第3話 最初の推理
「おい、あまりやり過ぎるなよ」
「おっと! これは失礼。エヴァンスさんはずいぶんと神経が参っているようだね」
私は半ば担がれるように、ボウマン刑事に肩を借りながら玄関に入った。
「あ、あなたは一体?」
「驚かせてしまい申し訳ありません。私は探偵です。物事を分析し、論理的に推理を展開するのは探偵術の初歩でして、いつも自己紹介がわりにこうした一芸を披露する習慣があるのです。とはいえ私は奇術師ではございませんので種明かしを致しますと、名前は先ほどボウマン刑事が大声で叫んでいたのを聞いただけのことなんですよ」
声色や口調から、どうです、ばかばかしいでしょう? とでも言いたげなハーデットは恐らく私が笑い出すのを予想していたと思われるが、私はすっかり感心してしまった。
たしかに私が柱に突っ込みそうになったときボウマン刑事が私の名前を叫んでいた。
「そんなに大きい声だったか」
「犬が吠えたのかと思ったよ。ボウマンからバウマンに改名したほうが良いかもしれないね。犬だけにバウバウといった具合でさ」
「じゃ、じゃあ、私がダイエットをしているというのは?」
二人のやり取りをさえぎるように尋ねてしまった私の不作法に気を悪くする様子もなく、なめらかな声で回答してくれた。
「あなたが締めているベルトに、自分で穴を開けた痕跡があります。また、それが当時の流行の品で、且つ年期も相応に入っているとなれば学生時代から愛用していることは明白です。それに、手のひらには出来たばかりの豆が、高重量のウェイトを扱ったときに出来る特徴的な豆があります」
「な、なるほど」
最初は魔術師の家にでも迷い込んだのかと思ったが、たしかに彼がおどけて見せたように、推理の根拠を聞いてしまえばなんということは無いとわかる。しかし瞬時にそれを観察し、推理を繰り広げる早業は人間を超越しているように思われた。
私の口から次の言葉が出てこないと悟ったのか、懐中時計をちらっと見たボウマン刑事が引き取った。
「エヴァンスさん。紹介が遅れましたが、彼は諮問探偵のハーデットです。時々、警察が彼に助言を依頼しているんです。あまり時間もないので、そろそろ本題に入りましょう」
「殺人かい?」
「わからない。そこも含めて捜査を依頼したい」
「わかった。エヴァンスさんもボウマン刑事も、暖炉の前へどうぞ」
「悪いがハーデット、我々にそんな悠長にしている余裕はないんだ」ボウマン刑事はかぶりを振って、「一刻を争う事件だから、今すぐきてほしい」
「急ぐ事と焦る事は似て非なるものだよ、ボウマン刑事。事件が発生してから君たちがここへ到着するまで……そうだな、一時間といったところかな? ふむ、その顔は当たりだね。一時間ということは、聞き込みや現場検証など十分に行う前から僕のもとへ駆けこんできたことになる。つまりは一見して奇怪な難事件ということになるだろう。現場に向かう道中、神経を尖らせて必要以上の労力を費やしながら、確認漏れなどのリスクを背負ってまで得たその時間に、果たして見合うだけの価値はあるだろうかね。今ここで、状況を冷静に整理してから動いた方が、現場で十倍の成果をあげられると僕は信じている」
彼の声には誇張も気負いもなかった。ただ確信に満ちていた。
諦めたようにため息をついたボウマン刑事が家の中に入ったのに私も続いた。ボウマン刑事は濃紺のグレートコートを、私は黒のオーバーコートを脱いで吊るし、すすめられた深紅のベロア生地の深い肘掛椅子に収まった。
見たところリビングルームだが、羊皮紙やインク、革のカバーの香りから書斎のようなにおいがした。黒い大理石のマントルピースが張り出した暖炉もあかあかと燃えており、冷え切った顔にさっと血の気がさした。
「エヴァンスさん、よろしければミントティーはいかがです? 気持ちが落ち着きますよ」
「ああ、はい。では遠慮なく」
台所へ消えたハーデットは、間もなくして湯気の立つカップ二つを持って戻ってきた。渡されたカップからは爽やかなミントの香りがした。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ボウマン刑事はいつも要らないと断っているのか、自分のカップが無いことには触れず事件の概要を説明し始めた。
「今から一時間ほど前、グリムウォード・ブリッジにて、すでに死んでいたと思われる男が空中浮遊したのち、川に落下した」
ボウマン刑事の簡潔な説明に、微かにではあるが、ハーデットの表情が変わった気がした。いやむしろ、変わったのはその目つきだろうか。口元は相変わらずうっすらと笑みを浮かべているが、眼光だけがギラリと光っているような、そんな鋭さを感じさせた。
「なるほど、怪異だね」と言ったハーデットはカップに口をつけた。
「エヴァンスさん、あれを出して頂けますか」
「わかりました」
ボウマン刑事に促された私は、サッチェルバッグの中から一枚の画用紙を取り出すとハーデットに手渡した。
「エヴァンスさんが目撃した事件発生時の絵だ。かなり細かく描かれている。これがあったから、まずお前に見せようと思って飛んできたんだ」
「英断だよ。さすがはボウマン刑事だ」
ハーデットがまじまじと見ている画用紙には、カンテラを手にして、ぐったりと俯きながら浮いている被害者が鉛筆で描かれている。タキシード、ドレスシャツ、ボウタイにオックスフォードシューズという服装はもちろんのこと、ガス灯に照らされた街路、近隣の建物、見物人の様子まで細かく載っている。
「ああ、あなたがエンパイア・ポストの新しい挿絵画家ですか」
「ええ、そうですが……どうしてそれを?」
「私は主要な新聞にはすべて目を通しているのです。そんなことよりも、これは事件発生時のものとのことですが、それは本当に厳密なのですか?」
「見たものをその場でデッサンすることには自信があります」
目にした光景を、そのまま紙に落とし込む。これは私が唯一ひとに誇れるものだ。普段はもっと控えめに言うのだが、彼の推理力への対抗心からか、私はすこし声を張っていた。
「ふむ、なるほど。人間射影機ですか。面白い」ハーデットは絵をじっと見ながら考え込み、「まず僕の知っている何点かの特徴を確認してみたが、見事に合致していた。今日のあの時間帯の特徴と違和感のある通行人や店もない。旗のなびき方も、今日の風の吹き方と相違ない。したがって、この絵は本当に事件発生当時の光景を写し出したものとする。
そうなると、この男は宙に浮いているのではなく、吊るされていることがわかる。死体の姿勢や服のシワの方向が重力と一致していないからね。ここまでわかれば、あとは事件現場でいくつか確認をすれば事件はすぐに解決までいくよ。エヴァンスさん、被害者の顔を描くことはできますか?」
私には超自然現象にしか見えなかったあの事件に対して、ハーデットは一気に目と鼻をつけてみせた。その手際に面食らってしまったせいか、彼から質問を受けているにも関わらず少し返答が遅れてしまった。
「ええ、はい。ただ、私が厳密に絵に出来るのは、その出来事を見てからおよそ十五分以内でして」
「大丈夫、思い出せる範囲で構いません」
私はサッチェルバッグから鉛筆と画用紙を取り出し、さっと描いたものをハーデットに渡した。彼は絵を受け取って満足そうに礼を言うと、グレンチェックの茶色いロングコートを羽織って私の絵を二枚、畳んで内ポケットに忍ばせた。
「エヴァンスさんも、よろしければご同行を願えますか」
「えっ、私もですか?」
「そうです。目撃者の同行によって解決が容易になったケースを私はいくつも知っているのです」
私の役目はもう終えたものと思われたし、早く家に帰って休みたい欲求もあったが、同時に好奇心も抱いていた。それはこの事件に対するものではなく、この自信家の探偵の仕事ぶりのほうにだ。
「わかりました。ではご一緒させていただきます」