第7話 静かなる監視
「か、火事だっ!」私が叫ぶや否や、クラブの従業員たちが血相を変えて駆け寄り、消火に奔走し始めた。
しかし、特筆すべきは会員たちの態度であった。
誰一人として取り乱すことなく、まるで火災すらこの由緒あるクラブの品位の範疇であるかのように、静かに成り行きを見守っていた。
レコードの針が奏でる音楽すら、なお微かに耳に届くほどであった。
私は震える手でグラスを卓上に置き、そそくさとその場を後にした。夜の冷気が、熱を帯びた頬を軽く撫でた。
ほどなくして、何事もなかったかのように、ハーデットもクラブの扉を押し開けて姿を現した。
「ハーデットさん! あなた、いったい何をしているんですか!」
彼は私が声を荒げる様子を見て楽しんでいるようにみえた。
「新規会員名簿を見ていたのさ。暖炉の隙間から拾い上げた手紙と同じ筆跡を持つ人物を一名みつけたよ。名前と住所も手に入れた。これで事件の骨格は整ったと言っていい」
「いや、そう淡々と言われましても……。あやうく火事になるところでしたよ!」
「驚かせて悪かったね。あのカーペットはウール製だから、表面がアルコールで濡れた状態であれば燃え上がるのはせいぜい毛先部分だけで、一時的に派手な火柱はあがるものの燃え広がることはないんだ」
何でもないように説明する彼の姿に、私はあいた口がふさがらなかった。
狂人の行動としか思えないあの行動についてもっと言及があるべきと思っていたが、すでに自分が手にした功績について説明をし始めた彼に対して、私とは住む世界が違うのだと改めて感じた。
「さて、今から僕は犯人宅に乗り込むつもりだ」
「え、今からですか? もうすでに犯人は街を出たのではないでしょうか」
「欄干で足跡といっしょにペンキのあとを見つけたと言ったのを覚えているかい? あれはウェルモア区で使用されている工事用の塗料だ。同じく、あの欄干の巻き上げ機――あんな重量物を個人が保有することはあり得ない。職場から借りたものならば、返却のために必ず現場に立ち寄るはずだろう。逃亡はそれからだ。おそらく動くのは明朝。今なら間に合う。こうも早く事件を追うことが出来たのは君の絵のおかげだよ」
ハーデットは感謝の念を淡く口にしたが、私にはそれが謙虚な表現に過ぎないとわかっていた。事実、彼はこの冒険の核心に、まっすぐ到達している。
彼の奇行に憤っていた私の怒りも軽いボヤ程度で見事に鎮火されたようで、今はまた、事の終局を見届けたいという抑えがたい衝動に駆られたため、同行を決意した。
我々は馬車を求めて大通りへと足を向けたが、私の心はすでに過ぎ去った数刻の出来事にとらわれていた。彼の手際ときたら、まるで魔術のようであった。欄干に残された微かな痕跡も、葉巻室に隠された秘密の通路も、彼は素早く読み取り次々と手がかりを手中に収めていったのである。
その間、私は彼の推理を遮るまいとあえて沈黙を守っていたが、今や我々の歩みにも余裕が生まれていたのを肌で感じていた。私はこの機を逃すまいと胸にあった疑問を口にした。
「しかし、よくもまあ、あのように造作もなく隠し通路を見つけられたものですね」
「僕はエクリプス・クラブへ足を踏み入れる前から、すでにそこにある隠し通路の存在については目星をつけていたんだ」
「まさか!」
「うそじゃない。クラブの暗い噂を聞いていたし、殺害後に堂々と遺体を運び出すなどという真似は、どう考えても現実的でないからね」
衝撃を受けて次の言葉が見つからずにいる私をよそに、ハーデットは辻馬車をつかまえると、馭者にロクストン区の貧困街へ向かうよう伝えた。
悪路に揺られながら到着したのは、古いレンガ造りのテネメントが密集する地域だった。煙突や壁は石炭の煙やすすの影響で黒ずんでいるだけでなく、ひび割れ等も目立っている。そのうちのひとつが我々の目的地であった。窓はカーテンで覆われていたが、隙間から中の様子をうかがうことができた。家主は留守のようだ。
「どうやら我々は早すぎたようだね」ハーデットはなかば誇らしそうに言い放ち、「だがもう間もなく戻ってくるだろうから待機していよう」
人ひとりが立てる程度の細く陰気な路地に捨てられた廃材へ身を隠し、息を殺してその時を待った。周囲には古びた家具の残骸や、誰かが捨てていった衣服の切れ端が積もり、すべてが長年の煤と湿気を吸って黒ずんでいる。
壁に背を預け、私はコートの襟を立てた。湿っぽい霧が骨の芯まで染むように体を冷やした。
ハーデットは無言のまま、わずかに身を乗り出して様子を窺っている。
長いような、短いような時間は突如として終わった。
家主が帰ってきたのだ。
タイミングを見計らい、ハーデットは颯爽と飛び出した。