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sweet like sugar

人は誰もが、自分は自分だけの主人公であり、その生き方がどうであろうと、肯定すべき情緒である。そして、その中で見い出す小さな幸せを噛み締める喜びを否定する権利は、誰にもない。

 時刻は日付を跨いだ深夜。

 窓の外では半分ほど欠けた月が夜空に張り付いている。青白い光を振り撒き、けれど街の明かりのせいで、その輝きは死んだ魚の目のように濁っている。

「……空が、低い」

 自分の唇から漏れた言葉に目を細め、俺は月から目を逸らした。踵を返し、窓枠に腰かける。

 眼前には洋風の豪奢な部屋が広がる。この宿泊施設で最高ランクの、いわゆるスウィートルームと呼ばれる部屋だ。フローリング面積が無駄に広く、こだわっているのであろうインテリアが優雅に鎮座している。必要以上に光を照り返すサイドボードやテーブル、首を傾けた硝子製の電気スタンド、不気味に盛り上がったソファ、安眠できるのか疑問を持たずにはいられない天蓋付きのベッドなど。俺の趣味に合わないものを挙げるときりがない。しかし、残念ながらここが今回の仕事の舞台となる。

 仕事の内容は至って単純。この部屋に小汚い鼠がやって来るので、それを駆除するだけ。仕事の詳細について特に規定はない。罠で後ろ足を挟もうとケージに捕らえようと、文字通りにこの場で駆除しようと、全て俺の裁量に任せられている。そして俺も、俺自身の主導権を気分の裁量に委ねている。つまり、気分次第ということ。

 ふと、鼓膜が微かな空気の振動を捉えた。入り口の電子錠を解錠する音だ。やがて扉が開く音と同時に一つの足音が響く。

 この部屋は寝室にあたる。頼りない木製の扉だけが、入り口を抜けると広がるリビングとはを隔てている。

 俺は窓枠から腰を離し、壁に立て掛けた刀を手に取った。

 刀身が緩やかに歪曲した日本刀。鞘に収まったそれは、まるで深い眠りについた獅子のように、そこにあるだけで圧倒的な威圧感を放っている。

 やがて足音が止まり、扉の取手が回った。そして微かな軋みと共に扉が開き、男が入ってくる。

「やあ、お帰り」

 俺は首を傾げ、囁いた。

 その声に男の顔が跳ね上がる。目を見開き、驚愕した表情を浮かべて。

「誰だ、お前」

 男は身構え、警戒しながら後ずさる。

 自分の部屋に帰ってくると見ず知らずの他人が居たのだから、当然の反応だろう。しかし、こういうまどろっこしい展開は、やはり何度体験しても鬱陶しい。自然、こちらの対応もきつくなる。

「さて、どう説明するべきか……」

 俺は片目を細め、左手で刀の鞘を掴んだ。

「何だよ、それ!」

 悲鳴に近い男の叫びを他所に、俺は刀を解放した。

 その刀身は凶々しく光を乱反射する。

 男の目はますます開かれ、直後、咄嗟に背を向けた。扉を蹴飛ばし、逃走を図る。

 こういった窮地において、防衛本能を行動に移せる者はそう多くない。怯み、あるいは混乱し、ただ立ち尽くす者が大半だ。そういう意味では、生物として正しい判断と評価できる。しかし、逃走という行為が時として無意味であるということは、往々にしてあり得ることだ。

「さあ、説明代わりの戯れだ」

 俺は溜め息混じりにそう呟き、鞘を放り投げる。

 次の瞬間、地面を蹴った。

 加速するまでもなく、一瞬でトップスピードに乗る。

 疾走。

 吹き抜ける颶風と化し、そのままリビングに飛び込む。

 無様な足取りで逃げる男に容易に追い付き、その後頭部を左手で鷲掴む。

 そのまま強引に床に捻じ伏せた。

 しかし、男は顔面を床に打ち付けながらも暴れ、俺の手から逃れる。

「何だよっ、何なんだよ!」

 そう喚き散らす男は、鼻や口の端から血を垂らし、転げるように俺から距離を取った。そして壁にすがりつくようにして立ち上がり、肩で大きく息をしながらも血走った目で俺を睨む。その顔面の流血は、既に止まっていた。

「ちっ」

 思わず舌打ちがこぼれ、俺は眉を寄せた。

 予想していたよりも威勢が良い。

 男は声にならない呻き声を発し、壁に背中を押し当てる。少しでも俺から距離を取りたいのだろう。目を泳がせながら、必死に逃走の機会を探している。

「刀は脅しだけにしたかったんだがな」

 柄を握り直し、膝をたわめる。

 俺の言動に男の体が僅かに硬直した。

 その隙を見逃さない。

 俺は男との距離を一瞬で喰い尽くした。

 そのまま体勢を低く構え、滑り込むように右足で踏み込む。

 連動して捻る上半身。

 爪先、足首、膝、腰、胴、肩、肘、手首、指先。

 身体の最短距離を回転エネルギーが駆け巡る。

 腕を振るい、下段からの斬撃を放つ。

 そして、刀の切っ先が確かな重みを捕らえる。

 ぞぶっ。

 右下から左上へ、斜めに流れる一閃。

 その閃光は、男の右腕を容赦なく切り落とす。

 肉片と化した腕は重力に逆らえず、落下する。

 一瞬の静寂。

 やがて液体と個体が同時に床を鳴らす不快な音。

 そこでようやく男は自らの腕が切断されたことに気付く。

 そして、絶叫。

「ぐぅぁぁぁぁあっ!」

 耳をつんざくような叫び声。

 右腕の切断面からは真っ赤な鮮血が吹き出す。

 必然的に、男は反射的に傷口を左手で押さえようとする。

 その僅かにのけ反った男へ、俺は更に右足で踏み込んだ。

 それと同時に刀を握る手首を返し、左から右へと腕を振るう。

 抜刀の軌道で左下から右上へと、高速の斬撃を放つ。

 そして、右手が手応えを捉える。

 ごりっ。

 柔らかく、一瞬だけ固い感触。

 鋭利な刃が、右腕の切断面を押さえようとした左腕を剪断する。

 切断された左腕は天井近くまで跳ね上がり、放物線を描く。

 その肉片が床に落ちるよりも早く、俺の脳は体を次の動作に繋げようとする。

 振り抜いた右腕の勢いをそのままに、右足を引き、左足を軸に体を回転する。

 そして右足の踵を男の脇腹に叩き込んだ。

 抉るような、後ろ回し蹴り。

 遠心力を利用したその一撃は凶器と化し、男の肋骨を砕き、内蔵を押し潰した。

 呻き声を漏らし、男の体が弾ける。

 離れ際、回転しながら男の胸部へと刀を水平に走らせた。

 的確に肋骨の隙間を引き裂き、循環器官を破壊する。

 男は汚泥のような血液を撒き散らしながら壁に激突し、床にずり落ちた。

 激しくむせる男を他所目に、俺は刀を床に突き立てた。そして懐から銀色のケースを手に取り、中から薬品と注射器を出す。手早く薄い青色の液体をシリンジに装填し、注射針を男の胸部に突き立てた。プランジャを押し込む度に男の体が痙攣するが、構わず薬品を全て流し込む。

 やがて男は口の端から黄ばんだ泡を吐きながら意識を落とした。

 見ると、男の両腕と胸部の傷は血が止まりかけていた。

「格好の鼠だな」

 俺は刀を床から抜き、一振りし、血糊を払った。それから寝室に転がる鞘を拾い上げ、刀身を収める。

 改めて辺りを見渡すと、室内は男の血液で赤黒く染まり上がっていた。

 深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 全ては数十秒の出来事。けれど、世界の事象のほとんどは一瞬の出来事に過ぎない。それがどんなに大きな意味を持っていようと、後日談の方が遥かに長いものだ。

 俺は最後に、意識を低下させた男を一瞥し、さっさと出口へと歩き出した。空気を肺に送る度に胸焼けに似た嫌悪感が胸の奥に蟠る。まるでむせ返るような湿度を吸い込んだ気分だ。

 と、廊下の途中で急に足が重くなり、息苦しくなる。

「んっ……」

 思わずその場に片膝をついてしまう。

 気付いた時には、呼吸が上手く出来ない。

 胸元を掴み、口を開ける。

 しかし、気管に穴を開けられたように、肺に空気がたどり着かない。

 弾ける心拍数。

 耳の裏で鳴り響く鼓動が煩い。

 その時、人の気配を察知。

 咄嗟に顔を上げる。

 何も出来ないまま、正面にいる人物と視線が合う。

 黒のロングコートに身を包み、床に膝をつき、胸を押さえた男。氷のように鋭利で冷涼な顔立ち。特に目付きが鋭く、まるで獰猛な猛禽類のよう。肩にかかりそうな黒髪はほったらかしで、所々が痛んでいる。

 それは、目の前の鏡に映った自分だった。

「あ、くっ……」

 そうこうしている間にも、次第に頭が重くなる。

 貧血に近い感覚だ。

 視界の端が徐々に白く染まり始め、三半規管が狂ったかのように平衡感覚がおかしい。

 鼓動の音と振動とが、頭を殴打されたような衝撃に変わる。

 呼吸が止み、視界が白濁し、意識が沈殿する。

 やがて床に体が沈んでいく。

 体を支えるためについた手さえも、地面にのめり込んでさしまう。

 どうにかしようと足掻くも、体は床に沈んでいくばかり。

 胸まで沈んだ頃にはもう諦め、大人しく床に飲み込まれていく。

 そして、俺は目を覚ました。

「……阿呆が」

 小さい呻き声が溶ける。

 朝の日差しに沈む寝室。微かに開いた窓からの風でカーテンが揺れ、その隙間から日差しが断続的に降り注ぐ。サイドボードに置かれた時計が午前八時過ぎを示していた。

 寝台の上で、俺は深々と溜め息を吐いた。頭を掻き、クリーム色の天井を眺める。まだ半覚醒の脳は、まるで試験管にでもなったかのように中で化学反応が起こり、判別不能な感情が次々と生成されていく。寝起きのせいだろう、体が泥のように重く、思考も非常に鈍い。それに耐えきれず、額に手を当てた。確か、あの夢は先月辺りの出来事。つまり、実体験を夢に見ていたことなる。どうして夢の中では、それが夢だと気付けないのだろう。人知れず恥をかいた気分だ。

 ふと、頬に柔らかいものが触れた。

 首だけで振り向くと、(ささ)が俺の頬に手を伸ばしていた。

「随分とうなされていましたけど、大丈夫ですか?」

 透き通るような声色に、体の緊張が抜けている。

「……大丈夫」

 俺は薄く笑って見せた。

 けれど、彼女は尚も心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

「顔色が凄く悪いです」

「ありがとう、本当に平気だから」

 苦笑しながら篠の頬に手を伸ばし、柔肌をそっと撫でた。

 彼女はくすぐったそうに目を細め、俺の手に小さな手を重ねた。

 十代後半から二十代前半のどの年齢にも見える女性、篠。雪原のような白い肌に細い顎、伏せがちな目に長い睫毛、整った鼻梁に形の良い桜色の口唇。胸元まである絹のような黒髪は両側に分けられ、可愛らしい額が覗いている。白いシャツだけをまとった華奢な体をシーツで覆い、微かに見える胸の膨らみが、呼吸に従って上下していた。

「起きよう。怠けるといけない」

「はい」

 俺は寝台から起き上がり、来ていたシャツをソファに脱ぎ捨て、クローゼットを開けた。篠の着替えを見ないように配慮しながら、手近な開襟シャツを手に取る。

 背後ではシーツを押し退ける音の後に、裸足でフローリングを踏む音がする。そして衣装箪笥を開け、シャツを脱ぎ、衣服をまとっていく音。その所々に彼女の恥じらいを含んでいた。

伽由(かゆ)さん」

「ん?」

 突然呼ばれ、俺は白色シャツに袖を通し、釦を閉めながら振り向いた。

 すると篠は白いブラウスを、釦を閉めずに羽織っていた。そのせいで上下の純白の下着が露になっている。

「伽由さん……」

 彼女はもう一度俺の名前を口にした。頬を薄紅色に染め、微かに目を潤ませて。

 その物欲しそうな表情に、思わず微笑が込み上げる。

「そう言えば、まだだったね」

 俺は篠の頬に手を宛てがい、親指で薄い唇をなぞった。そして耳に触れ、髪を指でとかすように撫でる。

 彼女は恥ずかしそうに口の端を軽く結び、視線を斜め下に泳がせていた。

 やがて、緩やかに交わり合う視線。

 俺は篠の顎に指先を添え、口元と目元を和らげる。

「おはよう、篠」

「おはようございます、伽由さん」

 篠もつられるように微笑んだ。

 顔を近付けると彼女の髪の匂いが鼻腔をくすぐり、そっと彼女の顎を引き寄せた。

 ぶつかる吐息。

 触れずとも温もりを感じる距離。

 俺は目を細め、彼女は目を閉じた。

 そして、重ねる唇。

 一度離れ、躊躇いがちに視線が出会い、再び重ねる。

 二度目は一度目よりも、少しだけ長く。

 胸の奥の、更に奥深くに暖かい何かが溶けていく。心が満たされたような感覚だ。

 こんな時、人間とは実に単純に出来ている、そう思わずにはいられない。大切なものを手にし、その温もりを確かめる度に、こんなにも日々という時間の連なりが掛け替えのないものに思えてしまうのだから。

 ふと、遠くで飛行機が飛んでいる音が聞こえた。

 それは夏の名残を微かに含んだ、初秋のある日。

 静かに揺れるカーテンは、ただ柔い風の訪れを告げていた。

 三度目の口付けは、そっと触れるだけ。


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