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第5話 月蝕のクラブ

 殺害現場であるグリムウォード・ブリッジからそう遠くない場所に、そのひときわ異彩いさいを放つ建物はあった。


 ヴィクトリア朝の意匠いしょうらした堂々たる造りで、黒ずんだ煉瓦れんがと彫刻のほどこされた石材が組み合わされ、長い歳月さいげつに耐えてきた風格をたたえている。壁面には精巧な装飾が施されているが、ガス灯の明かりに照らされて、かすかな金色の輝きを見せるに過ぎない。窓は高く、重厚な鉛枠なまりわくにステンドグラスがはめ込まれ、そこには欠けゆく月の紋章が描かれていた。このような、クラブ名にちなんだ月蝕げっしょく(エクリプス)を思わせる鈍い金色や銀色の装飾は鉄柵てっさくにまでもさりげなく施されている。


 見上げると大きなステンドグラスの窓があり、ランプの光で幻想的に輝いていた。これも単なる丸窓ではなく右側の一部分が欠けていた。


 両側にガス灯が並んだ石造りの短い階段をのぼり、金細工の装飾が施された分厚い黒檀こくだんの両開きの扉をくぐった途端、外の湿った霧と喧騒はたちまち遠のき、そこにはまるで別世界のような静寂と温もりが広がっていた。


 豪奢ごうしゃな内装が、この建物の歴史と格式を物語っている。深い赤の絨毯が廊下を覆い、重厚な木の壁には精緻せいちな装飾が施されている。足元に響く音は驚くほど柔らかく、歩を進めるたびに、まるでこの場所そのものが客人を受け入れるかのような感覚を抱かせた。


 天井から吊るされたオイルランプは、長い年月を経たものだろう。そのくすんだ金属の枠にはかつての手入れの跡が見て取れる。ゆらめく灯りが壁の額縁を照らし、肖像画の人物たちに生気を与えているかのようだった。遠くでは、燃えさしの暖炉がぱちぱちと音を立て、わずかに煙の匂いを伴う暖かな空気を広げている。


 葉巻とブランディの香りが、ほのかな甘みを伴って鼻をくすぐる。革張りのアームチェアに深く沈み込んだ紳士が分厚い書物を手にしながら、ゆったりと煙を燻らせているのが見えた。その傍らには磨き抜かれたマホガニーの小卓しょうたくが置かれており、そこでは琥珀色の液体がグラスの底を濡らし、銀のトレーに並ぶ葉巻の箱が黙座していた。


 奥の一角では、古い蓄音機が低くうなりを上げている。静かに針が盤をなぞり、クラシカルな旋律が、まるでこの部屋の一部であるかのように溶け込んでいた。


「失礼。少し見学をさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」ハーデットが微笑をたたえながら受付の紳士に尋ねた。

「ええ、ええ、もちろん歓迎いたしますよ」

「ありがとう。実はとある会員に紹介されまして。小柄で恰幅かっぷくの良い、八の字型の口髭の紳士なのですがね」

 今ハーデットがあげた特徴は殺害された被害者のものだ。

「その会員というのは、もしかしてハミルトン様でしょうか?」

「それが変な話で、名前を存じ上げないのですよ」

「左様でございますか。今日もお見掛けしておりますから、中でお会いできるかもしれません」


 あの奇怪な空中浮遊をした男が今夜この場所にいた。私は驚きの声をあげるのを、はっと息をのむことでどうにか抑え込んだ。超自然現象によるものとしか思われなかった事件が次々と紐解かれていく現実が信じられなかったのだ。同時に、魔術師同士の人智を超えた戦いを見ているような、そんな感覚も抱いていた。


 私とは対照的に、すべてを見透かしたような静かな表情を湛えたハーデットに付いて私もクラブの中へと進んだ。


 それほど遠くない場所で怪事件が起こったにも関わらず、クラブ内ではまるで別世界の住人であるかのように、綺麗な装いの紳士たちが会話やカードゲームに興じていた。


 ハーデットがその紳士たちを注意ぶかく観察するのを、その横顔から読み取った。そして彼は何かに納得したように、口の端をかすかに持ち上げながら小さく首を動かしたのだった。続いて壁にかかった肖像画や、置き物に目を走らせながらゆったりとした歩調で歩き、黒い大理石やダークウッドの装飾が施された荘厳そうごんなデザインの暖炉の前で立ち止まった。


「おや」

 暖炉を見たハーデットが何かを発見したらしい声を発した。そして立てかけてある火ばさみで小さな紙片をつまみ上げ、それを慎重に観察した。

「それはなんです?」

「どうやら手紙のようだよ」


 ハーデットが私に見せてくれた、ところどころ黒焦げた紙片。かろうじて『報酬につきましても』という言葉だけ読むことができた。


 ハーデットはその紙片をポケットにそっと仕舞い込むと、クラブの奥に向かった。


 先ほどまでいた談話室とは別に玉撞室たまつきしつや読書室などの専用室が設けられていた。なかでもハーデットが興味を示したのは葉巻室だった。


「この部屋だけ、暖炉が使用された形跡がある。このクラブには来訪者の記録が残らない密室があるのだが、最近クラブに入ったばかりの新参者に利用資格はないだろう。それにほら、葉巻の吸い殻も新しいようだ。一本は高級品、もう一本は安物だね。我々の被害者像、犯人像ともに一致するじゃないか」

「私には同じ葉巻にしか見えないのですが……」

「当然さ、知識がないのだからね」


 さて、と言ってハーデットは部屋の調査を始めた。彼は室内を一瞥しただけで、既に行動の方針を定めていたように見えた。腕の良い医者が患者の病気を言い当てたり、熟練の時計職人が歯車の狂いを一目で見抜くかのように。


 まず、彼は窓際のカーテンへと歩み寄り、そのすそにかかる埃の具合を確かめた。次に、壁際に並ぶ葉巻箱の配置と、それぞれの埃の沈着具合とを比較した。

 次に暖炉脇の安楽椅子へ向かい、その革張りの表面をじっくり観察したあと、なぞるように指を走らせた。


 彼がカーペットにひざまずき、その毛足に掌を這わせたとき、私は思わず目を見開いた。端正な顔立ちの紳士が、這いつくばり、まるで愛玩の品を扱うかのように顔を寄せ、微細な痕跡を丹念に探るその光景は、見る者に一種の錯覚すら催させた。彼の優雅さと、執念にも似た動作との落差が、私の胸に奇妙な戦慄を呼び起こしたのである。


「ふふ、毛並みまでは気が回らなかったか」


 低く抑えられた声は、独り言とも報告ともつかぬ響きを帯びていた。私は問うことも忘れ、ただ黙って見守るばかりであった。


 最後に彼は黒檀こくだんあでやかな木肌きはだが目を引く荘厳な柱時計の前に移り、そこに立ち止まって思索に沈んだ。その姿は、まるで古代の碑文ひぶんを読み解く学者のようであった。

 彼は慎重に、振り子を覆うガラス窓を開いた。細い指先が静かに振り子の円盤へと触れる。黄金の面は、長年の時を刻んできたかのように鈍く光を宿していたが、ハーデットはそれをゆっくりと奥へ押し込んだ。


 すると細工された窪みが円盤を捉え、その動きを止めた。


 奥に沈み込んだことで窪みの縁が覗き、満月のように輝いていた円盤の前面に黒い影が差し掛かる。


 まるで夜空に浮かぶ月が、静かに蝕まれていくかのようであった。エクリプス・クラブの象徴たる月蝕の姿がそこに現れたのだ。


 乾いた小さな金属音が、室内に虚ろに響いた。ハーデットはわずかにうなずくと、柱時計の側面に手をかけ、確かめるようにゆっくりとそれを引いた。


 重々しい機構が音もなく応じ、時計はまるで古びた扉のように静かに開いていった。


 我々の眼前には隠し通路が闇の中へと伸びていた。


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