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第6話 仕上げの炎

「なかなかの遊び心じゃないか」


「お、驚きましたね。いったい、このクラブは何なんです?」

「むかしから黒い噂の絶えないクラブなんだが、今はそれを話している暇はないんだ。先へ進もうじゃないか」


 ハーデットが壁にかかっていた蝋燭ろうそくを一本取った。我々はその淡い明かりを頼りに細い入口を、すこし体を縮こめて通った。湿った空気が肌を撫で、古い木の匂いと、わずかに鉄錆びの匂いが鼻をつく。壁沿いに設置された燭台を灯しながら調査を開始した。


 壁はむき出しのレンガ造りで、一部は黒ずんで剥がれかけている。壁の目地には長年の湿気が染み込み、所々苔が生えている。天井はアーチ型になっており、そこには木のはりが無造作に組まれ、ところどころヒビ割れ腐りかけている。


 足元は石畳と木の床板が交互に敷かれていたが、何世代にもわたって補修されてきた形跡があり、剥がれた床板の隙間から下の土が覗いている。靴を踏み入れるたびに湿った音が響き、床板が沈む感覚が足裏に伝わる。


「見たまえエヴァンス君! 足跡だ! それにどうやら、橋の欄干で見たものと合致するようだよ」興奮気味に、しかし抑えた声でいう彼の指すほうへ目をやると、確かにかかと部分が特徴的な足跡があった。


 私は、私にもわかるほど明瞭めいりょうな犯人の痕跡を見たことで、麻痺していた恐怖心がふつふつと沸き上がってきてしまった。もしかしたら、猟奇的りょうきてきな殺人を犯した人間が目の前の闇に潜んでいるかもしれないのだ。


 我々は足跡をたどりながら、慎重に通路の奥へと進んでいった。すると通路は徐々に狭まり湿度が増した。壁の隙間から地下水が染み出し、天井から水滴がポタポタと落ちる。音が反響し、周囲に誰もいないはずなのに、まるで何者かの気配がついてくるような錯覚を覚えた。


 やがてレンガ造りの通路は終わり、岩肌むき出しの洞窟風の空間へと出た。床は滑りやすい湿った石で、靴底がじわりと濡れるのがわかる。どこか遠くで川の流れる音が響く。


 たどり着いたのは、重厚な木製の扉だった。長年使われてきたのか、蝶番ちょうつがいは油が切れて軋み、ハーデットが慎重に開けると不吉な音を立てた。


 さらに短い階段の先は行き止まりかと思われたが、蝋燭ろうそくを手にしたハーデットが暗闇のなかで人差し指を口にあて、静かにしゃがみこむ。


 手にした蝋燭の明かりでぼんやり浮かび上がる頭上の木板に片手をあて、ゆっくり持ち上げる動作をすると、ごくわずかに木の蓋が浮き上がった。音を立てぬよう慎重に持ち上げ、安全を確認したあと這い上がった。


 海水と淡水が合わさったときの独特な、潮と石が交じったような匂いがかすかに漂っている。抜け道が通じていたのは、死体浮遊のあったグリムウォード・ブリッジの下を流れるノクス川沿いの古びた木製の小屋だった。その床が隠し扉になっており、我々が通ってきた道へと繋がっていたのだ。


 手にした蝋燭に息をふきかけて小屋の外に出たハーデットに続くと、月明りに照らされて、小型の船を係留けいりゅうできそうな古びた木製の桟橋さんばしが横たわっていた。石造りの階段が地上まで伸びており、階段をのぼった先に倉庫風の建物もある。


「おそらく密輸業者のものだろうと思う。この手動式の貨物リフトなんかはとくに明示的だよ。そして犯人もそれを知っていたんだ。だからエクリプス・クラブを殺害場所に選び、この通路や貨物リフトを使ったんだよ」

「ハーデットさんの推理によれば、犯人は建設作業員なんですよね? どうしてそんなことを知っていたのでしょう」

「鋭い指摘だね。もしかしたら建設作業員という職業柄、建物の設計図なんかを見る機会があったのかもしれないし、もしくはクラブに入会したあと他のメンバーにこっそり教わったのかもしれない。どちらにせよ僕は、犯人が偶然によってこの隠し通路の存在を知ったのだとは考えていない」


 ハーデットが貨物リフトのクランクを注意深く観察しているあいだ、私はぼうっとノクス川の流れに視線をやった。


 川風が湿った空気を運んでくるなか、私は自分の鼓動が妙に速いことに気づいた。


 事件の核心に迫っているという興奮かと思われるが、それと同時に、人の死という重さを前にした戸惑いでもあった。なにか得体のしれない力の仕業に思われた事件も、ハーデットの捜査によってだんだんと人間味を帯びてきたことが原因かもしれない。


 短い思索にふけっていると、ひととおり調べ終えたらしいハーデットがとなりにやってきた。


「ここまで強い憎しみを感じる事件はそうないよ」

「また憎しみ、ですか」

「うん。それがこの事件の肝になっていると思う。……ところで、大丈夫かい?」

「ええ、すこし疲れが出ただけかと」

「そうか、ならよかった。……悪いんだが、やり残したひと仕事を済ませたいんだ。もういちど戻る元気はあるかい?」

「もちろんです」

「その意気だよ」そういって踵を返したハーデットに私も続き、我々は灯した燭台しょくだいの火を消しながら道を戻った。


「もうひと仕事、というのはこれのことですか?」

「まあ、ある意味ではね」


 私はなかば驚いた声で聞いてしまった。というのも、調査の続きをするのかと思った矢先にハーデットが向かった先はバーカウンターで、暖炉前で待つよう言われた私のもとに戻ってきたときにはグラスに入れたコニャックを両手にしていたからだ。


「我々の出会いに」


 そういうハーデットに合わせてグラスを鳴らした。グラスを傾けると、濃く、甘く、重い液体が喉を焼いて腹に落ちた。私は軽く咳払いをし、鼻から吸った空気にコニャックの深い香りを感じながらハーデットに聞いた。


「もう事件は解決したのですか?」

「あとは仕上げをするだけだよ。なに、些末なことさ」

 彼はそう言ってグラスに軽く口をつけた。


「さて、僕はお手洗いにいってくる」そう言うと、彼はグラスを振り上げ、なんと中身を暖炉めがけて無造作に投げ捨てたのだ。


「なっ……」私は目を見張った。


 高濃度の酒精に誘われ、暖炉の炎がたちまち猛々しく舌を伸ばし、カーペットへと燃え移る。


「か、火事だっ!」私が叫ぶや否や、クラブの従業員たちが血相を変えて駆け寄り、消火に奔走し始めた。

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