みは今も尚、粘性に流動する。
しばらく歩くと、駅が見えてきた。長大な歩道橋を渡り、居住区に入る。
眼前には閑静な住宅街が広がり、学生や心持ち着飾った女性がちらほらと行き交う。穏やかな光景だ。日常という体系を一つだけ挙げるとするならば、こういったものだろうか。あるいは、人は知らぬ間に平穏を望み、そこに日常という形態を偶像しているのかもしれない。
ふと、小さな公園があった。萎びた緑色と褐色の葉とが半分ずつぶら下がる木々に囲まれ、色とりどりの遊具が一通り並んでいる。
俺はその公園に立ち寄り、ベンチに腰掛けた。縷々をそっと地面に下ろす。そして、ぶるぶると体を震わせる子犬の前に、蓋を開けたドッグフードの缶を置いた。
彼女は待っていたと言わんばかりに、缶の中に鼻先を突っ込んだ。誰も盗りはしないというのに、忙しく口を動かしている。匂いを嗅いだり舐めたりと、始めは警戒するものではないのだろうか。それだけ空腹だったのかもしれない。
ぺちゃぺちゃと、けれど不快ではない食事の音。
そう言えば、俺も朝食を摂っていない。思い返せば、一昨日の朝から何も食べていない。空腹を超越した吐き気が、そろそろ胃が捻れるような痛みに変わる。しかし死ぬ訳でもない、その頃でも遅くはないだろう。
そんな事を考えていると、食事の音が止んだ。
縷々は空になった缶を前に、真っ赤な舌で鼻先を舐めながらこちらを見ていた。何が言いたいのだろう。俺の上着のポケットに、缶がもう一つある事を知っているのかもしれない。
俺はもう一つの缶の蓋を開け、空になった缶と入れ替えた。
「待っていろ、水を汲んでくる」
聞いているのかいないのか、縷々はドッグフードを夢中で食べている。
俺は公園の箸にある水道で缶を何回か濯ぎ、そこに水を注いだ。
それをこぼさないようにベンチまで戻ると、縷々は食事を済ませ、また口の周りを舐めていた。
「ほら、公園名物の水道水だ」
地面に水が入った缶を置くと、縷々は水を飲み始めた。舌の裏側を使って器用に水を掬い、飲んでいる。やがて水を飲み干すと、深緑色の瞳をこちらに向けた。先ほどと同じ、物干しそうな目だ。
「なんだ、御代わりか?」
俺は缶を二つ広い、水道に向かった。途中、片方を屑篭に放り投げた。
からん、と屑篭が耳障りのいい音を立てる。
縷々は俺の後ろをついてきた。公園を走り回るでもなく、逃げ出すでもなく、俺の後ろを歩いている。付かず、離れず、まるで俺の影にでもなったかのように。
俺は缶に水を注ぎ、縷々の前に置いた。
縷々は水を半分ほど飲むと、顔を上げた。
「もういいのか?」
俺は残っていた水を流し、缶を屑篭に捨てた。
当の縷々はすっかり元気になってしまった。後ろ足で首を掻き、跳ねるように足踏みをした。深緑色の瞳には活気に満ち溢れた炎が宿り、四肢の筋肉は隆々としている。浮き出た肋骨も心なしか薄れているように見えなくもない。人間が貧弱なだけなのかもしれないが、犬というのはこうも回復が早いものなのだろうか。
閑話休題、最後の仕上げが残っている。
「ほら、仕上げだ。傷付けまいと黙っていたんだが、お前、臭いぞ」
俺は袖を捲くり、使い切りのシャンプーをポケットから取り出した。水道の水を緩く出し、縷々に手招きをする。
それで事態を察したのか、彼女は踏み出そうと前足を上げ、一歩後退した。明らかに嫌がっている。賢さも過ぎると面倒だ。
俺は水に手を入れ、軽く両掌を擦った。
「ほら、平気だから」
季節が秋ということもあり水は少し冷たかったが、嘘は吐いていない。
ところで、犬に言葉は通じるのだろうか。通じると述べる学者もいるが、些細な仕草や表情から察知すると述べる学者もいる。どちらにせよ、人間が犬の言葉を理解できない以上、意思の疎通は完全ではない。結局、答えは犬に聞いてみなければどうにもならない。そんな矛盾論に逃げ込むしかない。
そう言いつつも、俺は何度も縷々に話しかけている。これまで愛玩動物を飼育した経験はないが、そういうものなのだろうか。言語が通じるか通じないかの問題は別として、もしかしたら無意識に言語が通じるとして認識しているのかもしれない。
やがて縷々は意を決したように、恐る恐る水道の下に入った。直後、やはり水が冷たかったのか、脚が硬直し、垂れていた尻尾も跳ね上がる。耳は垂れたままで、助けを求めるような瞳で俺を見る。
「ぬ、反抗的な目だな」
俺は縷々の鼻先を突くと、彼女の背中を軽く撫でて、全体を湿らせた。そして水を止め、シャンプーを直接毛並みに注いだ。乳白色の液体を全て注ぐと、掌を使って全体に馴染ませ、指で擦る。毛並みが柔らかく、上等な毛布のような感触だ。
泡立ってくると、次第に縷々は気持ち良さそうに目を細めた。尻尾も垂れている。
首や脚、横腹を泡立てると、水道の蛇口に手をかけた。
びくっ、と縷々の体が強張る。
「多分、冷たいと思うが……」
一応そう断ってから、ゆっくりと蛇口を捻った。
案の定、縷々は体を緊張させた。しかし暴れる様子はなく、大人しくしていた。
泡を流し終えて水を止めると、俺は思い出したように縷々から離れようとした。
が、遅かった。
ぶるぶるぶるっ、ぶるるっ。
「……」
縷々が体を震わせ、俺は頭から爪先までびしょ濡れになった。
当然ながら、彼女は何事もなかったように俺を見やる。
「お前ね……」
俺は苦笑した。立ち上がり、シャンプーの容器を屑篭に放り投げてから、コートに付いた水滴を手で払った。遮光眼鏡を外し、レンズを袖で拭く。それから眼鏡をかけ直し、髪を掻き上げた。考え方によっては、安物の服装でよかったのかもしれない。
天気は清々しい秋晴れ。縷々も俺も、しばらく歩けば乾くだろう。
俺は立ったまま少し思案した後、子犬に目配せしてから公園を出た。
一方の縷々は、繋いでもいないのにちゃんと俺の後ろをついてくる。アスファルトと爪が擦れる、律動的な音が弾む。その黒々とした毛並みが斜めに降り注ぐ陽光に照らされ、美しく光り輝く。まるで黒曜石のようだ。濡れているのか乾いているのか、先ほどのくすんだ色とは違い、艶やかに筋肉の躍動に従って波打っている。
白い犬を連れた婦人とすれ違う。その大型犬は野太い声で縷々に吠え、手綱を引っ張った。飼い主は頭を下げ、犬を引き摺るように忙しく去っていった。
対して子犬の縷々は、吠える犬には大した興味もなさそうに、黙って俺の後を歩いていた。
「やはりお前、賢いな」
俺は小さく笑った。そして駅に向かおうとして、止めた。犬を連れて電車に乗る訳にはいかないので、ひとまず駅とは反対方向に歩き出した。
「さて、どこに行こうか」
返事をする訳でもないのに、俺は縷々に話しかけた。
彼女は窮屈そうに俺を見上げた。
それにしても、この子犬はどうして俺についてくるのだろう。野犬は人に対して警戒が強いと言うが、初対面の人間にこれほどすぐに懐くものなのだろうか。それとも野犬ではないのだろうか。
そもそも、俺はどうしてこの子犬を拾ったのか。先ほどの自問自答が蘇る。しかし、答えは見つからなかった。
足を止め、空を見上げた。
一拍遅れ、縷々の足音も止まる。
空は青く、先日まで随分と降り続いた雨が嘘のそうだ。
そろそろ空気が乾燥し、冬にかけて空が遠くなる。
しん、と澄み渡る蒼白に、虚空の輪が漂うだろう。
俺は目を細め、足元の子犬を見た。
彼女には、空がもっと遠く見えるのだろうか。
「俺はお前が羨ましいよ、縷々」




